相田みつお、その人。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
おはようございます。
そこここで大雪予報が報道され、立ち行けない渋滞も聞かれ
なんとなく自然の厳しさに脱帽です。
京都では雪化粧がみられたという。
窓越しにそそぐ日差しに感謝です。
去年は温暖化でスキー場の閉鎖はあちこちで聞かれたものを…
熱すぎた真夏のマスクが苦しかった時期から
マスクが湿り気をもたらし、保温も期待できマスクの着用がとっても楽にもなりました
。
相田みつおさんといえば暦の顔。
この人の暦を期待する人は多いいと思います。
みこちゃんが一番敬愛する言葉は
「つまずいたっていいじゃないかにんげんだもの』」この言葉は
私のライフポリシーとしていつも慰められています。
障害を抱える中で目の前にはいくつもの大きな石や小石がさんせき。
これらにつまずくたびにぼやき慰められています。
それなりの覚悟の生き方はマイペース。
生い立ちに接し、本気度で生きてる人間の姿もあるのかと
涙を持って読ませていただきました。
相田みつおさんは1901年の12月に自転車事故の結果、脳内出血で亡くなられていま
す。
相田みつおの生い立ち
詩人・書家として知られる相田みつをは、1924年5月20日に栃木県足利市で生まれた。本
名は光男。雅号、貪不安(ドンフアン)。父は刺繍職人。6人兄弟の3男であり、相田
は次兄・幸夫(ゆきお)をよく慕っていた。相田がまだ3、4歳の頃、小学生の幸夫が
よく紙芝居を見に連れ出してくれた。その際、家が貧乏で飴を買わずに遠くからタダで
見ていた為、あるとき幸夫が紙芝居屋に襟首を掴まれ引きずり出され、皆が見ている前
でぶん殴られた。兄一人なら逃げることができたが、幼い弟がいるため捕まったのだ。
幸夫は殴られても泣かずにじっと弟を見つめ、紙芝居屋は「強情なヤツめ」と何度も殴
った(『歯をくいしばってがまんをしたんだよ 泣くにも泣けなかったんだよ 弟のわ
たしがいっしょだったから』)。
幸夫は新聞社の模擬テストで県一番に輝いた秀才だったが、家計を助けるため長
兄・武雄と同様、小学校を出た後は費用の掛かる旧制中学に通えなかった。そし
て2人
の兄の稼ぎのおかげで4人の弟妹たちが中学に行けた。相田が中学に進むと幸夫
は懇々
と諭した。「みつを、中学校ってのは下級生を殴るという噂を聞いたけれども、
無抵抗
な下級生を殴るのは一番野蛮だぞ。無抵抗なものを絶対に殴るなよ」「足袋の穴
は恥ず
かしくない。その穴から太陽を見ていろ」「どんなにひもじくても、卑しい根性
にはな
らないでくれ」。
そんな優しい兄たちの人生を戦争が狂わせた。
1937年、13歳のときに日中戦争が勃発し、最初に幸夫が兵隊にとられた。出征前
に幸夫は弟に言う。「お前なあ、男として生まれてきた以上、しかも中学校に我
々の働
きで行かせてやったんだから、自分の納得する生き方をしてくれよ。世間の見て
くれと
か、体裁よりも、自分の心の納得する生き方をしてくれよ」。
幸夫は北京で憲兵隊に回され、自身の調書の書き方ひとつで中国人は即死刑にな
った。ある日、幸夫から「読んだら燃やせ」「この戦争は間違っていた」と秘密
の手紙
が相田家に届いた。「自分はいま思想犯の調書を書いているが、捕まえてくるの
は北京
大学の学生が多くみんな秀才だ。弟を見るようでとても殺すに忍びない。彼らか
ら“ど
う理屈をいっても武器弾薬を持って他人の国に入って来るのは根本的に間違って
いる”
と言われると二の句が継げない。中国の将来性のある青年を銃殺刑にするのは可
哀相だ
から、なんとか自分の配慮でみんな無罪釈放できるように調書を書いている」。
1941年8月(17歳)、相田家に悲痛な電報が届く。「相田幸夫殿、山西省の戦闘
において、左胸部貫通銃創を受け、名誉の戦死」。弔問客が帰った後、母は幸夫
の遺影
に向かって叫んだ。「幸夫、なんで死んだ、勲章も名誉も母ちゃんはいらない、
