昭和の大作、「寅さん」。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

 寅さん」といえば松竹のお正月映画として、お正月を楽しみとして

映画館に通った昭和の名作ではないのか…

 「寅さん」」は私生活を明かすことなく、この映画一本に絞り人生を完結

したのではなかろうか…

監督はおっしゃっています。

映画の連続シリーズものの最長寿作品としてギネス・ブックにも登録された「寅さんシ

リーズ」ほど、昭和の日本を象徴する映画はないでしょう。しかし、「寅さん映画」4

8本を世に出した監督の山田洋次は、これほど長くこのシリーズが続くことになるとは

思ってもいませんでした。

「もうそろそろ幕を引かねばいけない。渥美さんを寅さんという、のんきで、陽気な男

を演じるというつらい仕事から解放させてあげなければいけないと、しょっちゅう思い

ました。しかし、四分の一世紀にわたって松竹の正月映画の定番であり続けた寅さんが

無くなるということがあまりにも問題であったこと。そして、もうひとつは、毎年秋口

になると家族のように親しいスタッフが集まって、正月映画をにぎやかに作るという楽

しみを打ち切るのがつらくて、もう一作だけ、いやもう一作だけなんとかという思いで

四十七作、四十八作を作ったのです。・・・・・」

まわりのスタッフも渥美清という俳優に「寅さん」とは異なるキャラクターを演じさせ

たいという思いはありましたが、結局それを実現することができないまま、悲劇的な死

を迎えることになりました。多くの人々が、そのことを無念に思ったことでしょう。

「・・・僕はあなたが寅さんだけではすまない、大きな物を持った俳優さんだと思って

いました。あの笑いと同量の、いやもっとそれ以上の涙を抱えた俳優さんだと思ってい

ました。昭和を描くに足る俳優さんは、あなたしかいらないと思っていた。・・・」

早坂暁による弔辞より

渥美清=寅さん」という図式があまりにも強烈すぎたことには誰もが知っています。

もちろん、そのことをもっとも感じていたのは、本人であり、そのプレッシャーがどれ

ほどのものだったのか。それは彼のこんな言葉にもよく表れています。

「スーパーマンの撮影の時に、見てた子供たちが『飛べ、飛べ、早く飛べ』って言った

ってことだけど、スーパーマンはやっぱり二本の足で地面に立ってちゃいけないんだよ

ね。だから寅さんも黙ってちゃいけないんでしょう。二十四時間、手を振ってなきゃね

。ご苦労さんなこったね。『飛べ、飛べ』って言われても、スーパーマン、飛べないも

んね。針金で吊ってんだもんね」

渥美清

悲しいほど渥美清は「寅さん」でした。しかし、実は「俳優=渥美清」もまた演じられ

たキャラクターのひとつだったことは意外に知られていないかもしれません。「渥美清

」を演じていたのは、東京、上野生まれの病弱で真面目なお笑い芸人、田所康雄という

人物です。そして、「寅さん」という昭和を代表するキャラクターの魅力の秘密は、こ

の田所康雄=渥美清=寅さんという不思議な等式にあるような気がします。では先ず最

初に田所康雄という人物の生い立ちからたどって行きましょう。

<田所康雄の青春>

田所康雄は、1928年3月10日東京上野の東坂に生まれました。その後、1936

年に板橋区に引越し、そこで少年時代をすごしています。父親はほとんど働かず、その

ため、家族は貧しい生活を強いられましたが、母親がしっかりした女性で、子供たちに

