昭和19年12月二十歳の記録分です。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 シベリヤ抑留者の非人道的で

奴隷以下のようなあまりにもむごたらしい歳月はどうして長期に

渡らなければならなかったと政府の対応のソ連に対する要望は

何もなかったかの印象はぬぐい去れないものがあります。

 しかも無条件降伏以降の話です。

 シベリヤ抑留者の多くが過酷な労働、貧しすぎる食事、それに冷夏30度越えの厳しい

環境の元で多くの死者まで出した捕虜生活の

実態調査が一度も行われなかったのはなぜか?

 このような事柄が政府により隠蔽され

パンドラの箱」を かたくなに開けてこなかった国の方針は果たして

何であったのだろうかと

 歴史的背景もわかっていないお惚け馬場ちゃんのつぶやきです。

これは抑留者の思いからの発想に過ぎないことを述べておきます。

 下記の引用文は昭和19年12月の

出征兵士20歳の記録分です。

   シベリヤ抑留者の引用文です。

心せわしなく落ち着かない。朝日も何となく弱々しく思える。

 一日過ぎて翌十日、日の出と共にまぶしい光が満ちてくる。最良の門出を朝日が祝ってくれた。心身を正して父母に出征の挨拶を済ませる。親戚の方々や多くのご近所の方々に見送られ、駅に向かった。

 「勝って来るぞと勇ましく……」

 出征兵士を送り出す歌声を聞きながら、慣れ親しんだ家を出発した。今思うと、なぜかなつかしく、夢の中の出来事のように思われる。

 私が入隊する原部隊は千葉県佐倉駐屯地である。しかし実際に集合したのは、世田ヶ谷東部十二部隊「弘兵団」である。

 兵舎といっても名ばかりの馬小屋、ここで五日間の藁布団生活である。

 入隊を祝って、コウリャンの赤飯が振る舞われた。コウリャンと言えど食糧難の当時としてはおどろいた。だが入隊当日の夜、先に入隊していた他の部隊の兵隊が四、五人、炊事場の陰で残飯おけに手を入れて食っている様を見た。赤飯と残飯。軍隊とはどんなところかと驚いた。いつかは吾々達もああなるのかと思うと恐ろしく初めて心底から震えた。

 入隊三日、先に出征中の喜一郎兄(当時軍曹)が面会に来られた。内地での最後の思い出となった。

十二月十五日 夜間、部隊は新宿駅に向かった。三等客車に乗り込み下関に向かった。

 軍の行動は全て秘密となっていたので夜の移動が多い。又昼間は窓を閉め、停車駅で下車することも許されなかった。

十八日、下関に到着。夜を待って船に乗り、玄界灘を渡り、大陸へと向かう。初めての船の旅、船酔いする者も多かった。大陸への第一歩は朝鮮釜山であった。吾々の行く先は、そこから山また山を越えた北支那河南省済源の教育隊である。一つの村を占拠していた。占拠した敵中での初年兵達の軍事教育が目的である。千葉・埼玉・兵庫県の出身者で構成される部隊だった。

三ヶ月の間、激しい訓練の毎日が続いた。

 到着したその日からシゴキが始まった。お国なまりの詞で返答すればビンタ、整列が悪いと又頬にビンタである。

 演習を終え兵舎に帰れば、古参兵(二年前三年前に入隊した戦友)の鉄銃をはじめ、靴・パンツから衿布の取替・洗濯。それを済まして、やっと食事にありつける、という毎日だった。

 食事当番は又たいへんである。炊事に使用した食缶・返納容器の洗いが悪いと、又これ炊事上等兵(一番恐い)のおみやげビンタ・二ツ三ツ。そうこうして八時、教育隊長の点呼で訓練の一日が終わる。

