被爆者とともに、医師 「鎌田七男」
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
nhk第一の4時台の「ラジオ深夜便」で戦争を語る。
は広島大学名誉きょうじゅ「鎌田七男」でした。
生まれは鹿児島でしたが、赴任先がたまたま原爆内科の担当で
生涯原爆でお苦しみの方々と、かかわり続けた人生で
研究は深夜、被爆者の染色体の研究をテーマにしておられました。
被爆者の染色体には多くが傷つけられていると言う
わが叔父は8月6日には仕事で広島入りしました。
広島の異常に驚き家族も叔父を探しに出かけ
家族全員被爆者手帳の保持者となっていました。
叔父は背中にケロイドの後がくっきり残っていました。
後の家族は表面的には変わりはありませんでした。
結果、叔父も3人の子供まで癌で若くして亡くなりました。
これも被爆原因と思っています。
治療法はないとのことでもありました!
鎌田先生は80歳の今なお現役で原爆と向き合い続けておられます。
アナウンサーが楽しかったことはありますか?
との問いに先生は「ありません」と
か細く答えておられました。
これは場違いの質問に驚きもしました。
多くの被爆者が合併症を抱えているにもかかわらず?
被爆者から学び、生かされることは多いとは鎌田先生のお言葉。
鎌田先生はおっしゃっておられました。
「核を暴走させてはならない」と
戦争は無益ですとも言われていました。
生まれながらに親も知らない被ばく孤児も多く
被爆者の多くの人生の不幸にもたくさんかかわってきたと
か細く話される被爆者の暮らしの
余りにも重すぎる日々に胸が熱くもなりました。
安倍政権の危険信号を 誰が止めることができるのでしょう? ?
防衛のための軍事機器は平和への一里塚とは決してならない。
命の破壊は、個々の破壊にもつながる。
被爆者の人生は「生きるも地獄死ぬも地獄を」を行きつ戻りつされています。
もう、戦争はたくさんです。
〔かまだ ななお〕
公益財団法人 広島原爆被爆者援護 事業団 理事長。
1937年生まれ。 医学博士。 広島大学名誉教授。
日本放射線影響学会名誉会員、広島県がん対策推進協議会委員、核戦争防止国際医
師会議日本支部理事。
安倍政権の危険信号を 誰が止めることができるのでしょう? ?
非核酸シンポジュームの一文の引用。
現在の被爆者の生活状況は、1人暮らしが4分の1、配偶者と2人暮らしと
合わせると75%だった(2012年調査)。 最近では非被爆者の一般高齢者
夫婦生活者の比率も高くなっているが、一人暮らしと合わせても約50%であり、被爆
者の比率が高いといえる。
5.人生に投影された非人道性
これまで原爆被爆者の被害を項目別に述べて来たが、以後、被爆者の生涯か
らみた原爆の非人道性について述べる。
1、H・Oさんの被爆後の生涯(図⑧)
H・Oさんは8歳時、爆心地から460m、小学校地下室にて被爆。
奇跡的に助かった。 被曝線量は染色体解析より1,960mSvと推定された
。 9人家族のうち6人が爆死した。 親類をたらい回しされ原爆孤児と
して似島(にのしま)学園に引き取られた。 卒園後、清掃員として生活できるよ
うになった。
やっと結婚生活を送れるようになったが、1991年に胃がんのため2回の
手術を受け、胃は完全に摘出された。 食道と腸を直接つなぐため、逆流性食道
炎と貧血が続いた。1998
年、長男の事故死があり、さらに2001年には初孫(次男の長女)が白血病に
なった。 ところが、長女(孫)の病状について次男は親(H・O)に話さなか
った。 次男は被爆歴をもつ父親の心を痛めるのではないかと考え話をしなかっ
た。 父親は孫の病状を知りたかったが、直接次男に尋ねることはしなかった。
親子で互いにかばい合い、また、葛藤(かっとう)もあった。 孫は骨髄
移植も行われたが死亡した。 その後、H・Oさんは2005年に間質性肺炎を
患った。 大量の放射線被爆によるかどうかは不明であるが、通常の鎮咳(ちんが
い)剤、ステロイド剤では改善されず苦しんでいた。 そんな矢先、2007年に
自宅で自分の命を絶った。
2、A・Iさんの被爆後の生涯(図⑨)
A・Iさんは17歳時、爆心地から730mの電車内で兄と共に被爆した。
