群馬ジャンボ機墜落、犠牲者「わすれないで」??

    ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 昭和史に残る日本航空機の事故。

ちょうどお盆の時期、熱い中での救助作業の困難さが

連日テレビで報道され続けました。

お盆入り前日、観光客、帰省客で満席だったジャンボ機は、離陸から44分後に墜落する。乗員乗客524名のうち生存者は4人。この悲劇を風化させてはならない。事故直後に現場に駆けつけた3人の証言。 現場はどこだ!? 米田憲司 昭和60年8月12日、羽田発大阪行きの日航123便群馬県御巣鷹の尾根に墜落。乗客、乗員併せて520名もの犠牲者を出し、4名が重傷を負いました。犠牲者には歌手の坂本九さんもいました。単独機の航空機事故としては史上最悪で、早いものであれから32年目の夏を迎えます。 よねだ・ ...

 残存者、川上恵子さん病院より。

「あのね、北海道の帰りに、千歳から東京まで飛行機で行ってね。東京から大阪まで飛行機で、大阪にいるおばちゃんのとこに回って寄るっていって、それで乗ったの。」 と、病院での川上慶子さん。

 飛行機の中で 「左後ろの壁、上の天井の方がバリッといって、それで穴が開いたの。それと一緒に白い煙みたいなのが、前から入ってきたの。」 

「うん。咲子とお父ちゃんは大丈夫だったみたい。お母ちゃんは最初から声が聞こえなかった。 うん。お父ちゃんたち生きているかなとかね、思った。」

 「明るくなった時、木とかね、太陽が差し込んできた。(私は)寝転がってたみたいになってたから、目の前に隣に何かタオルみたいなものが見えて、触ってみたらお父ちゃんが冷たくなっていた。左の手が届いたから、触ったの。」 

「知らない人やクラスの友達とかにね、いろいろ励ましの手紙をもらったり、いろんな物を宅配便とかで送ってくれたの。 いろいろ励ましてくれたので、くじけずに頑張りたいと思います。」

    上記のインタビューは事故八月十二日から一週間後、高崎国立病院の病室で小川清子看護婦長が報道陣のメモを基に答えたもので、質問は慶子さんの病状を考慮して、ショックを与えそうな質問は避けられた。

 慶子さんははっきりした声で積極的に事故の様子を話した。落合由美さん・吉崎博子さんも同様にインタビューのテープが公開されたが、川上慶子さんの病室にテレビカメラが入った。 

・ ・墜落後、隣にいた父と妹も生存しており、長い間話し合い励まし合った。最初「大丈夫」と言っていた妹が「痛い、痛い」と泣き、やがて声がしなくなった。 ・母和子さん(39)は即死状態だった。 

 付き添い関係者への証言2- 

 気がつくと真っ暗で油臭いにおいがした。子供の泣き声などがザワザワ聞こえていた。手や足を動かしてみると足の下には空間があってブラブラ動かせた。自分の体中を触ってみて、「生きている」と思った。

 みんなはどうなったのかと思い、叫ぶと、父と咲子が返事した。母は答えなかった。

「手や足を動かしてみ」と(父に)言われて足をバタバタさせると、靴が脱げそうになり左手を左足の方に伸ばした。足首がヌルヌルしていて「血だな」と思った。

 父が私の右わきから下半身に乗っていた。手足は動いても体は動かない。 「助けて」と父に言うと、「お父ちゃんも挟まれて身動きできない。助けてやりたいけど、どうしようもないわなあ」と言われた。父が動くと、おなかが死ぬほど苦しかった。 

「お父ちゃん、お父ちゃん、苦しい、苦しい。すごく痛い」と言っているうち、父はそのまま動かなくなった。

  咲子に聞くと「お母ちゃんは冷たい。死んでるわ。お父ちゃんも死んでいる。」と答えた。左手をのばして触ってみるとやはり冷たかった。その後、咲子と二人でしゃべった。

 咲子は「苦しい、苦しい」と言った。「足で踏んでみたら楽になるかもしらんからやってみ」と言うと妹の足の音がした。妹はそれでも「苦しい、苦しい。みんな助けに来てくれるのかなあ」と言うので 「大丈夫、大丈夫。お父ちゃんもお母ちゃんも死んでしまったみたいだけど、島根に帰ったら、おばあちゃんとお兄ちゃんと四人で頑張って暮らそう」と答えた。

