変わり果てた福島故郷に帰る♪

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 東電の『まさか』の事故から7年

皆様の中に去来したものはいかばかりかと思える。

穏やかな暮らしを、ほうしゃのうが容赦なく暮らしを奪ってしまった。

故郷を捨てることなく、自殺されたお方もおられる。

 東京に避難した夫婦が、不便さを承知で故郷に

故郷は、お墓であり、安住の暮らしが、風景を変えてはいたが

間違いなく待ち続けていた。

     東洋新聞より。

迷うことなく帰京された。

故郷へ戻ることに理屈なんてない 老夫婦が辛苦を乗り越えて福島に帰った理由

想像力欠如社会こちら)。

福島の海は静かだった。寄せては返す規則的な波音に、あの日荒狂った海の面影はない

。ほのかな磯の香りだけが、風が吹くたび鼻腔をくすぐった。

「ほら、あれ。水平線の向こうに漁船が見える」

そう海の先を指差したのは、木幡孝子さん(76)だ。隣に並んだ夫の尭男さん(80)は

、妻の言葉に応えるわけでもなく、ただ黙って漁船を見つめた。その横顔は、幾度もの

困難を乗り越えてきたとは思えないほど、柔らかく、穏やかだった。少し、笑っている

ようにも見える。

震災直後、東京での避難生活を余儀なくされた6年間。適応することに苦しみながらも、

都会のアスファルトを見慣れていく日々。

「こんな毎日ももう終わりだ」

尭男さんはどこか寂しげに声を漏らした。運命に翻弄される自分自身に苦笑しているよ

うにも見えた。周囲ではいつのものかもわからない波音が、絶え間なく響いている。

取材日は2016年11月。巨大な津波が彼らの故郷を襲ってから5年半が経っていた。

地上35階から見た景色

東京都江東区東雲にある高層マンション「東雲住宅」。都内有数の埋め立て地にある無

数の高層建築物の中でも、ひと際敷地が広く、新しい建物だ。福島第一原子力発電所

ら半径20km圏外であるいわき市福島市や、半径20km圏内である富岡町双葉町、南相

馬市など、幅広い地域出身の避難者たちが生活をしている。

36階建てマンションの35階に住んでいるのが福島県南相馬市出身の木幡尭男・孝子夫妻

だ。1階ロビーからエレベーターに乗り込み、到着を待つこと約30秒。気圧の変化に耐え

られなかったのか、到着を知らせるアナウンスの声が遠くに聴こえた。

「いらっしゃい。よく来たね」

木幡夫妻はいつも快く迎えてくれる。きれいに整頓された、清潔感ある玄関に足を踏み

入れると、いつもより靴を丁寧にそろえてしまう。しかし彼らが歓迎の言葉の後に決ま

って添えるのは、「狭くてごめんね」という申し訳なさが込められた言葉だ。

玄関を抜けて現れたリビングは、4人掛けのテーブルとテレビ、鉢植えという、シンプル

な空間だ。キッチンも併設されており、お世辞にも広いとは言えない。テレビの裏には

大きな窓が壁一面に広がっており、ベランダに出てみると、お台場から豊洲まで、近隣

の景色を一望できる。この日の天候は曇り。靄がかかった地上の様子は、どこか異次元

にでも迷い込んだと錯覚させるような神秘的な眺めだった。

たわいない話をする。私の冬休みの予定や、アルバイトの愚痴を、尭男さんは楽しそう

に聞いてくれる。孝子さんはその隣でお茶を淹れながら、私が大好きなクッキーやカス

テラを、たんと準備してくれていた。奇遇にも、尭男さんは私の祖父と生まれ年が同じ

であり、夫妻の間には私と同い年のお孫さんがいる。訪問するたびに私を本当の孫のよ

うにかわいがってくれるのには、そんな理由があるのかもしれない。

地震発生当時、あの日の記憶

「大変なことになった」

脳裏をよぎったのは漠然とした焦りの念だった。2011年3月11日、14時46分。尭男さんは

自宅で、孝子さんは外出先のホームセンターで被災した。大きな揺れの後、孝子さんは

すぐに帰宅し、2人は合流した。今まで感じたこともない揺れに混乱しながら、テレビを

つける。

画面には東北各地の被害状況が絶え間なく流れていた。木幡家がある場所は、海岸部に

面する地域もある福島県南相馬市小高区の中でも、内陸に位置する。自宅は幸いにも津

波の被害は免れた。3月11日当日は家で過ごした。漠然とした不安の中、事態は刻一刻と

変化していく。

3月12日、とにかく腹を膨らまそうと食事をし、食器洗いをしていた最中に、ついていた

