思いやり有ればこそ。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 sky―blue sky。

太陽上機嫌の照りて理dayですよ!

 世の中にいろんなタイプの人がいて、その息遣いまでそれぞれ!

だからこそ、唇から飛び出す言葉はとっても大切。

自己表現ができなくて苦しみが溢れるあまり

体が受け入れられなくて、体が悲鳴を上げるシグナルもあるのですよね。

 みこちゃんは人から見れば多分ダメダメ人間に評価されるのかもしれません。

だけど自信を、すべて受け入れて生きなければ一歩も前には進めはしないし

人の空気の中で、漂うだけの人生ではありたくないと

いつも苦しみと隣り合わせで、人生のつまづきに,

壊れては立ち上がる強さも、不自由さの中から

身に着けることができたのだと思います。

 社会にはいろんな出会いと別れがありますが、私の生きる極意はと言えば

人を憎しみに変えないこと

人からの学びにチェンジすることで

この荒波をうまく乗り越えてきたのだろうと思っています。

 人に騙されたことは数限りなくあります。

 騙されたことを悔やみに帰るとやり切れない心境に陥ります。

 みこちゃんは母を見取るために貯金を空っぽにしてしまった経験があります。

これは承知の上でのことでしたので

給与がいただけていれば何とかなるとの思いがありました。

貧乏生活はむしろファイトがわくくらいです。

 人生の大きな挫折感と言えば

同じ職場男性が、40歳超えてからの結婚で

これをだれもが心からよかったとエールを

送りたい気持ちでもありました。

 ところが結婚2年後くらいの時に

私の前に土下座され、「頼むから、300万円貸してほしい」と言われ

私はそれほど浸しい関係でもなく

その理由さえ聞かずに,「お金がないから」と言って

丁重にお断りしました。

 当時そのお方は入院されていました。

 借財を申し込まれてわずか3日後に病院の6階から飛び降りて

自殺されました。

 それからの私はただただ自分を攻め続ける日々から

なかなか脱しきることはできませんでした。

その人はとてもシンプルライフで贅沢などする人ではなく

事務職の責任者でもあったことから見ても

多額の借金などできるタイプではありませんでした。

 みこちゃんはどんな時でも相手だけはきづつけることは戒め

自己努力で何とか道なき道でも進むタイプでもあります。

 あの華やかな舞台にあり続けた西城さんの終わりに近い舞台と言えば

体前進に緊張感を持って上での部隊を務めていたことを

野口五郎さんのお葬式のごあいさつで知り

「もう秀樹、リハビリ頑張らなくていいからね」と言わしめるほどの

生き抜く姿勢間にただただ涙しかありませんでした。

 これからの時間を大切にしなければと青空に約束したものです。

     東洋経済より。

24歳になった今、振り返って思うこと 不登校だった子が心を閉ざした「親の一言」

不登校経験者・楢崎唯さん(24歳)にお話をうかがった。楢崎さんは小学2年生から不登校。当時つらかったことや、今現在の気持ちを話していただいた。

――不登校のきっかけは?

学校で「これがイヤだった」という明確な理由はないんです。ただ、小さな「イヤだな」はたくさんありました。引っ越しをしたことで、環境になじめなかったこと、走りまわる男子や、噂話や悪口を言う女子が怖かったこと。そうしたことが重なって、小学2年から不登校になりました。

親はなんとしてでも学校に行かせたかったようで、教室に入れなくなってからは、別室登校を勧められました。保健室登校や職員室登校など、いろいろ試しました。完全に学校に行かなくなってからも、親の勧めのままに、フリースクール適応指導教室などにも通いました。

でも、ダメだったんです。行こうとすると苦しくなって、体が動けなくなってしまって。親とは毎朝「今日は行くの、行かないの、どっちなの!」という問答をくりかえしていました。

高校は通信制高校に進んだのですが、これも私が望んだことではありませんでした。親戚から「この先どうするんだ」と問い詰められたこと。知り合いの不登校の子が、高校に進学していたこと。そうした焦りから進学を決めたのです。ですが、願書を出しに行く日に、家を少し出たところでボロ泣きして動けなくなってしまって。入学式にも行けませんでした。それでも先生にはよくしてもらって、なんとか卒業しました。

これからは自分で決めなきゃダメだ

通信制高校を卒業するとき「これからは、自分で決めなきゃダメだ」と思いました。小学校もフリースクール通信制高校も、結局は親の意見や、まわりの子の雰囲気に流されて決めてきたことで、キツくなってしまった。でも「これは自分の人生なんだ、もう誰のせいにもできない」と強く思ったんです。

自分の人生を自分で決める、そのために、私は自分のやりたいことを探すことから始めました。当時、東日本大震災があって、私は社会問題とか自然環境のことを勉強したいと思っていたんです。そこで、大学見学へ行ってみました。いくつか見学していたなかで「ここなら通えそう」と思った女子大に入りました。その後、大学を卒業し、今にいたります。

――いちばんつらかったことは、どんなことでしたか?