 が、初年兵へのシゴキはまだ終わらない。それから古参兵の怖ろしい「シゴキ」が待っていた。初年兵は一班二十四名で構成され、一班から五班まであった。古参兵の装備品点検が始まる。班の中に一人でも、靴や銃などに砂粒一つでもあれば班全員が腕力まかせの鉄拳制裁を受ける。消灯ラッパが鳴るまで毎夜これが続いた。

「 初年兵はかわいそうだね、又寝て泣くのかよう… 」

 ラッパの音が、悔し涙に濡れる初年兵の脳裏に響く。一日の重圧から解放され、さまざまな想い胸中に抱きながら藁布団の中に身を埋める毎日が続いた。

昭和二十年八月、新京部隊は八月十八日までに公主嶺に集結、との命を受け、八月十六日、新京を出発する。

 この年は雨量の多い年で、三日前から降り始めた豪雨の中を吾々は、旧満州新京(現・長春)を立ち、全身ずぶ濡れになりながら、ぬかるんだ道を一路、公主嶺へと向かった。兵隊と馬車の隊列が、新京-公主嶺約六十キロの道程に続く。

 普通に歩けば二日もあれば到達する道程だが、雨でぬかるんだ道路が行く手を遮る。鉄輪が泥にめり込むといくら馬の尻を叩いても手綱を引っ張っても動かなくなる。夜になって雨はますます激しくなり、吾々も下帯までびしょ濡れの有様。夜通し行軍しても千メートル程しか進まない。

 出発してから二日目、やっとぬかるみを脱して順調に行進できるようになった。

 苦しいながらも気楽に行進を続けていると、突然吾々の行く手に二発三発の銃声。日本の敗戦濃厚、となるに連れ、極度に治安も悪くなっていた時期だけに、糧秣を狙っての原住民暴徒の仕業であらう事は明白であった。

 決断力に優れた吾が中隊々長は、敵は少数である、と推察した。しかし吾々の武器といえば小銃だけである。然も、それも決戦を覚悟した時に各自受領した、手投げ弾二発、小銃弾二十五発だけである。軍隊とは言え無防備に近い集団にすぎない。

 これを守るには中央突破以外に途はない、と判断した隊長は部下に弾込めを命じるとともに遮に無に前進するよう指示した。小生も一斉弾込めして戦闘体制を取って前進した。

 私はその瞬間生死の境目を意識したが、咄嗟に手投げ弾を握りしめ暗闇の中無我夢中で突っ走った。飛び交う銃弾、放火を浴びて燃え上がる車両、その炎に照らし出された人馬の死体。凄惨そのものであった。

この世の地獄とはこういう光景をいうのであろうか、と今も想う。

暴徒の襲撃を受けてから後は、行軍は昼間、夜は夜襲に備えて不眠不休の夜営をする。過労のため落伍者も多くなっていた。

 公主嶺まであと一息という時に突然手投げ弾の音が響いた。古年兵・高橋上等兵が自殺した。

 三日間夜昼寝ずに歩き続け、幾多の犠牲を払いながら難行軍の末に、十八日、漸く目的地・公主嶺にたどり着いた。ようようの思いで到着したが初年兵には休息はない。到着するなり、二年兵・三年兵・古年兵の身の回り、食事の用意に駆り出された。

 近くの民家(満鉄関連者の家・九人家族)に行き、お願いして火を借りて、十人分の飯盒を支度した。翌朝、同じ民家に行ってみると、一家全員首を切られていた。生視できなかった。暴徒の仕業であろうことは明らかだった。無惨なものだった。

日本の敗戦をその地で初めて知った。天皇が戦争終結詔書を発表し、日本が無条件降伏したことを知った。

 翌日、吾々はソ連軍により武装解除され、捕虜生活の第1日目を迎えることになった。だが、シベリヤ抑留の悲運が始まろうとは思いもしなかった。

 その日のうちに全員武器を得って舎前に集合と命令があった。

  この続きは、下記のページから。

シベリア抑留者体験記

http://www.geocities.co.jp/SiliconValley-PaloAlto/6296/siberia_f.htm