おまえ
さえ生きて帰ればなんにもいらない、ユキオ!!ユキオ!!ユキオー!!」。
その後、幸夫の死を看取った戦友Tから手紙が届く。幸夫は撃たれた後2時間ほど
生きており、しきりに故郷の親兄弟を心配していた。「死んでゆく自分はいいけ
れども
、両親や弟妹たちの嘆き悲しむ様を想うとそのことが一番つらい」。そして戦友T
は“読
んだら必ず焼却して欲しい”と断った後、兄の最期の言葉を記した。「戦争とい
うもの
は人間の作る最大の罪悪だなぁ……」。同年12月、新たに日米開戦となり、今度
は長兄
・武雄が兵隊にとられ、1944年5月「ビルマにて戦死」と訃報が届いた(当時、
では『インパール作戦』の最中。当作戦の日本軍死傷者は5万以上。死者は大半
が餓死
。武雄もこの作戦で犠牲に)。母は2人の子どもを奪われて気も狂わんばかりに
なり、8
5歳で没した際も、臨終前に「武雄!幸夫!」と叫び続けていた。
相田は兄たちを失った後、何か困ったことがあると墓参りに行き「あんちゃんな
ぁ、どっちの道選んだらいいかなぁ」と石塔と相談するようになった。「私は何
かに迷
うと、もし、あんちゃんたちが生きていたら、自分がどういう生き方をすれば喜
んでく
れるだろうかと考えるんです。そして、いつでも、あんちゃんたちが喜ぶ方の道
を選ぶ
んです。私は今日まで、あんちゃんたちに守られて、こういう人生を生かしても
らって
きたのです」。
※相田みつを『三人分』より~「三人分の力で頑張れば どんな苦しみにも耐え
られるはずだ 三人分の力でふんばれば どんなに険しい坂道でも 越えられる
はずだ
三人分の力を合わせれば どんなに激しい波風でも 何とか乗り切れるはずだ
そし
て 三人分の力を合わせれば 少なくとも 人並みぐらいの仕事は できるはず
だ た
とえ私の力は弱くとも…」「三人分とは 一人はもちろんこの自分 気の小さい
力の
弱い だらしのない 私のこと あとの二人は 戦争で死んだ二人の兄たちのこ
と 豊
かな才能と体力に恵まれながら 戦争のために 若くして死んで行った 二人の
あんち
ゃんのこと 学問への志を果たすこともなく 人並みの恋の花すらさかすことな
く 青
春の固い蕾(つぼみ)のままで死んでいった 二人のあんちゃんのことです わ
たしの
仕事は いつもこの二人のあんちゃんといっしょ だからわたしの仕事は 三人
で一ツ
です」。
戦時の中学には必須科目に軍事教練があり、相田の通う学校には教官として軍か
ら少佐が直接派遣されていた。前任者のときに、相田から筆を借りた友人たちが
、その
筆を使って日の丸に映画女優の名前を書いた事件が起き、朝礼で犯人探しが行わ
れた。
友人たちはシラをきり黙り込んだが、相田は筆を貸した責任を感じ名乗りをあげ
た為、
「アカ」として教練不合格になっていた。相田は新しい教官から、兵器庫の屋根
を傷つ
けたイタズラ犯と決めつけられ、全く無関係なのに体罰を受けた。身に覚えがな
い相田
は罪を認めず、激怒した教官は軍刀を抜いた。
「貴様は上官の俺に反抗するのか!上官に反抗するのは天皇陛下に反抗するのと
同じだぞ!」「自分ではありません。殺されても自分ではありません!」。この
時の相
田は教官と刺し違える覚悟だったという。殺気を感じた教官は刀を納めた。相田
は“天
皇の名前さえ出せばどんな無理でも通った時代”と振り返る。
「たとえどんな生徒であっても、自分の持っている権力を笠に着て相手の人格を
全面的に抹殺するような叱り方は、一生恨みを残すだけで、何の効果もありませ
ん。人
間を育てる教育者としては最低だと思います。(略)そして、こういう人間の一
番始末
におえないことは、威張り散らすそのことを“勇ましくてカッコいい”と、本人
が思っ
ていることです。戦時中の軍人の中には、そういう単細胞がいっぱいいたのです
」。
1942年(18歳)、市内の寺で行われた短歌会にて、生涯の師となる曹洞宗高福寺
