家族ノカタチ。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

山々には初冠雪のニュースも報道されるほどの季節。

大根のおそまきの間引き菜を いただき上機嫌♪

快晴の中、浦野公園には5人家族が2歳児を交え、大泣きする子に「おうそれそれ」とあ

やすさまは実にほほえましい紅景…

 家族ノカタチは大家族に会っては離婚のケースも少なくそれなりに良いか悪いかは別

として、家族円満な家庭が「当たり前」ととらえられていた

家庭にも、今では仮面夫婦から、離婚にとその道はかなり幅広くもなってきました。

 親の離婚経験は子供の離婚経験につながるケースが多いいような気もしています。

統計的にどうかといえばそれは?

 これは女性が働くようになったことがその引き金となってきているのかもしれません

 でも縁あって家族となり、親子の形も両親から法的他人と

認知されるようになり、その関係性において、子供の意思が反映されることは

ほとんど皆無に近いのでは…

子供のメンタルの責任は親としてどうなのでしょう!

家族のかたちも大家族から核家族へと変化してきています。

今回お話を伺ったのは、彰浩さん(仮名・36歳)。現在、大阪の企業で働いています。

彰浩さんは現在バツ1で、小学校2年生になる男の子のお父さんです。26歳の時に結婚

、そして31歳の時に離婚して、子供は別れた奥さんと一緒に暮らしています。

父親の起業から両親の仲は徐々に悪化していき、中学生の時に離婚へ

彰浩さんは兵庫県出身で母親と4歳下に妹のいる3人家族。彰浩さんが中学生の時に両

親は離婚しており、そこから3人での生活が始まったそう。幼い頃の記憶として残って

いる父親は優しかったと当時を振り返ります。

「家は公団住宅の3部屋ほどの小さいところだったんですが、団地の前に小さな公園が

あったんです。そこでよく父親に遊んでもらっていました。そこはボールを使った遊び

が禁止だったのでキャッチボールの記憶はないんですが、ブランコに乗ったり、砂場で

何かを作ったり、よく一緒に遊んでもらっていた記憶が残っています」

薄っすらと覚えている家族団らんは楽しい記憶として残っているそう。しかし、父親の

勤めていた会社が倒産してしまい、個人で仕事を始めた辺りから両親の関係はギクシャ

クしていったと言います。

「小学生の時に家に帰ると普段は仕事でいない父親が家にいたんですよ。そこから仕事

がなくなったとかの話をされたんじゃないかな。詳しくはまったく覚えていないんです

けど、子供心ながらにこれからの生活がどうなるんだろうと不安になり、泣いてしまっ

たんです。その記憶が今も残っています。

父親は程なくして、同じ会社にいた父の友人と会社を立ち上げるんです。その頃から両

親があまり一緒にいなくなりました。目の前でケンカをすることはなかったけど、夜中

にいつまでも消えない居間の電気や両親の話し合う声がずっと聞こえていましたね。そ

してその頃から父親はあまり帰ってこなくなったんです」

父親があまり帰ってこなくなったのと同じ時期に母親がパート勤務を始めます。そして

そこから妹の世話をするという義務ができて窮屈だったそう。

「母親はずっと専業主婦だったのに、急に知り合いの人に紹介されたと言って、ガス会

社の事務の仕事を始めました。毎日夕方ぐらいまでだったけど、たまに遅くなる日もあ

って。当時妹はピアノを習いに行っていたんです。そこは家からそこまで遠くないけど

小学生が遅くに一人で歩くのは危ないと言っていつも母親が迎えに行っていました。そ

して母親が勤めてからは僕が迎えにいかないといけなくなってしまって。当時は中学生

でバスケ部に所属していたんですが、週1は部活を早退させてもらっていました。母親

に頼まれたから仕方ないとは思っていても、当時はそれが嫌でしたね。1人で行動でき

ないなら習い事なんかやめろよって思っていました」

離婚の直前には母方の祖母がよく家に来たりしていたので、なんとなくもうそろそろな

のかなって思っていました。反対しようなんてちっとも思っていませんでしたね。不仲

になってから3年以上経っていたし、あまり帰ってきていない状態だった父は個人の仕

事場を家にしているようで、すでに別居しているような感じでしたし。

離婚すると両親から話された時も泣きませんでした。それに妹も泣きませんでしたね。

妹もある程度覚悟していたんじゃないかな。その頃は妹ともまったく会話がなくて。反

抗期じゃなかったけど、家族といるより、友人といるほうが楽しかったから、どこか自

分の家のことなのに他人事のように感じていたのかもしれません」

離婚後も父親とは数か月に1回のペースで会う約束をしていたそう。しかし高校生にな

り、父親と会うことの優先順位が少しずつ下がっていったと言います。

「会ったとしても、一緒に食事をして帰るぐらいです。最初は妹と一緒だったんですが

、いつしか別々になり、会う間隔がだんだん開いてきて、最後には大型連休にしか会わ

ないようになりました。その機会でさえ、友人との約束が入ったら断っていましたね」

あの頃の父親がどういう気持ちだったのか。離婚して子供と簡単に会えなくなったこと

で当時の父親の気持ちが見えてきて……。

憎んだ母の手に触れるまで 青木さやかさん、最期の和解

https://www.asahi.com/articles/ASNBV44VGNBNUZVL006.html