さがみはら事件、どこかで防げなかったのか??
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
さがみはら事件は多くの問題と、植松容疑者の、まるで自分の犯罪を
正義感の元、だれもが実行できないから、自分がやったと
問題を矮小化することで犯罪の残虐性から逃避しているに過ぎない!
植松は幼児期にすでに事件現場近くに移り住んでいた。
学生時はバスケットクラブに入り勉強も優秀…
平成23年には教員免許の取得のため、母校において
1か月間の教育実習も体験している。
事件の5年くらい前には、深夜母親のなく悲鳴が近所で聞かれ
その半年後には加害者を残し両親は東京に転居…
どの時点で人生の挫折を感じ、多重妄想者に変貌し
そして借金もあったといわれている。
加害者の生い立ち言動から容易に見えてきたものも多くあるはず
Aは帝京大学卒業後の2012年12月1日付で「津久井やまゆり園」に非常勤職員として採用され[4]、翌2013年4月1日から常勤職員として採用されると[6]後述のように退職した2016年2月まで勤務していた[26]。
Aは2012年8月、施設を運営する社会福祉法人「かながわ共同会」の就職説明会に参加し、「明るく意欲があり、伸びしろがある」という判断で採用されたが[84]、採用後の勤務態度には「施設入居者への暴行・暴言」などの問題があったため何度も指導・面接を受けていたほか刺青を入れる・業務外の問題行動も散見された[84]。Aは2015年6月ごろから尊敬していた彫り師に弟子入りして本格的に彫り師修業を始めていたが、同年末ごろに「障害者を皆殺しにすべきだ」と発言するなどの異常な言動が見られたことから彫り師から「ドラッグを使用している可能性が濃厚だ」と判断され破門された[85]。
Aは2016年2月中旬ごろに衆議院議長公邸を訪れて衆議院議長の大島理森に宛てた『犯行予告』とされる内容の手紙を職員に手渡した[86]。
「津久井やまゆり園」と同県厚木市内の障害者施設の2施設を[87]標的として名指しした[88][89]。実際に被告人Aは「津久井やまゆり園を襲撃した後で厚木市の障害者施設も襲撃するつもりだったが、やまゆり園で拘束しようとした職員に逃げられて失敗したため『警察に通報される』と思った上に『やまゆり園だけでも結構な人数の殺傷行為ができた』と考えたためため断念した」と述べている[87][90]。
具体的な手口として「職員の少ない夜勤に決行する。職員には致命傷を負わせず結束バンドで拘束して身動きや外部との連絡を取れなくする。2つの園260名を抹殺した後は自首する」などの内容が記されていた[86]。
そして「『逮捕後は心神喪失で無罪として2年以内に釈放して5億円の金銭を支援し自由な人生を送らせる。新しい名前として“伊黒崇”を与え整形手術をさせる』などの条件を国から確約してほしい。日本と世界平和のためにいつでも作戦を実行するつもりだ」という要求もあった[86]。
またAは2016年2月に安倍晋三首相宛の手紙を自由民主党本部にも持参していた[91]。
事件を受けて7月26日、衆議院事務総長・向大野新治が記者会見し[86]、手紙を受け取った経緯などを説明した[92]。それによると、Aは2月14日午後3時25分ごろに議長公邸を訪れ、書簡を渡したいと申し出たが受け入れられず、土下座をするなどしたため、警備の警察官が職務質問したところ、そのまま立ち去った[92]。その後、男性は翌日午前10時20分ごろに再訪し[92]、正門前に座り込むなどしたため[93]、衆議院側で対応を協議して午後0時半ごろに手紙を受け取ると、ようやくその場を立ち去った[92]。手紙に犯罪を予告するような内容があったため、衆議院の事務局が警察に通報し、手紙を提出[92]。向大野は「すぐに大島議長の指示をあおいで警察に連絡しており、適切な対応だったと考えている」と述べた[92]。この手紙について、警視庁は同15日中に津久井署に情報を提供した[88]。
Aは2016年2月17日、LINEで同級生らに「重度の障害者たちを生かすために莫大な費用がかかっている」などと自説を展開するメッセージを一斉送信し、その後直接電話を掛けた同級生には犯行への加担を要求したり、反論した友人に「お前から殺してやる」と脅したばかりか[94]激怒した友人から「ふざけるな」と殴られても考えを改めなかった[95]。