はしっかりとした躾がなされていました。父親は会津武家の家系出身だったらしく、

母親も教師をしていたインテリだったようです。

「新聞記者だった親父は独自の人生哲学を持っていたが、世の中には受け入れられず、

仕事もせず家の中でごろごろしていた。おふくろに苦労をかけたまま早死にしたけれど

、本当はインテリで、俺は誇りに思っていたんだ、生きていれば、いろんなことをして

あげられたのに。父子が仲よくしている光景を見ると、うらやましかったよ」

渥美清

小学校に弁当を持ってゆけないほど、貧しかったにも関わらず、彼が悪の道へと進まな

かったのは、そんな誇り高い両親の影響だったのでしょう。

「がんばれ、ふんばれ、されどいばるな」

田所少年、小学校卒業時の寄せ書きより

ただし、彼が学校で真面目に勉強していたかというと、そうではなかったようです。そ

して、その当時の仲間に後に寅さんのモデルになったとも思える原田という少年がいま

した。彼との付き合いが、後の「寅さん」のキャラクターに何かの影響を与えた可能性

は高そうです。

「寅さんを地で行くような男で、田所が芸人になるのだったら、原田がなった方が面白

かったんじゃないかと思う。二人とも勉強している時間より、廊下で立たされている方

が長いぐらいのいたずらだった。成績は原田が一番下で、田所がびりから二番目。でも

私が十五の時、親父の葬式に来てくれたのがこの二人だった。・・・」

田伏昭二(同級生)

<芸人の道へ>

高校に入学するための学力もお金もなかった彼は、職を転々とした後、1946年友人

の父親に誘われて、新派軽演劇の一座に入ります。学校でクラスの仲間を笑わせるのが

得意だった彼は芸人の道を歩み出しました。そして、1951年「渥美清」という芸名

で浅草「百万弗劇場」の専属コメディアンとしてデビューすることになりました。こう

して誕生した「渥美清」というキャラクターは、少しずつ芸の幅を広げ、1953年に

は同じ浅草のフランス座に入り、本格的にコメディアンとして活躍を始めます。

<追記>(2013年8月)

「・・・若き日の渥美さんも当時は無一文でね、それでもその頃からスターのような存

在だった。家はないし、途方に暮れてはいただろうけど、とにかく心根の優しいまっす

ぐな男で、みんなから愛されてたね。人から何か頼まれても、絶対に断ることはなかっ

たって。・・・」

北野武北野武による『たけし』」より

芸人として有名になりだした彼は、当然のように芸能人らしい派手な生活をするように

なってゆきました。ところが、その矢先、彼は体調を崩し、病院で結核と診断され、療

養生活をせざるをえなくなります。

1954年5月春日部にあった朝倉病院に入院した彼は、片方の肺を失い、死の危機を

さまよいます。当時、結核という病は限りなく死に近い病いだっただけに、彼はそこで

一度は自らの死を覚悟したようです。

「右肺取った残りは、余禄みたいな人生。これからはおれ流に生きるんだ」

渥美清

しかし、入院中も彼は俳優として復帰するための訓練を怠りませんでした。死の危機に

あってもなお、彼は俳優として成功することを夢見てたのです。

「農家の人が畑仕事をしていると、ヤッサン(田所康雄)は大きな声で『みなさま一日

お仕事ご苦労さんでした』って声をかけた。こっちは恥ずかしかったけど本人は真面目

な顔。誰もいない時は、『天皇陛下万歳』と叫んだ。『役者は、せりふがはっきり分か

んなくちゃだめだ』って真顔で言うんだ。すごい役者根性だと思った」

植村三郎(朝倉病院の入院仲間)

