政府主催・戦没者慰霊祭。

   ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 大型台風は、当地に「避難準備」情報が伝えられ

 我が家は沿岸地区でないため、「大乗ぐ」と暗示を かけながら

やり過ごしていると、、次第に空が明るくなり

当地に一番影響を受けるころには恐れるどころか

せみの大合唱まで聞かれ、この天候に呆然としているうちに

日本海側にと台風の風力は失われた。

 昨日野黒具で、たいふうのにしがわに影響があると入力しましたが

これは台風の東側の誤りでした。

 新潟、山形、石川県などは[フェーン現象]の影響で

軒並み40度越え…

 何か、日本に警鐘をもたらしているかのようである。

 8月15日

政府主催の戦没者慰霊祭が挙行され

 天皇皇后両陛下が出席され

ごあいさつの中で「深い反省の上に立って

戦争の惨禍が繰り返されてはならない」と

不戦の思いをのべられた。

 日本の照度を焼け焦がした戦争の意義はどこ身もありません。

 被爆者の中には差別にも戦後どれほど苦しめられ

その生涯が終えるまで精神的苦悩は終わりを

体験することなどありえない。

兵士の体験記引用

私は昭和六年一月、野戦重砲兵(やせんじゅうほうへい)第四連帯に入隊、十四年五月

ノモンハン事件に参加のため満州に渡り、ハルピン市に駐留。

さらに東満ムーリン付近の警備に任じ、その后西部国境ハイラルを経てノモンハン「ホ

ロンバイル」付近の戦闘に参加したが、九月十五日停戦協定となり翌十六日には将軍廟

付近に於て全軍の戦没者に対する慰霊祭が執行された。

ノモンハン事件終了后は牡丹江(ぼたんこう)付近に駐留し、その付近の警備に任じて

いた。

処(ところ)が十七年九月に再び南方戦線に転戦の動員下令があり、南太平洋ソロモン

群島 ガダルカナル島ブーゲンビル島ショートランド島、ニューブリテン島、ラバウ

ル、ココボ等の戦闘に参戦したが、これ等の戦闘により数知れぬ戦死者やマラリヤ、栄

養失調等による戦病死者を出し、その悲惨過酷さは何とも言ひ現せぬものであった。

十九年五月頃には米、みそ、しょうゆは全くなくなり主食は甘藷(かんしょ)、芋の葉

、椰子の実、バナナ等のみで調味品は海水を熱して採取した塩、煙草は一月頃よりなく

なりパパイヤの葉等を乾燥し紙に巻いて吸ったりした。又、油は椰子の実の中のコプラ

を絞って作ったものを使用した。

南方ソロモンに於て糧秣(りょうまつ)が絶え、私達はトカゲ、セミ、ムカデ、クモ、

コホロギ等何でも食べるようになった。又、大きいものではワニやナマケモノ等を食べ

た。

考へて見るとこの様なものを栄養食だ栄養食だといって食べていたお陰で多くの兵隊達

が生き残った様に思う。

ソロモン群島のガダルカナル島ブーゲンビル島で特に気をつけなければならないこと

は、湿地帯及び海に注ぐ河口に棲息している「ワニ」である。

河のほとりで洗濯をしていた兵隊が河の中から「ワニ」に尻を食いつかれ尻の肉を食い

とられたり、又湿地帯で浮草の実を食用に採りに行ったものが「ワニ」に水の底に引き

込まれて行方不明になった者もあったと話に聞いた。

その他に食べた動物としてはネズミや黒豚等もある。ナマケモノはジャングルの大きな

樹の枝にぶら下がって居り、その肉は一寸臭みがあるがおいしく食べた。

ネズミの肉はとてもうまい。ジャングルの中の幕舎の周囲を巾(はば)五十センチ深さ

一メートル位掘っておくと、夜幕舎の中に入ろうとするネズミはその壕(ごう)の中に

飛び込むと外に出られず兵隊のエサになってしまう。

気候はソロモン群島の各島々によってその差はあるが一般に四季の別なく常夏の地であ

る。周囲が海に囲まれている関係で非常に湿度が高い。各島の殆どが深いジャングルで

樹木にいたっては二十メートル、三十メートル、乃至(ないし)四十メートル位の大木

が非常に多く一年中青々と繁っており昼尚暗い。