さらにAは2016年2月18日の勤務中に同僚職員に「重度の障害者は安楽死させるべきだ」という趣旨の発言をして施設側から「ナチス・ドイツの考えと同じだ」と批判されたが[96][97]、その主張を変えなかったことから[注釈 4]、翌19日に同施設が警察に通報し、これに対応した津久井署は「Aが他人を傷つけるおそれがある」と判断して相模原市長精神保健福祉法23条に基づき通報を行った[102]。同市は、措置診察を行うことを決め、1人の精神保健指定医が「入院の必要がある」と診断したため[102]、精神保健福祉法に基づいて北里大学東病院へ緊急措置入院を決定した[93]。Aは同日、勤めていた同施設を「自己都合」により退職した[27]。さらに、翌20日には尿から大麻の陽性反応が見られ[102]、22日に別の2人の精神保健指定医の診察を受けたところ、指定医の1人は「大麻精神病」「非社会性パーソナリティー障害」、もう1人は「妄想性障害」「薬物性精神病性障害」と診断[103]。市は同日、Aを正式な措置入院とした[93]。指定医は「症状の改善が優先」などとして警察には通報せず、市は3月2日、医師が「他人に危害を加える恐れがなくなった」と診断したため、Aを退院させた[93]。
Aは2016年2月ごろに「ニュー・ジャパン・オーダー(新日本秩序)」と題して「障害者殺害」「医療大麻の解禁」「暴力団を日本の軍隊として採用」などの計画を記した文章を書き記していたほか同級生に対し「革命」という言葉を繰り返し使っていた[104]。
なおAは「イルミナティ」と呼ばれるカードゲームの愛好者で「『1001』は聖なる数字だ」という考えから本来は2016年10月1日に施設襲撃を計画していたが[105]、事件前日の2016年7月25日未明に相模原市内で知人男性2人と会った際にうち1人から「自分が狙われている」と感じたため実行前倒しを決断した[5]。
『日本経済新聞』の報道によれば「事件前日に『暴力団関係者と親交があるとされる知人』から『お前は暴力団組員に追われている』と告げられたことが心理的な圧力になり、襲撃を翌日に前倒しするとともに襲撃できなくなることを危惧して(後述の件で)津久井署に出頭し自動車の鍵を受け取った後、周辺のホームセンターで結束バンドを購入したり自宅から包丁を持ち出したりして犯行を準備した」[105]。
『朝日新聞』の報道によれば「自分は大麻の合法化を訴えているので大麻を資金源にしている暴力団から狙われている。殺される前になるべく早く事件を決行しなければ」という思い込みから実行前倒しを決意した[106]。
Aは知人2人と別れた後、バスなどで京王線の駅に向かい、始発電車で新宿駅に向かった[5]。同日午前、新宿の漫画喫茶で仮眠を取り、昼ごろに相模原市内のファストフード店に車を放置したとして母親を通じ津久井署から呼び出しを受け電車で相模原市に戻った[5][105]。Aは車を引き取った後、自宅から包丁などを持ち出し[5]、東京都内のホームセンターでハンマーや結束バンドなどを購入して犯行の準備をした[5][105]。その後Aは車で再び都内へ向かい、新宿のホテルの一室を借りて室内で頭髪を金色に染めた[5]。午後9時ごろにAは好意を寄せていた知人女性と待ち合わせて高級焼肉店で食事し、その際に女性に障害者襲撃計画を話した[5][6][107]。食事後、Aは都内のホテルに滞在してから相模原市に戻り、翌26日午前1時ごろにホテルを出て車で「津久井やまゆり園」に向かい、2時ごろに園内に侵入して凶行に及んだ[5][107]。
Aは犯行後、津久井署へ出頭する直前の午前2時50分にTwitterに「世界が平和になりますように。beautiful Japan!!!!!!」という内容のツイートを[6][4][108][27]、自撮り写真を添付してTwitterに投稿していた[109]。Twitterは2014年11月に開始したが、投稿は意味不明なものや幼稚なものが多く[110]、Twitterアカウントのプロフィールページのヘッダー画像には「マリファナは危険ではない」と書かれた画像が使用されていた[108]。Aは車で出頭する途中、コンビニエンスストアに立ち寄ってトイレを利用し、そこで手や腕に付着した血を洗った後、千円札で菓子パンを購入していた[29]。コンビニの防犯カメラの画像などから、犯行時と出頭時は同じズボンとシャツを着用しており、服には血も付いていたという[29]。
Aは逮捕後の26日夜、取り調べの中で「突然のお別れをさせるようになってしまって遺族の方には心から謝罪したい」と遺族への謝罪の言葉を口にしたが[15]、一方で被害者への謝罪は行っておらず、障害者に対する強い偏見を表す形となった[15]。Aは麻薬と覚醒剤の尿検査には応じたが、大麻使用の尿検査を拒否したため[15]、強制採尿した結果[111]、大麻の陽性反応が出た[101]。