テレビから家のある小高区が強制避難区域に指定されたという事実が伝えられた。福島

第一原子力発電所で重大な事故が起こり、放射能が漏れているという。3月12日、21時ご

ろだった。

「そこまで長引かないだろう。とりあえず、毛布と下着をいくつか持って北に逃げよう

尭男さんは孝子さんとその日の夜に車で北上し、南相馬市立石神第一小学校の体育館に

避難した。外に出ると道路には一筋の光が延々と続いていた。車のヘッドライトだ。ひ

どい渋滞を潜り抜け、ようやくたどり着いた石神第一小学校。しかしここで過ごしたの

はたった一晩だけだった。3月13日、22時ごろ、突然体育館の入り口で、作業服を着た中

年男性がスピーカーを使って大声を上げた。

「たった今、この地域も危険区域と判断されました。ただちに西に逃げてください。車

がある人は燃料の続く限り、西へ、逃げてください!」

前触れもなく降りかかってきた避難指示。木幡夫妻は友人らを車に乗せ、ガソリンが続

く限り西へ向かった。友人らを彼らの目的地に下ろし、やっとのことで郡山市近くのJR

須賀川駅にたどり着いた。途中、ガソリンが足りなくなり、福島市からはタクシーを使

ったが在来線の終電には間に合わず、須賀川駅で一晩を過ごした。

3月14日が終わろうとしていた。3月15日、避難する人で溢れて乗車できなかったために

始発を見送り、2本目の電車にようやく乗り込んだ。これで娘たちがいる東京に行くこと

ができる。電車に乗り込むと、ふいに涙が出た。中の空気がとてもあたたかかった。

3月の福島は暴力的なほどに寒い。地震の被害に追い打ちをかけるように雨も続いていた

。3日以上にわたり避難を続け、皮膚の中まで冷え切った体に染み渡る、車内の暖気。体

温が上がると人間の心は無条件に安心するのだと実感した。

その後、東京に住む娘宅に避難し、4月18日に正式に東雲住宅への入居が決定した。東雲

住宅は元々国家公務員用の職員住宅として建設されたが、入居開始前に東日本大震災

発生したため、福島県からの避難者用の仮住居として利用された。

地震から1カ月と7日。過酷な避難の果てに行きついたのが東雲だった。

1杯の芋煮での出会い

私が夫妻と初めて言葉を交わしたのは2016年9月のことだった。この日私は江東区のボラ

ンティア連絡会の会長に連れられて、朝早くから台場の近くにある若洲公園にいた。

「東雲の会」が開く「芋煮会」の準備のためだ。「東雲の会」とは、東雲住宅に暮らす

福島県出身の住人たちの集まりのことで、「芋煮会」のようなイベントを定期的に催し

ている。

この「芋煮会」は、主婦の避難者が主体となって、福島県の郷土料理の1つである芋煮を

大鍋に作り、フランクフルトや飲み物と合わせて無料でふるまう大人気のイベントだ。

他にも、さつまいもの種植えや収穫をするイベントをしたり、避難者のために開かれる

他区の祭りに送迎つきで招待したりするなど、避難者たちの毎日の楽しみにつながるよ

うな企画を絶えず提供している。

所縁のない場所での生活を余儀なくされた彼ら自身が、同じ福島出身の者同士、手を取

り合って暮らしていこうという思いで発足したのが「東雲の会」だ。里芋、人参、ごぼ

う、蒟蒻、大根、豚バラ肉に、たっぷりの葱。東雲住宅から集まった約50人の住人が、

熱々の芋煮に舌鼓を打った。参加者に配り終わってひと段落ついたとき、私もようやく

芋煮のご相伴にあずかった。

広大な緑の芝生の多目的広場やキャンプ場が広がる若洲公園。その中央にそびえる風車

のふもとにブルーシートを敷いて、秋の訪れを知らせる風を感じながら食べた芋煮は格

別だった。

「これが福島の家庭の味だよ」

声をする方を振り向くと、白髪交じりの5人の女性が、ブルーシートの上に並べられたパ

イプ椅子にゆったりと腰を掛けていた。東雲住宅でのボランティア活動に何度か参加す

るうちに避難生活者の顔が次第にわかってきたものの、実際に言葉を交わすのはその日

が初めてのことだった。

同じものを口にして、同じ風を感じて佇んでいると、自然と距離を感じなくなる。初め

て話したにもかかわらず、各家庭の「芋煮レシピ」を教えてくれた。

「東京に来てから面倒臭くて作らなくなった。芋煮は大鍋でやらないと上手くできない

んだべ」

そう言って大きな声で笑ったのが、木幡孝子さんだった。パイプ椅子に腰かけていたお