忘れられない言葉があります。私が落ち込んでいるときに、親から「みんなつらいんだから」「つらいのはあなただけじゃないのよ」と言われたことです。

「ああ、親は私のつらさを認めてくれてないんだ」と感じて、すごく悲しかったんです。それ以後、自分でも「つらい」という気持ちを認められなくなってしまいました。「たしかに、もっとつらい思いをしている人もいるかもしれない。それなのに、この程度で泣いているのは、私が弱いからだ」と思ってしまったんです。

当時の私には自分の物差しがなかったから、他人の物差しで自分をはかることしかできませんでした。自分が「つらい」と思っても、他人にとってそれほどのつらさでなければ、他人の物差しを優先してしまうんです。だから、自分の本当の気持ちを閉ざしてしまっていました。

自分の気持ちをもっと言葉にできるようになりたい

――「つらい」とも言えないのはキツいですね。

そうですね。ただ、あるきっかけから、つらい気持ちを話せるようになりました。中学3年生のころ、布団から出ることもできないほどの状態になったときに、親が見かねて私をメンタルクリニックに連れて行ったんです。カウンセリングを受けたんですが、私は人前だと「ふつう」にふるまおうとしてしまうので、先生から「ぜんぜん平気ですよ」と言われてしまいました。でも本当は、先生の言葉に応答するだけで必死な状態だったんです。それをうまく伝えられなかったので、病院を出た瞬間に大泣きしてしまいました。

ただ先生には「これから生きていくうえで、人に伝えるということが大事になってくる。それができるようになるといいね」と言われたんです。そのときはパニックだったので頭に入ってこなかったんですが、しだいに「私は本当は認められたいし、つらい思いを伝えたい。だから自分の気持ちをもっと言葉にできるようになりたい」と思うようになりました。そこで、人に気持ちを伝える練習をしてみることにしたんです。

最初はブログに思いをつづることから始めました。しだいに親に何度も泣きながら、話を聞いてもらうようになりました。それをくり返して、気持ちを話せるようになったんです。それからは、親も私を理解してくれるようになりました。

――ふり返って自分の不登校をどう思っていますか。

私にとって不登校は、人生のすべてではないんです。つらかったのはたしかですが「人とうまくコミュニケーションできないこと」「自分ってなんだろう」というのがその大本です。「学校に行けないこと」に悩んでいたわけではありません。生きづらさが土台にあって、そのひとつの現象として、不登校になったのだと思います。だから「不登校」というひとつの言葉だけで自分のことを集約したくないんです。

最近思うのですが、よく「教育の選択肢を増やそう」と言うじゃないですか。たしかに選択肢は基本的にたくさんあるほうがいいと思います。ただ、選択っていつでも誰でもできることじゃないと思うんです。自分のなかにある「生きづらさの土台」、私で言えば「いい子でいなきゃ」という思いや、他人と比べてしまうこと、そういうところをなんとかしないと、行く場所が学校であれ、フリースクールであれ、つまずいちゃうんじゃないでしょうか。だから選択肢を増やすだけではダメで、生きづらさを感じないですむ社会にしていかなきゃいけないと思います。

「私はへなちょこなままで生きていきたい」

――「生きづらさの土台」は、今もありますか。

たしかにありますが、昔よりはだいぶ楽になってきました。最近、ようやく自分のことを、ダメなところもひっくるめて受けいれられるようになった気がするんです。

今の社会はすごく「できる人」が求められているような気がします。明るい人のほうがいい、「コミュ力」が高いほうがいい、大人になったらこうなるべき、というふうに。それに追いつかなきゃ、と必死になっていた時期もありました。でもダメでした。なんどもなんども失敗して、「これはもう受けいれてくしかないんだな」と、なかばあきらめたんです。

それでも「ならっちのよいところは繊細なところだよね」と言ってくれる友人もいます。ダメでもいいんですよね。だから社会の理想像なんて関係なく、私はへなちょこなままで生きていきたいと思います。

――ありがとうございました。

(聞き手:茂手木涼岳/撮影:矢部朱希子)

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