神奈川県警が27日にA宅を家宅捜索した結果[112]、微量の植物片が見つかり[113]、分析により大麻であることが確認された[114][115]。
さらにAは、障害者を「税金の無駄」と揶揄する一方で[116]、自らは事件前、3月24日から31日の8日間にかけて生活保護を受給し、それを遊興費として浪費していた、数百万円の借金があったという報道もなされている[41][117][118][119][120]。Aは3月24日に福祉事務所の窓口を訪れ「親族の援助もなく、1人で暮らしている」「預貯金が底をついてしまった。働いていないので生活できない」と訴え、これを受けて相模原市はこの時点でAに収入がないことなどを確認し、生活保護費用を4月3日に給付した[117]。給付分は3月24日から31日までの日割り分と4月分だったが、4月下旬に雇用保険が支払われたことを確認したため4月分は返還されたという[117]。
逮捕後、取り調べでAは「今の日本の法律では、人を殺したら刑罰を受けなければならないのは分かっている」と供述する一方で、「権力者に守られているので、自分は死刑にはならない」という趣旨の発言もしている[121][注釈 5]。また、「事件を起こした自分に社会が賛同するはずだった」という趣旨の供述もしている[123][124]。
捜査関係者によると、Aは「障害者の安楽死を国が認めてくれないので、自分がやるしかないと思った」と供述した。こうした偏見に至った背景について、中学時代に障害を持つ同級生と関わったことや、園で働いた経験などを挙げ「障害があって家族や周囲も不幸だと思った。事件を起こしたのは不幸を減らすため。同じように考える人もいるはずだが、自分のようには実行できない」とした[42][124]。その上で「殺害した自分は救世主だ」「(犯行は)日本のため」などと供述している[42][124]。
これはユダヤ大量殺害事件と
どこかリンクすると解釈しているのだろうか…
刑務所内で新聞の記事に触れては
自分と真逆者に手紙を書き続けている
異常性はどこから発送しているのだろうか?まるで多重妄想者さながらではないのか?
聞くことがかなうなら植松に
自分分析の回答が欲しいものだ? 刑務所において[アンネの日記]を読みふけっているという
びしょうか事件直後から新聞やインターネットで発言を続けてきた社会学者で、和光大学名誉教授の最首悟さん。娘の星子さん(41歳)はダウン症で、重度の知的障害がある。最首さん夫婦は40年にわたって星子さんを自宅で介護してきた。
最首さんは新聞の論評の中で、植松被告は社会が作り出した病だと指摘していた。経済的に役に立つかどうかだけで人を判断する、行きすぎた合理主義の風潮を感じ取ったからだ。
今年4月、そんな最首さんのもとに、論評を読んだ植松被告から突然手紙が届いた。
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「最首さんは問題解決を目指していないよう映ります。周りに多大な迷惑をかけ続けても、生きていたいと考えていますか。」(植松被告の手紙より)
19人を殺害し、裁判を控える植松被告。拘置所で新聞記事や本を読み、自分の考えを否定する人やメディアに対し、手紙を送り続けている。最首さんは、植松被告が作り出したというあることばに目を留めた。
「心失者(しんしつしゃ)」。
「意思疎通ができない人は心を失っている」と植松被告は決めつけていた。
娘の星子さんは、これまでことばを話したことはないという。それでも、海や公園に連れて行くと、豊かな表情を見せてくれた。最近は外出する機会が減り、星子さんの表情の変化を読み取ることは難しくなった。しかし、夫婦は星子さんのちょっとしたしぐさや声から、心の内を感じ取ろうとしている。
「人間には心がある、あるいは最終的には意識とか意思がある。生きるということのなかでの、本当のさびしさとか、悲哀、そして、幸せと感じる瞬間もあるということについては、彼は本当に薄っぺらい。そういうことについての体験がない。『殺してやったほうが、この子のためでしょう』と、これが一番の大きなお世話。そんなこと言えるわけがない。」(最首さん)
事件から2年がたつ2018年の7月。最首さんは植松被告からの手紙を受けて、拘置所で直接話すことにした。接見で植松被告は、淡々とした口調で最首さんを批判した。