 突然、咲子がゲボゲボと吐くような声を出し、しゃべらなくなった。一人になってしまったと思った。その後、朝まで意識が消えたり戻ったりした。

 ヘリコプターのパタパタという音で目が覚めた。目の前を覆う部品の間から二本の木が見え太陽の光が差し込んできた。 「生きているんやな」と思った。何とか外に出て見つけてもらおうと思い努力した。父のシャツのタオル地が見え、腹の上に乗っている父を左手で押し下げた。そのとき、父の手だと思って触った手を、上の方にたどると自分の右手だと分かった。(神経が切断されていたから) 

 人の気配がして「生きている人は手や足を動かして」と声がした。足をバタバタさせると人が、近寄って来た。ボサボサの頭、ショートパンツで勘違いされたらしく、「男の子だ!」と言われた。墜落直後から救出されるまでの約十六時間の状況をさらに詳細に証言。一番有名な証言ではないだろうか。000013

事故から10年後に元米国軍人が証言した話に拠ると、

 当日は、現場を特定出来なかった自衛隊や警察を尻目に、在日米軍のヘリは逸早く現場を特定していた。

 日本のレスキュー隊が到着する約12時間前=事故直後、在日米軍のヘリが既に現場に到着していた。が、「日本側が現場に向っているので帰還せよ」と上官の指示で現場にヘリは降りなかった。(在日米軍誤爆撃墜説=日本で公に語られていない。) 

 確かに、慶子さんもその事を語っている。

「(暗闇の中)ヘリコプターの音が聞こえて来て、赤い明かりも見えて、真上迄来て止まって、暫くホバリングみたいにして・・・。

『ああーこれで助かるわ。』って皆で言ってたらヘリは引き返した。 『これで場所が判ったから、又皆で沢山来て助けてくれる。』と話したけど、それきりで来ん様になった。

 東京羽田発大阪行き日本航空123便は定刻通り飛行していたが、午後6時25分『トラブルが起き羽田へ引き返したい』と機長(49歳)から運輸省東京航空交通管制部に連絡が入り、2分後には緊急事態を示すEMGが表示されブザーが鳴り響いた。Ja81191984 この時、日航機は相模湾上空で通常の高度である8000~10000メートルを飛行していたが、突然垂直首翼が失われ『操縦不能』に陥って123便はスピードを保ちながら乱高下を繰り返して6時56分に管制のレーダー画面から消える。000005

 10年後に明らかにされた事実は、

 アメリカ空軍C130H輸送機のパイロットがダッチロールを繰り返して迷走する垂直尾翼の無いジャンボ機を発見して追尾していた、驚くべき事実が明らかになる。C130qmx(日本の上空を24時間監視している米軍なら、ありうる行動だ。ひょっとして、「垂直首翼が失われた」のは、米軍の誤射?か。トラブルで羽田へ引き返す行為が、米軍には不審飛行で、威嚇射撃が尾翼に当たった?とも考え得る)

 日航機が御巣鷹山(実は高天原山)山腹に激突するまでを正確に確認する為に事故現場上空を旋回して、米軍司令部に墜落地点を正しい位置を特定していた。(米軍機関紙モーニングスターによるとパイロットに20年間の緘口令が出されていた)

 すぐさま米軍の救助部隊が派遣され事故現場に救助ヘリから救急隊員が降下している最中に、Isl2vecog7_2 司令部から日本の自衛隊が救助に向かっているので直ちに引き返す様に連絡があったから、救助を中止して引き上げている。(川上慶子さんの証言の通りだ)