ばちゃんたちの中でもひときわ物静かそうに見えていた孝子さんの笑い声が、予想以上

に大きく響いた。端正な歯並びときゅっと上がった口角を見て、若いころは相当なべっ

ぴんさんだったのだろうなあと予想した。

東京のスーパーで買う葱がまずいとか、高いとか。あそこの医者は混んでいる、このあ

いだ3時間も待ったんだ、福島ではありえないとか。たわいもない世間話を続けていると

、その中のある1人の女性がこんなことを言った。

「それにしても、こんなイベントもだいぶ減ったねえ」

震災直後は月に何度も開かれていたイベントも今では数カ月に1回に減り、かつての活気

はもうなくなってきているという。その言葉に、他の奥様たちも噛みしめるように頷い

ている。

東日本大震災発生から5年半が過ぎ、2016年夏には、多くの町が避難区域を解除された。

それに伴い、2017年3月には、福島第一原子力発電所の半径20km圏外である自主避難区域

から避難してきた東雲住宅に住む住民たちへの住宅支援の打ち切りも決まっていた。

東雲は東京23区内の一等地。住宅支援で光熱費や家賃が無償だったころに比べると、家

賃は安くても月10万円を超える。東雲に住む避難者たちは、少しでも家賃の安い地域を

探して、ぽつぽつと引っ越しを始めているのだ。その中で、木幡夫妻は異例の決断をし

ていた。

「私たちは(福島に)帰る」

初対面だった。しかし鮮明に覚えている。騒々しい公園の空気に筋を通すかのように断

言した孝子さん。決心は相当に固いようだった。夫の尭男さんはこの日、「東雲の会」

の会報紙『きずな』の編集部員として、「芋煮会」の取材もかねて参加していた。

尭男さんと孝子さんに私がいまだかつて福島に行ったことがないという旨を伝えると、

「じゃあ一緒に来る?」と、その場で福島への初訪問の日程が決定した。どこの誰かも

わからない大学生を自ら歓迎してくれたことに対して強く感動したことを覚えている。

芋煮のおかわりをしきりに勧めてくれたり、自分の分も食べろとフランクフルトを分け

てくれたり。よそ者であり新参者である私にも分け隔てなく接してくれる。彼らは人と

人との距離が近い場所で生きてきたのだろうな。温かな空気に包まれながら、そんな実

感が胸の中にすとんと落ちてきた。

準備のための一時帰宅

震災から約5年半が経ったある日、私は木幡夫妻と一緒に、福島へ向かう高速道路を走る

車中にいた。約250kmもの福島への道は、片道だけで4時間も要する。夫妻はこの道の往

復をこれまで数十回と繰り返してきた。それは、「準備」のためである。

福島に帰るという決断。彼らは再び福島県南相馬市小高区にある家で生活をスタートす

るために、月に何度もかつて暮らしていたわが家に通い、生活のために必要な設備を整

えている。網戸の張り替えや、風呂の下水道の修理、温水洗浄便座の設置、玄関の改修

。やらなければならないことは山積みだ。

この日の首都高速道路は混んでいたはずだったが、福島県いわき市を越えたあたりから

格段に交通量が減った。気が付けば高速道路を走っている車は尭男さんの運転する車と

トラック数台だけになっていた。前に走っているトラックには何やら文字が記されてい

る。

よく目を凝らしてみると「放射性廃棄物運搬中」とあった。まさかと思って後ろを見る

と、直後を走るトラックにもまた、同じ文字が記されていた。これが福島への道なのか

。だんだんと福島へ行くという実感が湧いてきた。

高速道路を走り続けること4時間。ようやく「南相馬」の標識が見えてくる。「着いたよ

」という尭男さんの声を合図に改めて窓の外に視線をやった。そこには見たこともない

景色が広がっていた。

荒れ果てた田畑。放射性廃棄物を積んだトラックだけが走る道路。色褪せたコンビニエ

ンスストアの看板。誰もいないパチンコ屋。布団が干したままの家屋は、動物が侵入し

ないようにバリケードで囲われている。玄関先を覗くと、割れた屋根瓦が落ちたままだ

私が声を失っていると、後ろで慰めるように孝子さんが「みんなそのまんまで逃げてき

たから」と笑った。2011年3月11日。福島はあの日のままで止まっていた。人間の息が通

わなくなった街の現在がそこにはあった。すべてあの日のままなのに、3月11日以前の南

相馬の姿はここにはない。人間がいない。ただこれだけのことが、この南相馬の街を大