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植松被告「大学で指導する人が、社会の負担になる心失者と暮らすなんてありえません。」
最首さん「星子と暮らすのは大変ではありません。大変ならば、一緒に暮らせないでしょう。私はあなたの手紙に返事を書くつもりです。長い期間にわたってのやりとりになるかもしれません。」
手紙を書くにあたり、最首さんの念頭にあったのは、植松被告だけではない。ネット上に今なお存在する植松被告のことばに同調する声。社会に潜むそうした“声”にこそ、自分が感じてきたことを伝えたい。最首さんは植松被告への手紙の内容を公表するつもりだ。
「植松青年に向かって、書くとか語るというのをこえていきますね。むしろ、もっと多くの人たちに向かって、答えていくということになるでしょう。重度の寝たきりの障害者とか、認知症老人というのは、意思疎通ができなくなったら、人間としては疑わしくなるんじゃないか。そういう考えは非常に多いと思う。それは違うということは指摘しなきゃいけない。」(最首さん)
被害者とその家族に訪れた大きな変化
なぜ、19人を殺害するにいたったのか。NHKは植松被告に接見を繰り返し、それを探ってきた。
「『この年になって、このままじゃ何もないなあ』と思っていました。自分の人生は有意義だと思いたくてやりました。彼らの存在自体が不幸を作るという考えは変わっていません。」(植松被告)
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2年前の7月26日未明。植松被告は車で乗りつけ、かつて働いていた施設に侵入。ねらわれた津久井やまゆり園には当時、およそ150人が入所していた。植松被告は入所者が眠る部屋をまわり、意思疎通ができないと見ると刃物で次々と刺し、19人を殺害、27人に重軽傷を負わせた。犠牲者は、差別や偏見を恐れる遺族の意向などから、今も名前は明かされていない。
惨事に見舞われたやまゆり園の人たち。
事件から3週間後に、傷を負った息子を見舞った夫婦がいた。尾野剛志さんと妻のチキ子さん。息子の一矢さんは首や腹など5か所を刺され、一時、意識不明となる重傷を負った。事件のショックから、一矢さんは情緒不安定で興奮状態になることもあったという。
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しかし、事件から2年がたち、一矢さんに大きな変化が生まれている。事件後、やまゆり園は建て替えが決まり、別の場所で生活してきた一矢さんたち入所者。
以前は、尾野さんの仕事も忙しく、親子が会えるのは月に1回程度だったが、事件のあと、傷ついた一矢さんのそばにできるだけ寄り添ってきた尾野さん。親子で多くの時間を重ねるなか、一矢さんはこれまでにない表情やしぐさを見せるようになった。
(スタッフ)「ごはんはおいしかった?」
一矢さん「おいしかった。おにぎりおいしかった。」
剛志さん「初めてだよ、聞いて、ちゃんと答えてくれたのは。」
チキ子さん「初めてです。びっくりした、私。このうれしそうな顔。」
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「こうやって一矢としょっちゅう接するようになってから、一矢も変わってきたし、僕も一矢に、ちゃんと気持ちを入れて、心を入れて、一矢と接するようになったから、そういう点で変わったと思う。」(尾野さん)
見えづらくても確かにある「意思」
植松被告に意思疎通ができない「心失者」と決めつけられ、命をねらわれた人たち。事件のあと、新たな1歩を踏み出した人がいる。
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20年以上やまゆり園で生活していた、松田智子さん。事件のとき隣の部屋にいた女性は、植松被告に殺害され、母親の恵実子さんは、大きな衝撃を受けた。
「生産性がない人とか、名前が書けないとか、話せないとか。そういう人は生きている価値がないというのは、やっぱり、智子たちは社会に生かされているところはあるから、とてもしんどいなと思います。」(恵実子さん)
智子さんは、歩き回ることが好きな活発な子どもだった。しかし、突然外に飛び出すなど徘徊がひどくなり、家族だけではみられなくなり、17歳でやまゆり園に入所した。その後、足をケガしたことをきっかけに、行動を制限されるようになった。やまゆり園がつけていた智子さんの支援記録によると、事件前は、ほぼ毎日車いすに拘束され、長い日は、12時間以上に及んでいた。人手が限られるなか、「見守りが難しい」とされたためだった。
