長崎原爆は語る。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日は長崎の原爆の日です。

国連トップとして初めて長崎の平和式典に参列頂いた

グテーレス事務総長は9日、式典に先立って記者会見し、核兵器禁止条約に対する国連

の姿勢として「全面的に支持し、発効することを望む」と述べた。

 安倍総理はあくまでも核の禁止条約に背を向けた挨拶に終始した!

なぜに核の禁止条約にかにゅうできないのか?

保有者と、核を持っていない国との橋渡し役としての

つとめを果たしていきたいとはどのようなことか?

軍縮に努めるとはこれが日本トップの言葉とは?

 人間が生きるためには核とは決して共存などできようはずがない。

総理の発言にはいつも肝心な言葉が外されてもいる!

核の禁止条約に加入することこそが

日本の在るべき姿ではないのか??

日本は唯一被爆国です。

先人の原爆で消え去った多くの御霊

多くの犠牲あればこその今日です。

 長崎被ばくノートは語る。

4歳の坊やのもとにも原爆は容赦なく襲った。

世の中の何たるかも知らないままに

顔はゆがみ膿は出て止まらない。

何ら罪なき坊やにまで

死ぬも地獄生きるも地獄。

「母ちゃま,父ちゃま」と何度声なき声でよんだことだろう!

苦しむだけに生まれた小さな命までも核は

平気で苦しみと共に奪い去った。

政策方針のもと庶民は戦争の意義さえ判らない者を

次々に戦争に送り命の火花を散らさせてきた。

平穏な日常も「ピカどん」の一撃がなおも苦しめている。

総理はなぜにボタン一つで大量殺戮兵器に代わる

核に、おもいをいたせないのはなぜか??

   原爆体験記の引用です。

「姉ちゃん アーン、姉ちゃん!!」

「アッ、明子ちゃん!明子ちゃん!!」

十分か十五分かして姉だけはやっと自力ではい出した。オッ!!家が木がすべ

てが破壊しつくされている。町が燃え出した。皆んなは、「宏ちゃん、明子ちゃん……

「姉ちゃん、姉ちゃん……姉ちゃんこっち、姉ちゃん出して……」

「坊やが……坊やが頭を怪我している、坊やだけでも出して!…」

「まって、江平が燃えている、今布団をかぶるから」

「家は?」「大丈夫、燃えていない」姉ちゃんは安心させようとしてこう言

うのだこれでおしまいだ。坊やを抱いたまゝ博子は最後の讃美歌を歌っていた。ひっぱ

りだしたお昼寝布団を水に浸して姉はこれをかぶってみた。

火は次第に燃えさかり、親を求め子を呼んで石崖の下を右往左往する。

「妹や弟が下敷きになっています。出して下さい。私は手をやられています

。一人では出せません。手伝って下さい。」だがこの土壇場に立って皆はただ自分の子

でいっぱいだった。明子はあれっきり死んでしまったらしい。

一、 二時間たった。

兵器から帰った山口さんがやっと来て下さって掘出しにかかると箪笥二つを

のせた博子の足は急に痛みはじめた。

出ようとする目の前に明子のお尻がある、でもそれはも早冷たくなっていた

。山口さんは身体の具合が悪くなってそれっきりになってしまった。あとに残された智

子は「姉ちゃん出して、早く!痛い!」と叫ぶ、二人で掘りにかかった。

「壁土が落ちる、苦しい、息が出来ない」ボール箱のこわれを探して顔をお

ゝった。だが二人の力ではどうにも出来なかった。

「お水が飲みたい」姉はどこからか三菱の印の入ったつぶれた弁当箱をさが

して飲ませてくれた。

四時頃か或はもっとあとで金比羅山の方から二人の中学生が下って来た。こ

の二人の力でやっと出してもらった、智子の右足は折れていた。(以上博子及び智子姉

の語りしを)