このジャングル内には多くの蚊が棲息しており夜昼となく刺される。特に蚊の一種に「

ハマダラ蚊」というのがいてこれに刺されると必ずマラリヤ病に犯され、四十度前后の

熱が三日も四日も続く。

キニーネ」、又は「アテプリン」等の薬で一應(いちおう)は全快しても常時蚊に刺

されているので又すぐ発熱しこれを繰り返す。そしてだんだんと体がおとろへてゆく。

といって寝てばかりは出来ない。毎日の空襲と地上からの敵に注意しなければならない

雨は内地と違って終日降ることはなく一日のうち一時間位の豪雨が数回ある。即ちスコ

ールである。このように四季の別なく一年中常夏のため甘藷は四ヶ月で一回収穫できる

。従って一年に三回収穫することができた。

私達は南海の孤島で内地からの補給が絶えてから、二年も三年も暗いジャングル内で蚊

や百足(むかで)、サソリ等に悩まされながら自らジャングルを伐採開墾して甘藷を作

り、芋やその葉を食べて自給自足し、絶対的に制空権のある敵機の襲撃に耐えながら戦

闘を続けて来た。

処が絶命の果て最后の決戦をして玉砕するのだと覚悟した時、偶々(たまたま)終戦

なったのである。

斯(か)くして昭和二十年八月終戦となり、全軍がブーゲンビル島の南にある小さい島

のファウル島に集結し、私達将校は更にその南方の小さいタウノ島と云う島に集結して

内地に帰還する日を待ったのである。

ただ帰る日がいつになるかわからないので敵軍でくれる食糧では少なくて足りないので

ジャングルを開墾してサツマ芋を作り始めた。

その時の私達は栄養失調とマラリヤ病や脚気(かっけ)等のためやせおとろえていたの

で、ここまで頑張って生きてきたのだから内地の土を踏むまでは絶対に死ねないと心の

中で思い体の保健につとめた。

翌年の昭和二十一年二月十二日に待ちに待った輸送船が入港した。島にいた兵隊達はみ

んな涙を流し手をあげて喜びあった。

十二日、部隊の生存者は全員がその船に乗り、十四日、出港し、二十四日、横須賀市

浦賀に上陸し、二十七日に復員並に召集解除になったのである。

想えば南方孤立無援の島で約四年間も優勢な敵に対峙し、悪疫と戦い、幾多の戦友を失

いながら、よくぞ生きて帰還できたものと思う時、誠に感激に堪えない。

最后に、私はこのように青春時代を戦争戦争に明け暮れ、それはそれは過酷な時代を生

き抜いてきたが、今后(こんご)あの様な戦争が再び起こらないよう切望すると共に、

この悲惨な事実を私達の子孫に伝えようと思う。

【元陸軍中尉 水上憲寿】

平和の中のすいとんレシピ

◆現代の野菜入りすいとん

 【材料・4人分】鶏もも肉100グラム、ダイコン100グラム、ニンジン50グラ

ム、ゴボウ1/2本、シイタケ2個、ネギ1/3本、コンニャク1/3枚、小麦粉1/

カップ、いりごま(黒)小さじ1、水大さじ4、だし4カップ、酒大さじ1、塩小さ

じ2/3、しょうゆ小さじ2

 【作り方】<1>ダイコン、ニンジンは、3~4ミリの厚さのいちょう切りに。ゴボ

ウは斜め薄切りにし、水にさらす。シイタケは四つに切る。ネギは1センチ幅、コンニ

ャクはあく抜きをして薄切り、鶏肉は一口大に切る<2>鍋にだしを入れ、ネギ以外の

材料を入れる。20分ほど煮て、調味料を加えて味を調える<3>小麦粉にごまを加え

、少しずつ水を入れながら、とろっとした状態になるまでまぜる<4>汁を静かに沸騰

させたまま、(3)をスプーンですくって落とし入れる。浮き上がってきたら、ネギを

加えてひと煮立ちさせる。

◆戦時中のすいとん

 【作り方・2人分】 <1>鍋に湯600ミリリットルを沸かす<2>小麦粉100

グラムにカップ1の水を少しずつ加え、とろっとした状態になるまでまぜる<3>(2

)をスプーンですくって落とし入れる。浮き上がってきたらひと煮立ちさせる<4>し

ょうゆ少々を加える。

◆「野菜の枯葉も食材に」 婦人雑誌が語る食糧難

 食は人々の暮らしぶりを映す鏡。