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智子さんは次第に意思を示さなくなっていったと言う。
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「しかたないと思ってきました。今は、もうしかたないと。他の方法は考えられなかったから。引き取ることもできなかったし。」(恵実子さん)
事件後、神奈川県は障害者の支援について新たな方針を打ち出した。やまゆり園の入所者が、どのような暮らしを望むのか。今後は家族や周りの人の考えではなく、「本人の意思」を尊重して決めることにしたのだ。
今年3月、母親の恵実子さんと智子さんは、この取り組みを進めている施設を訪れた。
職員「はじめまして。智子さん、どれ飲みます?」
職員に、好きな飲み物を選ぶよう勧められた智子さん。見つめるだけで手を伸ばすことはない。しかし、飲み物を口元に運ばれると、飲み始めた。専門性のある職員が智子さんの意思を丁寧にくみ取っていく。職員たちは生活のあらゆる場面で、智子さんの意思を見ていくことになった。
あるとき、智子さんは突然立ち上がって、どこかに行こうとした。職員は行動をむやみに制限せずに付き添う。
職員「どこ行くの? 一緒に行こう。」
職員が特に意識してみるのは、目の動き。智子さんは何に関心があるのか、時間をかけて探っていく。重度の障害者を「心失者」と決めつけた植松被告。現場では、丁寧にその意思をくみ取る日々が続いていた。
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「そもそも、心失者という思想とか、そういうのは分からないですけど、1つ言えるのは、意思は、日常と切り離せないものなんですね。日常の中に意思があるので、本当はどうなのか、というのを問いかけてみる。」(障害者支援施設「てらん広場」施設長 大川貴志さん)
支援が始まって3か月がたったある日。智子さんは近くのカフェに出かけた。智子さんの39歳の誕生会だ。
職員「どれがいい?」
職員「見てるね、どれが、いいだろうね。今どこ見てる?ここらへん見てる。」
職員「これ?」
智子さんがビーフシチューを見ていることに気付き、職員が注文した。
職員「智子さん、お誕生日、ちょっと早いけど、おめでとうございます。」
智子さんにビーフシチューをつけたパンを渡し、食べる智子さん。食事が終わりかけたころ、智子さんが自らパンをシチューの皿にいれた。その行為から智子さんの「意思」を感じ取った職員。
職員「あれ?見てた?」
職員「つけるっていうことかな。つけてってこと?パンにつけるってことなのかな。見てて、覚えたんだ。すごい、智子さん。つけたほうがおいしいって分かったね。」
職員「食べた、すごい。やっぱり、分かってたんですかね、今の。つけたほうがいいって。」
3か月前は目の前の飲み物に手を伸ばそうとしなかった智子さん。見えづらくても、確かにある意思。ともに探る模索は続いている。
事件が突きつけた社会への問い 人生を変えた人も
事件から2年。障害のある人や支える人たちにはさまざまな変化が生まれている。一方、NHKのサイトに寄せられた声からは、今なお事件が突きつけた問いに戸惑う社会が垣間見える。
「根底にあるのは、『障害者が嫌』という思いではないでしょうか?自分の中の『差別』を取り去っていくしかないと思います。」(30代女性 福祉職)
「障害者がいなくなればいい、とは思わずとも、できればあまり関わりたくないと思ってしまいます。」(20代女性 学生)
「技術が進んで出生前診断とかしてますよね。それってこういう話につながっていく気がするんです。」(30代男性 会社員)
社会は事件とどう向き合っていけばいいのか。事件はそれまで障害者と無縁だった人たちにも変化をもたらしている。
愛知県に住む勝田雄一さんは、事件当時、自動車の部品工場で働いていた。単純な作業の繰り返しで、生きる意味に悩むことさえあったという勝田さん。殺人という行為は許せないものの、植松被告のことばが自分自身にも重なったと言います。
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「もし自分が障害者になったときに、果たしてそれでも自分は生きていたいと思うかなって。そのときの僕の答えはノーだったんですよ。これは、そういう状態で生きている人たちの人生をある意味否定しているんですよね。自分自身にも向けられた感じがしたんですよね。自分自身に生きている意味があるのか、価値があるのかという。」(勝田さん)