1956年に退院した彼は、浅草のフランス座に復帰しますが、その頃から彼は、もう

それ以前のような荒れた生活をすることはありませんでした。この時、多くの人が知る

渥美清」というキャラクターが生まれたといえるのかもしれません。酒をぴたりと止

めた彼は、規則正しい生活をしながら勉強熱心な役者へと変身を遂げてゆきました。彼

にはもう生き方についての迷いは無くなっていたのでしょう。

「今までの役者人生がすべてうそで、原点の浅草に戻って振り出しからスタートしても

俺は平気だよ」

「役者ってのはね。崖っぷちを歩いているから、常に神経を研ぎ澄まさないといけない

んだよ。どんなに人気があっても、油断するとすぐに落っこっちゃうんだ。一家団欒の

安穏とした生活はだめなんだ」

1957年、フランス座をやめた彼は、映画やテレビにコメディアンとして出演し始め

ます。さらに翌年には、関敬六谷幹一とお笑いトリオ「スリーポケッツ」を結成しま

す。

「渥美やんがマッカーサー蒋介石に化けて、英語や中国語もどきの言葉を速射砲のよ

うにまくし立てると大受けだった。『こいつはきっと大成する。一緒にいれば、自分も

売り出せる』って思った」

関敬六

1961年、NHKの「夢であいましょう」にレギュラー出演するようになり、いよいよ彼

の人気は全国レベルとなります。1962年、酒井欣也監督の映画「あいつばかりが何

故もてる」で初主演。

1963年、彼が主演した野村芳太郎監督の映画「拝啓天皇陛下様」は、代表作となり

、映画俳優としても彼の評価は急激に高まりました。

1965年、彼はドキュメンタリー映画の監督として一時代を築きつつあった羽仁進監

督のアフリカを舞台にした劇映画「ブワナ・トシの歌」の主役を演じるため、アフリカ

・ロケに参加します。アフリカの大地とそこに住む純粋な人々が気に入った彼は、それ

以後も何度かアフリカを訪れています。

「渥美さんは表も裏もない人間だったから。それは最後まで裏切らない人だった。アフ

リカ・ロケでも最後は送別の祝宴まで開いてもらうほど慕われたように、付き合った人

には必ずそれぞれのいい思い出を残す、それぐらいの大きさが渥美さんにはあった。・

・・」

羽仁進

「同級生が『なぜ、出雲大社で結婚式を挙げたんだ』と聞くと、『だってあそこは神様

のルーツだろ』と答えた。『なんでアフリカが好きなんだよ』と尋ねた時は、『われわ

れの祖先はああいう生活をしていたんだろう』と。常に『根っこ』にこだわり続けた。

本人の『根っこ』を訪ねれば、貧困の中で育った板橋の棟割長屋にぶつかったに違いな

い。だからこそ、時折ふらっと人目を避けるように足を運んだのだろう。・・・」

<寅さん誕生>

1968年、彼はテレビドラマ「男はつらいよ」で寅次郎を演じます。その人気を受け

て1969年8月、松竹映画「男はつらいよ」が山田洋次監督によって製作されました

。同じ年、彼は正子夫人と結婚。その後、長男、長女二人の子供をさずかり、田所康雄

は芸能界とはまったく切り離された平和な家庭を築くことになります。

こうして、田所康雄は、自分の目指す理想の俳優像、そして「渥美清」へと変身を遂げ

て行きます。そして、そのために田所康雄というキャラクターを仕事場から消してゆく

ことになります。彼は結婚後、自宅を仕事仲間の誰にも明かさず、仕事を受ける場とし

て、自宅とは別にマンションを借り、そこで仕事のための準備、勉強や台本読みなどを

こなすようになります。あの山田洋次監督ですら、彼がこの世を去った時、自宅がどこ

にあるのか知らなかったため、お参りに行くのに困ったというエピソードも残っていま

す。(彼はマネージャーをもたず、自分でマネージメントもこなしていました)

「渥美は渋谷区代官山のマンションに一室を借り、仕事の連絡に使っていたが、大西は

この部屋を『田所康雄が渥美清に変身する、スーパーマンの着替え場所』と受け取って

いた。また撮影現場では、『渥美から寅さん』『寅さんから渥美』へと変わり身を見せ

る様を目の当たりにした。・・・」

大西洋(松竹宣伝部)

その後も、田所家については、まったくマスコミも情報を得ることはできず、限りなく

謎につつまれたままで、その状況は彼が死んでもなお続くことになります。正子夫人と

いう人もまたただ者ではなかったということなのでしょう。

「寅さんの子だとか、渥美清の子だとか言われると、色眼鏡で見られて育っていくだろ

う。あくまで田所康雄の息子であり娘であり、女房なんだよ。おれがいっぱい金残して

、それで子供たちが育っても意味ないだろう。手前で稼いだ金で自分なりに生きていく

、自分なりの人生を歩むのが大事だよな。親の金で生きて行ったって、自分の人生じゃ

ないよ。渥美清の子供だということで一生通すなんてばかばかしいだろう。そう思わな

いかい」

こうして始まった「男はつらいよ」は、いつしか松竹のドル箱的シリーズとなり、お盆

と正月には「寅さん」を見るという日本人の定番的なライフスタイルすら生み出すほど

になってゆくことになりました。