この間の記事は後に…十二日大村より帰り、十三日香焼三人を見舞に行く。

十三日 空襲ばかりで香焼島へ着いた時には十二時はとうに過ぎていた。病院

から羅災者収容所(豊部隊)へ豊部隊で教へられた壕へはいって行くとまだ目なれぬ私

の足下に「ア!姉ちゃん!!」髪をみだしやせおとろへて目ばかり光らせた智子。右手の岩

肌にくっついて担架のまま…あの声!あの顔!今もなお、あざやかに残るあの声、あの顔

こらえても、かみしめてもあふれる涙であり出そうにも言おうにも、すぐには思い出せ

ない言葉であった。

そこから十数メートル奥に姉と一緒に首をかたむけた坊やが担架の上に座っ

ていた。

左耳は傷のため右耳より五分も下っている。顔全体がゆがみ痛々しくはれ上

っている。「お母ちゃまは?」首をかたむけて、膝に抱きつきながら先づこう聞いた坊や

。如何に戦とは言え、四才の子が……

「お母ちゃまはお街にいってらっしゃるの、もうすぐ帰っていらしゃるから

」姉ちゃんと一緒に待っていましょうね、ね、おりこうさんね」やっとの思いで言葉に

「ウン」とおとなしくうなづいて遂に最後までお母ちゃまを言はなかった坊や。

口が殆ど聞けず、かたいものは全々だめなのでせっかく父がもたせてくれた

南瓜や豆もよく食べられないので前夜一緒に泊った小母さんに貰ったと言う乾パンを私

にも分けるといってきかなかった。昼食は壕中で粥又は飯と味噌汁(豆腐と干大根のよ

うだった)戦災地の父や博子を思うと勿体ない御馳走であった。深い壕中に同じような

否それ以上悲惨に見える羅災者が奥の奥まで闇の中に吸いこまれて異様な臭いがただよ

っていた。

「昨日から十五分毎位に厠へ行くので困る」と言う姉はひどくつかれた顔色

をしていた。このまゝでは帰れない一晩泊って翌朝の一番船で帰る事にした。

夕方解除になって日ノ浦分院に移された二人の子にたった一つの寝台が与え

られた。前後左右皆鼻も口も見分けのつかぬ位の火傷が多く異臭を放ち、やけた鉄筋の

家はムンムンと暑く、蝿がブンブン飛んでいる。各ベッドの間には家族が動き、階下か

ら直接裏山へ掘った壕の中にはこれまたあふれるばかりの羅災者である。泣く、わめく

、うめく…夜になっても灯りなく蚊帳なく、やけた建物は熱気をはき、やっと涼しくな

った頃は夜はしらじらと明け始める。

姉は厠に起きる外は殆ど眠ってばかりいる。十四日になっても帰る事は不可

能である。段々回数が増して便所まで行くのにさえ困難を感じるらしく帰ったと思うと

又ゆき少し長いなと思えば二回続けて行って来たと言う。

食事は重湯少々、夕方吐気をもよおし、ゲッゲッと二へん程黄色いものを出

し、三べん目に一尺程の回虫を吐出し更に小さいもの二匹、自分でも驚いた様子だった

。  

日一日と衰弱し、二、三日して吉田さんが便器を作って来て下さると喜んで

使用し始めた、もう便所まで行く力もなかった。

夜など寝台の上り下りさえ困難だと言って寝台の間に坐布団を敷いて寝るこ

ともあり、卵白に血で色をつけたようなものをジャア、ジャア下した。

唇から口中が白く化膿したようになっている。消化剤と虫下しをもらったが

虫下しは下剤が入っていると言うので一服で止め柘榴の根の煮汁がよい虫下しであるか

ら吉田さんから貰って来いと言ってきかぬ。無理にも貰いに行けと言うが、香焼島には

柘榴の木はなかった。生水は絶対に飲まず、水中の細かいゴミでも、ジーッと沈めてし

か飲まぬ位注意深く厳格な姉だった。

しかし又他の二人を看病するのに気をつかって死の前夜まで一度も私に手を

焼かせぬ姉であった。

坊やは傷の化膿をおそれて冷そうとするけれども横になるのを嫌がるのと、

水の入手困難、香焼の水のぬるさのため日に日に顔のはれ方が変わって遂に化膿してし

まった。

五分でもはなれると泣いて私を待つ姿はいぢらしく、四六時中あおいでやら

ねば暑がって困った。

父のもたせて呉れたのと、私が来る時船の中で中さん(女学校の同級生)に

もらった茶飲み一杯程の砂糖を楽しんで少しづつ重湯に入れ、お茶に入れして喜んでい

た。父が来るとひどく喜んで膝からはなれず死の前日等父の居る間はひどく元気で、と

ても明日にも死のうとは思えなかった。

ひどく父の後を追って階段までおくり窓からシッケイをした後、海を行くポ