きく変えてしまっていた。

「情けなくて泣けてくるなあ」

この言葉を彼らは車中何度も口にしたが、本当に泣くことはなかった。秋の訪れを知ら

せる乾いた風の中で、木幡夫妻は変わり果てた南相馬をただ見つめていた。

黄色の住人、セイタカアワダチソウ

木幡家に到着した。東雲の家の大きさの何十倍もある彼らの自宅は、林の中にあった。

尭男さんによると、周囲の世帯で福島に戻ってくる予定の人はほとんどいないという。

その事実を実感させるかのように、家の周辺は実に静かだった。

福島に住んでいたころは米農家として生計を立てていた木幡夫妻。広大な面積の田畑は

今、雑草たちの温床に変わっている。木幡家以外の田畑もそうだ。どの田畑を見渡して

も、雑草は伸び伸びと生え、すすきは誰にもお構いなしに道路に溢れていた。福島を車

で走っていると、ボリュームのある黄色い花をつけた草をそこかしこで見つけることが

できる。

木幡さんによると、その花はセイタカアワダチソウという外来種だそうだ。気味が悪い

ほどにどの田畑にも黄色い花が咲いている。繁殖力が強いセイタカアワダチソウは、人

々がいなくなってからすぐに根を広げたという。木幡夫妻の田畑にももちろん、セイタ

カアワダチソウをはじめとする外来種や雑草が多く生えていた。

孝子さんは手持ち無沙汰になると、すぐにそれらの雑草を抜いては寄せ集めた。尭男さ

んの「キリがないからやめろ」という言葉に頷きながら、それでも雑草を抜く手を止め

なかった。

その言葉を聞いたとき、私の中にすとんと落ちるものがあった。木幡夫妻は帰りたいん

じゃない。帰らなくちゃいけないから、故郷に帰るんだ。世間が抱くような、避難者が

故郷を恋しがる感動のストーリーは、尭男さんの口からは語られなかった。彼はただ、

縛られていて、故郷が自分を離さない。だから故郷に帰らなきゃいけないんだ。家や墓

、土地などのしがらみが複雑に絡み合って、彼らを動けなくしている。この気付きが私

の疑問を軽くしてくれたと同時に、尭男さんの言う「故郷」は誰もが心のどこかに持っ

ているものなのだろうかと考えた。

「おカネで計算できないよ。今でもじっとしていると、あのときあんな話をあの土手で

したな、あそこの芽吹きがきれいだったな、と思い出す。山であり川であり、田畑であ

り人であり。故郷とは、生きる上での『ごはん』のようなものなんだよね」

衣食住と同じように、彼らにとって故郷とは、生きるために必要な要素の1つなのだ。木

幡夫妻は、私に「故郷」という言葉の本当の意味を教えてくれた気がする。私を縛る、

不動の場所。私に故郷はあるだろうか。

「当たり前」の向こうにいる人を考える

2018年3月に、彼らは福島に帰った。残りの人生を南相馬で過ごす。決して安全が保障さ

れているわけではない。それでも夫妻はこの道を選んだ。それは5年間の避難生活を経て

決心した選択ではなく、2011年3月11日、家を飛び出したあの日あの瞬間から決まってい

た選択だったのかもしれない。

東京などの離れた地域で被災地・福島を考えることは非常に難しいと感じる。特に、1分

1秒で情勢が変わる首都圏は、情報は過多、刺激的な出来事に溢れている。きっと東京に

は、被災地を考えるよりも「大事なこと」が沢山あるのだろう。それでもこれだけは忘

れないでほしい。

煌びやかなイルミネーション、帰り道に照らしてくれる電灯、スマートフォンの充電を

助けるバッテリー。そのコンセントの先にあるのが、福島だということを。私たちの生

活を豊かにしてくれていたエネルギーは、福島の人々の生活と安全と引き換えに存在し

ていたということを。

「復旧も復興も先が見えない福島に、私たちは何ができるの?」

できることは、沢山はないかもしれない。でも、少し。少しでいいから想像してみよう

。この電気はどこからやってくるのだろう。誰がスイッチを押してくれているのだろう

。これは福島と首都圏の関係だけではない。毎日のお弁当は誰が作ってくれるのか考え

てみよう。毎日のごみは誰が収集してくれているのか考えてみよう。

木幡夫妻が失った故郷。そして再び帰る、故郷。彼らの選択は私に、地域と人とのつな

がりを考えるきっかけをくれた。

想像力は感謝につながる。感謝は人を豊かにする。当たり前に疑問符を持つこと。この

小さな心がけの連鎖が、私たちができるもっとも息の長い支援なのではないだろうか。