神戸大震災から27年。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
テレビから伝えられる映像のあの悲惨さは能吏にも焼き付いている。
当時は勤めていて
能卒中の父に5時には朝ご飯を食べさせ出勤もしていた。
テレビの悲惨さは連日のように報道され火事の風景三宮の変わりゆく風景が頭から離れ
はしない。
この青空のどこかで繰り広げられている風景はこの世のものとは思えなかった。
なけなしのお金3万円寄付したことも初めてだ。
27年たった今どれほどの思いが残されているというのか…
私も全盲となり暮らしぶりは様変わりしてしまっている。
【朝晴れエッセー】生きる・1月17日
あの地震から、もう27年になる。
その1年前より、父は人工透析を受けていた。案の定、病院から連絡があり、病院も被
災し、透析室は閉鎖を余儀なくされたとのこと。復旧するまでの受け入れ先として、京
都の病院を紹介された。
翌日、物が散乱したわが家が気にかかりながらも、車で京都に向けて家を出た。普通な
ら2時間ぐらいで行くところを国道9号は大渋滞で、6時間もかかってやっと着いた。
主治医の先生は優しかった。私たちが地震の瓦礫(がれき)の中から助け出されて、やっ
と、ここにたどり着いた者のように慰めてくださったのだ。そして父に「Yさんは元気
なんだから自分の足で歩いたら、世界が違って見えますよ」と言われた。
先生が父に奮起を促すことばをかけてくださり、また、前日テレビで見た神戸の町の惨
状が父の心を動かしたのかもしれない。
私が帰ってから父は自分から歩行のリハビリを願い出たらしい。透析を受け、リハビリ
に精を出し短期間に歩けるようになったことは奇跡に思えた。先生が言われたように父
は、車いすから見るのとは違った世界を見ることができたのだ。
病院も復旧したので京都の病院でお世話になったのは10日余りだった。父は地震の後
、1年間、透析を受け85歳で他界した。
あの地震を思い出すとき、まさに緊急事態の中、手厚い医療を受け、あたたかい人に支
えていただき、父が生を全うできたことに感謝のことばしか浮かんでこない。