ンポン船を見てさっき父の教えて呉れた「早く治って、あの船で帰る」と言う事を喜ん

でいた。しかし身体は熱にやけ、傷は化膿してすでに顔面神経を切り膿は耳から流れ出

していた。

智子は骨折のため副木を腰から当てられて寝たきりであったが割に元気で下

痢もせず足がうまくなおる事を考えて居た。食事は何に彼にと嫌わず看護婦さんや寮母

さんからも特に可愛がられて割に朗らかであった。  

智子と坊やと一緒の寝台の時は坊やは落ちる落ちると言って寝台の真中に痛

い方を上にして海老の様にまるくなって寝るので困って居た。

田ノ浦に移った翌日から吉田さん、平山さん、浜口さん、笠間さん等お見舞

に来ていただき色々のお世話にもなった。空報がなって誰も迎えに来ない。  

何と階上も壕を見做すという。可愛そうにこの暑いのに智子や坊やは爆音の度に布団を

かぶらなくてはならぬ。窓にはガラスもないのだ。目の前で急降下するのが寝ている智

子にも見える。

智子の足の治療上壕には移せぬという。

坊やのそばがはなれられないので洗濯は真夜中になる、極くよく眠っていそ

うな時を見て二、三枚つかんで真暗な浴場に走り帰って来てあおいでやったら、又飛ん

で行く昼間窓にならべて乾すけれど終り頃になって汚れものが多くなって来ると間に合

わなくなって来た。

「重大放送の内容は?」

「何を言っているのかさっぱりわかりません」でもその顔はいかにも重く沈

んでいた。翌日、「無条件降伏したらしい」しばらくは唖然として何の感情もなかった

姉! 妹! 弟! うそ! うそ! そんなことがあるもんか!

デマだ、きっとデマだ。

汀寮の挺身隊は昨夜の中に引揚げた。応徴工は解散になった。婦女子は待避

令が出た。

患者は縁故を頼って早急に引揚げよ、引揚げ先なきものは江川病院に移す、

この島は危い。米兵が来たら逃げ場はない。、今日、明日にも米兵の来そうな話である

三人の病人

担架が三つ

人が十二人

応徴士解散

浦上は戦災

神代は汽車に乗れない????………

父との連絡は取れない、どうしてもだめなら四人一緒に死ぬ覚悟をした。

十四日、父が帰って行くと坊やは急に悪化した。父に坊やが悪いことを言っ

ても父のいる間は元気だったのでそれ程とも思わないで帰ったらしいのに、顔面神経の

切れた顔は眠っても片眼と口半分を開けたまゝの異様なものである。その夜から妙な運

動をはじめた。頭を中心にして時計の針のようにまわる何度も寝台から落ちそうになっ

た。言葉もやゝ明瞭をかくようになった。

十八日になるとスプーンから水を飲むことが困難になりそれでも昼頃までは

「上手、上手、上手にのめた」と言ってやれば笑って喜んでいたのが夕方には吸うこと

さえも忘れてしまって何をやっても受付けない。スプーンを口にもって行くと強引に口

をつぐんでギリギリと顔をひきしめ、何とも言えぬ表情になる。智力はグンと低下して

赤ん坊のようになったように思う。この日午前中までは不明瞭でイライラしながらも、

ものを言ったのが午後は殆んど駄目になった。

膿は耳からどんどん流れ出す、時迫る! 医者は帰っていない。一人では心細

い、笠間さんを呼びに行ったがその人がほんとうに最後を立会って(?)もらう人にな

ろうとは…

帰って見ると小島とか何とかいう労務課の保険医が来ていて下さった。姉は

しきりに色んな事を聞いている、坊やは今夜が危いと言う、今夜一晩どうにかして……

明日は又お父ちゃまがいらっしゃるから……が刻々に悪化する。

やがて最後の水を求められて気がついたように、しかしあまりに早すぎた、

もう少しは保つと思ったのに八時二〇分、小島、笠間さんと私にとりまかれ隣り合った

智子と姉に守られて静かに息を引いて行った。すっかりやせた真蒼な顔は今までの坊や

とは思えないものではあったが、驚く程美しく気高いものであった。オイタツコの小さ

な手を胸にくんで単衣から伸ばされた足も可愛かった。

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原爆体験記「原子爆弾・悲惨記」

http://www.being-nagasaki.jp/genbakutaikenki/gensibakudanhisanki.htm