ねむの木学園創設50年。

       ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 今日のスタートの早朝の空気は、とってもぶるっと来るものではありましたが

なんだか新たなるものを感じさせずにはいませんでした。

 夜明け前のお空を仰ぎ、多くの運命を背負わられた

多くのお暮らしが少しでも穏やかな空気でありますようにと「合唱」

 ねむの木学園の誕生から50ねん。

 宮城真理子さんの資産を投じ続けてねむの木村の誕生にと

借金を背負い続けての障害。

生い立ちと言えば、少額5年の時母を亡くし

それと同時に、父が事業に失敗と、決して恵まれた生活ではなかったと思われます。

 早、中学生のころには吉本工業に入社し家計を支えておられました。

ですから学歴と言えば小学6年卒業ということになります。

まるで、神様から遣わされたお人のようにも思えるお方です。

みんな一緒」といった考えのもと、未知の開拓にご苦労続きの

人生をあえて線タックされました。

本当に涙が出ます。

きれいでよどみなく、澄み切った水の流れのようなお心に

ただただ最敬礼でしかありません。

  皇后さまが「ねむの木」の歌詞を学園に送られています。

願い

 ねむの木学園と名前をつけた、とにかく、手足にハンディキャップを持ち、精神におくれを持ち、家で、家族がめんどうをみることの出来ない子が、小学校、中学校に、通うことが免除される就学猶予という法のもとに学校に行かなくてもいいことを知り、私は、自分の幼い頃からなにかを学びたいという心と、小・中学は義務教育ではないの、その義務を放棄してしまうなんて、許せない、そんな思いつめた心から、又、自分が、自立できていることの申しわけなさみたいななにか、許せない心で日本にまだ、法律もなかった障害を持つ子のお家をつくってしまった。まだ、制度もないこの仕事は、許可を得るまでが大変、そして本当に大変だったのはこども達を受け入れたときからだったんです。  

 めんどうを見てもらう職員さえ、どこで、どうさがしたらいいかわからない私。町の小学校から、分教場として、何人かの先生が、来て下さるようになったことの喜びと、とまどい。特に私は幸せな自由な教育を受けていましたので、なおざりの教師への怒り、考えに考えた末、事務職員も未だおちついていない時、学校の独立を考えてしまいました。

なにか一つ出来ればいいじゃないの。

 心が集中すれば、なにかが出来るのじゃないの。そんな学校あってもいいじゃないの。

 私の本当の心でした。

 海岸にかにがたくさんいるわけないのに、こどもから見せられた絵は、海と砂浜でした。砂浜に蟹がたくさん遊んでいました。

蟹をこの子は、みたことがない、すぐ感じました。「蟹ね、自分で書いたの?」きつい心の言葉でした。「ううん、先生が二つかいてくれて、これみたいにかきなさいっていたのよ」それは、素直な言葉でした。

 私は、率直答えたこの、その頭をなぜてあげながら、いかり狂っていました。その蟹は足が六本でした。ハサミもありませんでした。目玉は少し出っぱって二つ、知恵がおくれているから、足も足りない、はさみも足りない知恵おくれのこは、数がわからないから、わざと、おくらしたのでしょうか?

 「ちがうよ」言葉になりそうになったのを、ぐっとこらえました。

人間を尊重していない・・・お友達の谷内六郎さんに遊びに来てもらって、私たちは、放課後、美術クラブをつくりました。砂丘カニなんて題をつけるから、束縛されるんです。自分の思ったまま、感じたまま、谷内さんも私も同じ意見でしたので、そばで別のことしながら絵をかく雰囲気をつくることにしました。二人とも、決して教えませんでした。

 ロックをかけたり、おかしをたべたり、ねっころがったり、それは、楽しいクラブでした。今も、ねっころがってかく習慣は残っていて、大きくなった男の子が大の字にうつぶせになって大きな紙に絵をかいていると、それだけで、いっぱいになるような気がします。○と□と△これだけは、はじめて絵をかく子の基本ね、私は幼稚部の先生達にいいます。