 ところが救助に向かっている自衛隊は、事故現場の特定が出来ておらず、御巣鷹山ではなく、迷走した。発表する度に山の名前が違っている大混乱の有様。何度も次々と周辺の間違った地名を発表して訂正を繰り返す周章狼狽振り。米空軍と航空自衛隊は、通信や管制の情報を共有しているから、米軍に特定出来たことは、航空自衛隊も自動的に現場の特定可能だったはず。これは不思議だ。

 何時間も時間を浪費した挙句、やっと現場に到着した時には、今度は、日没で夜間の救助活動は危険、と翌朝まで何もしなかった。

 生存者によると4人以外、多くの生存者の声を聞いていたが、時間と共に命が失われた。

 その内、声を出していた人たち、皆話さなくなった・・・。」 「あの時早く助け出していてくれれば、もっと多くの人命が救われたのに・・・。」と、慶子さんは何度も語っていたが、本当にその通りだ。日米間の何等かの“意図”が在ったのか不明だが、人命第一で動くべきであったろう。

     事故後の慶子さんは、島根県で病気がちな祖母と(中学生の)兄の3人で生活し、小田さんも大阪から足繁く通って、彼女等の面倒をみた。慶子さんは美少女だったから励ましの声と同時に好奇の目も集中し、ストーカーまがいの行為に長く悩まされた。自宅に嫌がらせの電話が頻繁にかかる様にもなった。そんな状況が10年近くも続いた。

 「今は、事故被害者は精神的なケアをして貰えるけれど、あの頃は全て個人でせなあかんかった。当時の慶子さんは“こんな事(ストーカー)されるんなら、お母さん等と一緒に自分も、あの時死んでたら良かった”と漏らした事も在った」そうだ。

    保健士だった母親の遺志を継いで、慶子さんが看護士となって兵庫県の病院で働き始めた。1995年の阪神淡路大震災では、怪我人の手当てに奔走し、同じ様な大惨事に直面した人たちのため、必死に職務を全うした。

 事故後3年程は飛行機に乗れなかった彼女も、今では飛行機に乗る事は出来る様になった。  しかし、事故の話をするとPTSDの様な症状が出るという。今でも、当然の事ながら、心の傷は癒えていない。慶子さん、事故の取材は一切受けたくないという。

  やがて、慶子さん、趣味のスキューバダイビングの為にアメリカの地で夫となる男性と知り合った。 

 中学生の頃から間寛平さんの大ファンで、常々「一緒に居て楽しくて面白くて、顔はジャガイモの様な人が良い。」と言い続けていた。2002年の秋、その男性と結婚式を挙げた。

 30年後の今は、西日本の地方都市で、まわり近所に“あの川上慶子さん”と知られる事も無く、会社員の夫と息子の3人で幸せな“普通の生活”を送っている。亡くなった3人の分も幸せな日々を享受して貰いたいと切に願う。 (看護師の仕事を辞め、現在は息子2人と幼い娘の子育てに奮闘している)2015年スポーツ紙

「今日が1年の始まり」 御巣鷹の尾根、登山道開通 日航ジャンボ機墜落事故 群馬 (2018年4月30日 13:00)

 日航ジャンボ機墜落事故の現場となった群馬県上野村の「御巣鷹の尾根」の登山道が29日、冬の閉山期間を終えて開通した。快晴の下、各地から訪れた遺族や登山者が墓標に手を合わせた。

 夫=当時(40)=を亡くした大阪府箕面市の谷口真知子さん(70)は「いつも見守ってくれてありがとう。ここに来るために元気でいようと思う」と墓標に語り掛けた。谷口さんは、悲しみから立ち直った自身と息子を題材に歌を制作中。次世代に事故を伝える必要性に触れ「歌をきっかけに事故を知ってもらえれば」と語った。作詞作曲担当の歌手、北川たつやさん(32)が同行した。

 兄一家を亡くした栃木県大田原市の橋本毅さん(64)は「今日が1年の始まりの日。事故の記憶をつないでいくために、今年は何ができるか考えたい」と静かに話した。

 事故は昭和60年8月12日、羽田発大阪行き日航123便ボーイング747が御巣鷹の尾根に墜落し、乗客乗員524人のうち520人が死亡した。