ところが、事件の5か月後。ラジオに出演していた障害者と共に働く男性のことばを偶然、耳にする。
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「容疑者は障害者なんていないほうがいいみたいなことを言ってるんですが、いたほうがいい。容疑者のことばをことばで批判することは簡単なんです。それよりもやっぱり一緒に生きていったほうがいい事実を作ってく。」(NHKラジオ深夜便 平成28年12月16日放送より)
このことばの意味を知りたいと思った勝田さんは、ラジオで話していた、横浜でパン屋を営む高崎明さんを訪ねた。
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高崎さんの店では、重度から軽度の知的障害がある人およそ40人が働いている。養護学校で30年以上教員を務めた高崎さん。8年前、障害のある人が働きながら、地域との接点を持てるように店をオープンした。高崎さんに勧められ、1日、一緒に働いた勝田さん。気付かされたことがあったという。
「一緒の時間を楽しむということに、それでいいんだなと。それまでの自分の意味とか価値とかに対する視野が広がった感じがあって。」(勝田さん)
そして2017年10月。勝田さんは重い障害のある子どもたちを支援する仕事につくことを決めた。障害のある人と毎日、接するようになった勝田さん。折にふれ、高崎さんに悩みを相談している。
勝田さん「本当に重度の子たちとかもいて、ちょっとどう接したらいいか分からないみたいなところがあるんですよね。正直なことを言えば、その生きる意味というか、そういうものがやっぱりよぎりましたよね。」
高崎さん「初めは分からなくて非常に混乱すると思うけども、苦労したほうがいいと思う。そんな深刻な顔で悩まずにさ。相模原事件を越える社会をどうやって作るかという、ああだこうだと理屈っぽい話じゃなくて、やっぱり彼らとのいい1日をどこまでこつこつと作り上げていくかということでしかない。」
一日一日を作り上げていった先にどんな風景が見えるのか。模索は始まったばかりだ。
「きれいごと」を実現させる 発想の転換が必要
重い障害のある人たちにどんな意思があり、どこまで近づくことができるのか。最首さんは娘との41年間で、自ら問い続けてきたことをつづり始めている。
「わからないからわかりたい。でも1つわかるとわからないことが増えているのに気付く。人にはどんなにしても、決してわからないことがある。そのことが腑に落ちると、人は穏やかなやさしさに包まれるのではないか。」(最首さんの手紙)
映画監督の森達也さんは、さまざまな人たちが共生する社会を「きれいごと」だと片付けてしまわないことが大事だと言う。
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「社会の成熟とは何か、1つはきれいごとをいかに実現していくか、かつてであれば、年老いた人、病気の人、社会的弱者は、どんどん死んでいった、そんな社会状況もあったわけです。でも今はどんどん変わってきている。それは、どんな人でも価値があるんだと、命は平等なんだと、きれいごとですよ、当時からすれば。でもそのきれいごとを、僕たちは実現してきた。そして現在がある。いろんなものをみんな抱えているし、そのグラデーションの中で、生きているわけです。そうした意識をみんなが持てば、少し社会もステップアップできるんじゃないかなという気がします。」(森さん)
自身も障害のある東京大学准教授の熊谷晋一郎さん。立場の弱い人を排除し、多数の意見が正しいとする今の社会には発想の転換が必要だと指摘する。
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「不要な存在とか、肩たたき(リストラ)とか、それを今、マジョリティも、潜在的に感じ始めていて、生き残ろうと思って、視野狭窄に陥れば、自分がいかに能力があるか、人は能力がないかを証明することに躍起になる。そっちにいくのか、それとも、連帯のほうにいくのか、そもそもマジョリティも含め、こんなにみんなが安心して、暮らせない世の中のほうがおかしいんじゃないというふうにして、マジョリティと、マイノリティが連帯するというオプションもありえるわけです。」(熊谷さん)
社会に芽生えた兆しを私たちは確かなものにしていけるのか。障害者殺傷事件から2年。問いかけは続いている。