の武井哲応老師と出会い、在家のまま禅を学び始める。続けて歌人・山下陸奥に
師事し
、19歳からは書家を志して岩沢渓石に師事した。20歳で軍に召集されたが出征前
に敗戦
を迎える。間もなく相田は書の才能を開花させ、1954年(30歳)、書道界で権威
ある『
毎日書道展』に入選を果たした。同年、相田は足利市で初の個展を開き、千江夫
人と結
婚する。この後、技巧派の書家として『毎日書道展』に7年連続で入選している
。
30代になった相田は、伝統的な書で高評価を得つつも、閉鎖的な書道界に違和感
を持つようになり、シンプルで短い「詩」をぬくもりのある易しい字体の「書」
と融合
させた独特の作風を完成させた。
相田は書道教室を開いていたが、妻と2人の子を抱えて生活費が足りず、“ろう
けつ染め”を学んで風呂敷や暖簾を制作したり、地元商店から包装紙デザインの
注文を
とるなどしてギリギリの生活を送っていた。「私は、誰とも競争しない生き方を
したか
った。私の学んだ禅の教えは、勝ち負け、損得を越えた世界を生きることにあっ
たから
だ」「不思議なもので真剣に歩き続けていると、いつかは仕事をくれる人にめぐ
り逢え
る。世の中はそういうもんです」。
1960年12月。相田は『私がこの世に生まれてきたのは、私でなければできない仕
事が何か一つこの世にあるからなのだ。それが社会的に高いか低いかそんなこと
は問題
ではない。その仕事が何であるかを見つけ、そのために精一杯の魂を打ち込んで
ゆくと
ころに人間として生まれてきた意義と生きてゆく喜びがあるのだ』と書く。男36
歳、覚
悟の言葉だ。
1974年(50歳)、仏教学者・宗教家の紀野(きの)一義がベストセラー『生きる
のが下手な人へ』の中で相田のことを紹介。また1984年(60歳)の初詩集『にん
げんだ
もの』がミリオンセラーとなって相田ブームが起きた。3年後に刊行した第2詩集
『おか
げさん』(1987)も約25万部のベストセラーとなり、各地での講演も増えた。あ
るとき
講演先で、相田は反物の行商をしていた亡き父を知るお婆さんに「あなたのお父
さんは
仏さまのような大変いい人でした」と言われた。相田いわく「私は涙が出るほど
腹の底
から嬉しかった。親の財産というのは、何も遺(のこ)さなくていいけれども、
“あん
たのお父さんは大変いい人でしたよ”という、その一言が、我が子に残す一番い
い財産
じゃないかと思うんです。私は、こんな嬉しい言葉を聞いたことがありませんで
した」
。
2つの詩集が話題になり、長年の苦労が報われたその矢先に悲劇が訪れる。1991
年、自転車を避けようとして転倒し足を骨折、さらに脳内出血を起こして12月17
日に足
利市内の病院で急逝した。享年67。相田は成功後も作品制作に妥協せず、印刷に
よる墨
の微妙な色の変化や、印刷位置の小さなズレを理由に、印刷済みの色紙千枚を廃
棄した
ことも。長男・一人との最期の会話では「一文字を書いた大作だけを集めた展覧
会を開
きたい」と夢を語っていたという。
他界翌年に自伝的な遺稿集『いちずに一本道いちずに一ッ事』が出版され、翌々
年には遺作集『雨の日には……』が刊行された。没後5周年の1996年、銀座に『
相田み
つを美術館』が開館(後に丸の内・東京国際フォーラムへ移転)。以降も日本各
地で展
覧会が催され、『生きていてよかった』(1998)、『じぶんの花を』(2001)と
出版が
続き、多くの人々から愛され続けている。※2006年時点で作品集とカレンダーは8
00万部
を超えるベストセラーになっている。
下記の言葉はとある病院に展示…
雨の日を天気の良い日と比べて悪い日だと思わない、雨の中を雨と共に生きる。
風の日には、風の中を一緒に生きていく。
常に前向きに、積極的に生きる。
雨や風は、次から次へと起きてくる、人間の悩みや迷いのこと。
その通りだと思う。幸福は、自分で決めるものだ。