兄は1週間後に死亡した。 推定被曝線量は2,650mSvであった。
6人家族のうち2人が原爆関連死した。
1971年に原爆白内障に罹患、1997年に喉頭(こうとう)がんになり、
1年半放射線治療を受け恢復(かいふく)した。 2002年右肩部分に皮膚がん
出現。 その翌年、頑固な皮膚筋炎となった。 2003年に嚥下性(えん
げせい)肺炎を罹患し75歳で亡くなった。
A・Iさんは「世界の人は『広島』と言う言葉は知っているが、広島で何が
起こっているか知らない」と言い、被爆の実態を世界に知らしめないといけないと一生
懸命言っておられた。
3、K・Iさんの被爆後の生涯(図⑩)
K・Iさんは11歳時、爆心地から410m、小学校1階校舎内で被爆。
奇跡的に助かった。 被曝線量は染色体解析より4,830mSvと推定さ
れた。 4人家族のうち自分を除く3人が爆死した。
生活歴では、原爆孤児になり、一時住込みで働いていたが、1953年19
才で結婚し妊娠したが早産と自然流産を繰り返した。 1965年離婚、196
6年再婚、1997年破産を経験した。 友達の連帯保証人にご主人がなったこ
とで返済を迫られる状況になり、市営住宅にも
いられず車上生活になった。 キリスト教教会のお世話で生活を立て直す
ことが出来た。
病歴では、1973年の精密検査時、難聴や原爆白内障が分かり、1985
年甲状腺がん手術、拘束型肺障害、1996年大腸がん手術、2001年髄膜腫手術、
2008年多発性神経鞘腫(しょうしゅ)に罹(かか)った。 神経鞘腫は帯状疱疹(
たいじょうほうしん)のようにピリピリと痛み、麻薬処方が必要となった。現在も同じ状
況である。
原爆被爆が生活の面でも、体調の面でも被爆者の人生を大きく狂わせ、連綿とした
苦しみを与え続けていることが明白である。 上記は多くの苦しんでいる原爆被
爆者の中の3例を例示したにすぎないことを強調したい。
6.勇気づけられる被爆者の一言
著者は1962年、医学部卒業後、新設された広島大学病院「被爆内科」に
入局以来52年間、原爆被爆者と共に歩んできた。 被爆者との会話の中に科学
的研究のヒントや研究展開の糸口があった。 ここでは被爆者が何となく発した
言葉の中に、その人の苦労の結晶、これまでの苦労を超越した心境、人としての生き方
などが含まれており、その幾つかを紹介する(図⑪)。
「主人の居ない人生はつらいね」と言ったのは、被爆で夫を亡くして以来、
ひとり暮らしだった女性であった。 その言葉はこれまでの苦労の一部を吐露(と
ろ)しており、いろいろと思いを馳(は)せざるを得ず、とても重い言葉である。
「自分の思いをプラスにしたら幸せになれる」と言った方は、極貧を経験し
、また、2つのがんに打ち克った方であった。 この方は昭和20年代にどのよ
うに生活したかを話してくれていなかった。 再婚していた。 6年前に
娘さん2人を連れて原爆養護ホーム倉掛(くらかけ)のぞみ園に来園された時、一目見て
その理由が分かった。
長女は日本人の顔ではなかった。 今は孫も居て、とても良い境遇になら
れた。 その人が「泥沼をはって歩いた八十路(やそじ)かな」と詠んだ手紙を先
日下さった。 とても前向きに考えておられる方である。
「苦悩を超えて生きてゆきます」と言った女性は顔面全体にケロイドを持っ
ていたが、40過ぎて結婚され、子どもさんが1人いる。 3つのがんを克服し
、「生きていきます」と力強く言っておられる。
「思いやりの心が大切」と言われた方は原爆被爆と阪神淡路(あわじ)大震災
の両方を経験された方であった。 震災時は商工会議所会頭だった。 復
興のため、人のお世話をしながら懸命に働き2年後に過労で倒れた。 腎臓透析(
とうせき)患者となった。
「プラス思考なら幸せになれる」と被爆者ははっきりと言う。 外国人は被
爆者が恨みやつらみを言うはずだと、また、原爆を投下した国に対して「謝れ」と言う
だろうと思っているかもしれないが、そうではない。 生きてきた苦しみを前向
きに考えることが、周りの人への思いやりへと繋(つな)がっている。 我々はし
っかりしないといけないと勇気づけられる思いである。 被爆者は本当にいろん
なことを教えてくれている。