 或る日、例によって、谷内さんは、うたい、私はお菓子の支度をしていた時、花が一つ、その中にまり子さんが手を広げている絵が出ました。谷内さんも私もデターとさけびました。そして、その後、ドンドンとこども達は絵をかき出したのです。学校を、独立させて丸十数年みなさんのおすすめで、始めの頃、中頃、近頃となんとなく、わけて大切にしてある三千点あまりの絵を全部フィルムにとり、この一冊をつくりました。もう一冊つくりたいよ、私はいいます。これ落とすのかわいそうだよ、いいんです。ふえすぎます。スタッフはいいます。ツカ見本と色校が出来た時、この本がいとおしいと思いました。このこたちの絵は、ニューヨーク、パリ、スウェーデン、スイス、イタリー、ドイツ、と大きな展覧会をしていただき、国際交流をしています。「ねむの木学園は、絵の上手な子だけ選んで入学させるんですか」そう聞かれる時がよくあります。私は、胸をはって答えます。「いいえ、どの子もいっしょです。選んでなんかいません」

 こども達、次から次から入園してくる小さいこも私一人で、ワァーとさけぶような絵をかき出します。無限のこども達そして才能、いいですね。あなたの本箱に、ずっとおいて下さい。まり子の命と願いとありったけ愛が入ってます。  

宮城まり子

「ねむの木子ども美術館」(1995年刊)より

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掛川市上垂木の「ねむの木学園」が今年で創立50周年を迎え、6日の本年度始業式に合わせて節目を祝った。国内初の肢体不自由者養護施設で、小中高の学校も備え、芸術活動は世界的評価を受けている。創立者で園長の女優宮城まり子さん(91)は学園が目指す“優しさと強さ”に満ちた社会を願い、教育への意欲を新たにした。

 始業式には新入学児1人を含む児童生徒33人と、卒業後も園内で生活する入所者ら40人が出席した。宮城さんは50年の歴史に触れ「日本一の絵描きになれる。お茶の先生、ダンサー、歌い手にも。みんなで頑張ってください」と語りかけた。創立時から園内で暮らす利用者に花束や手製のショールを贈られ、笑顔で抱き合った。

 学園を開いたのは1968年。舞台で脳性まひの役を演じるため都内の病院を見学し、学びから置き去りにされた子どもに触れ、「誰もが才能を発揮する場を造る」と決意したという。

 前例のない施設の運営は苦難の連続だった。宮城さんが12歳の時に亡くなった母の「自分より弱いものを助けなさい」という教えを支えに奮闘。特に絵画は国内外の数々の有名美術館に招かれるレベルに高めた。97年に旧浜岡町から現在地に移転し、併設した美術館や茶室は連日多くの人が訪れている。

 50年で障害児教育の制度は発達したが、同園には今も全国の児童相談所などから、障害が重く肉親に養育の力がない子どもたちが入所してくる。宮城さんは「子どもたちの頑張りをもっと多くの人に見てもらい、認め合う大切さを感じられる場になれば」と夢を語り、「私も年を取ったけれど死んじゃいられない。みんなが成長する学校であり続けたい」と力を込めた。

「ねむの木学園」50年 障害児の芸術作品、世界も魅了

 俳優で歌手の宮城まり子さん(91)が設立した障害者施設「ねむの木学園」(静岡県掛川市)が6日、開設50年を迎えた。周辺は美術館や文学館もある「ねむの木村」に発展し、障害のある子どもらが芸術活動に励んでいる。今も日夜、園生を教え、面倒をみる宮城さんは「大勢の人に、子どもらの作品に触れてほしい」と話す。

 ねむの木学園は宮城さんが私財を投じ、1968年に日本初の肢体不自由児養護施設として同県浜岡町(現御前崎市)にできた。子どもたちの才能を信じて美術や音楽を教え、映画「ねむの木の詩がきこえる」や作品の展覧会を通じ、活動が世界的に知られるようになった。

 97年には、現在の掛川市の山あいに移転。理由について宮城さんは最近、「近くにあった浜岡原発が怖かったから」と明かした。移転後は、パートナーだった作家の吉行淳之介さんの文学館やこども美術館を造り、桜などの花木を植えた。園では現在、身体障害や知的障害がある73人が暮らす。

 宮城さんは50年の節目に「子…