歴史が語る北方領土。

 ご機嫌いかがでしょうか。 

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 キャベツ一つが200円の価格まで下がり

思わず買い込みましたが、農家の心中を、察するとき、複雑な思いでした。

 キャベツにつく虫胎児も、日々の管理も簡単では良い作品など

生産はできかねます。

 総理の思い付きでの防衛機器の多くの買い込み、これには、莫大なお金と

その管理費用も人件費ともに莫大ともいえます。

 国民は年金の縮小と防衛費との関連をどのように

判断されることでしょうか?

思いつき予算の連発には降参であります。

ロシア外交も、引き出されっぱなしれの外交にも

無念さだけが徒労のように残ります。

色丹島に新水産加工工場 北方領土のロシア化示す事業に

 ロシア極東サハリン州は3日、事実上の管轄を続ける北方領土色丹島に今年、2カ所の新たな水産加工工場が建設されると発表した。100億ルーブル(約185億円)の民間資金が投じられ、工場開設により820人の新規雇用が生まれるという。深まる北方領土のロシア化を示す事業となりそうだ。

 同島の斜古丹(ロシア名マロクリーリスコエ)で夏に建設が始まる工場は冷凍や冷蔵の加工物や缶詰を生産。穴澗(同クラボザボツコエ)でも10

 ロシア外交の成果については、交代が目に余るように、認識させられます。

 島国からくる性質なのか国境が陸続きでないためか

その内容の精査不足を感じないわけにはいきません。

 むしろ一般企業のほうが学習力があるのではと

痛感させられることがよく感じられます。

日米環境も、トランプ大統領に好きにカードとして

使われているにすぎないように思うのは

おとぼけばあちゃんゆえでございましょう!

     産経より

【明治150年】第2部 国境(上)強国ロシア相手に「優秀な罪人」榎本武揚を登用

した日本の心意気 (2018年4月3日 05:00)

 3月19日夕、安倍晋三首相は現地時間18日のロシア大統領選で再選したばかりの

プーチン大統領と電話で会談した。祝辞もそこそこに両国に横たわる北方領土問題につ

いて持ち出した。

 「これまでの合意を一緒に進めていこう」

 2人は最近5年間で直接20回、会談している。互いを「ウラジーミル」「シンゾー

」と呼ぶ仲だ。北方四島での共同経済活動を進める合意も交わした。圧倒的なリーダー

シップを持つプーチン氏の再選は領土問題の進展には好材料に違いない。しかし具体的

な解決のめどがあるわけでもない。

 電話会談は約20分間。プーチン氏は首相の言葉に同意はしたが、それ以上でもそれ

以下でもなかった。

 択捉島国後島色丹島歯舞群島北方四島旧ソ連、ロシアが不法に占拠してか

ら73年がたつ。いまだに名実ともに日本の領土となる見通しは立っていない。

 北方領土問題をさかのぼると、明治8年に日露間で締結した樺太・千島交換条約にた

どり着く。千島列島はそれまで択捉島とその北東のウルップ島との間に国境があった。

樺太(サハリン)はアイヌや日本人、ロシア人が居住し、どこの国にも属さない「雑居

地」だった。

 海に囲まれた島国の日本で、国境という概念は近代の産物といえる。19世紀のドイ

ツの法学者、ゲオルク・イェリネックは国家の三要素を「領土、国民、主権」と定義し

た。現在もその概念は浸透している。

 日本が領土を明確に意識したのは明治初期だ。近代国家を歩み始める上で、国境の問

題は避けて通れない。当時の日本地図を見ると、現在の領土とほぼ変わらないが、北や

南の国境は曖昧だった。

 英国に次ぐ強国・ロシアは日本への野心を隠そうとしていなかった。1860年に清

から日本海に面した沿海州を割譲させ、東の海に出る不凍港としてウラジオストクを築

いた。意味は「東方を支配せよ」。その「東方」に日本がある。

 交渉の末、千島列島は全て日本に、樺太はロシアとすることで合意した。前面に立っ

たのは駐露全権公使の榎本武揚(1836~1908年)だ。榎本は明治7年に交渉に

出発する前、「維新の三傑」の一人、大久保利通らからこんな特命を受けていた。

 「樺太の雑居地を廃して国境を定め、樺太を放棄する場合は千島列島を日本に譲るこ

と」

 かなりの難題である。樺太とほぼ同じ面積の北海道すら開拓の緒についたばかりの時

代、さらに北の樺太の統治は発展途上だった日本の国力からして重荷だった。一方、雑

居地とはいえ、日本人も住む樺太から撤退すれば「弱腰外交」との批判が噴出する懸念

もあった。そもそもウルップ島以北の千島列島はロシア領だ。そこを新たに獲得する大

胆な案をロシアが受け入れるあてもなかった。しかし特異な経験を持つ榎本は外交力に

自信があった。

 明治7年11月、ロシアの首都サンクトペテルブルクで日本の北の国境を画定する交

渉が始まった。駐露全権公使、榎本武揚に対しロシア側は案の定、樺太(サハリン)の

全島所有を主張した。同時に「日本に代償を用意する」とも語った。榎本は機先を制し

た。

 「それはウルップ島と1、2の小島だろう。樺太と釣り合わない」

 膠着状態の中、榎本は次の手を打つ。択捉島の北東に位置するウルップ島などの譲渡

を受け入れると同時に「樺太に見合うだけの軍艦」を求めた。東方進出や度重なる戦争

で財政難のロシアに高価な軍艦を供与できる余地はなかった。ロシアは代案を考え始め

、千島列島の譲歩のラインを北東に延ばしていった。完全に榎本のペースである。

 榎本はついに「樺太と千島列島の交換」のカードを切った。ロシアは拒んだが、悩ん

でいるようだった。榎本はこんな情報をつかんでいた。欧州で英国と対立するロシアの

皇帝、アレクサンドル2世が「二正面作戦」を避けるため、日本との交渉を早期に決着

させたがっている-。

 榎本は幕末に5年間、オランダに留学し、幕臣として日本に来たロシア人の相手もし

ていた。国際感覚と人脈を駆使し、相手がひるんだ隙を逃さなかった。8年5月7日、

樺太・千島交換条約が締結された。

 国境に関する著作が多い東海大山田吉彦教授は「当時は力で解決できない時代だっ

た。力が弱い者が“交渉”することは非常に重要だった」と語る。欧州では戦争による

国境画定が一般的な時代、日本は武力が乏しかった。外交で国難を克服した明治人の気

概と行動力は実に痛快である。

 榎本は数奇な運命をたどった人物だ。江戸幕府海軍の指揮官として明治改元後も新政

府に抵抗し、戊辰戦争の最終決戦、箱館(函館)戦争では新選組土方歳三らと五稜郭

に籠城。そして明治2年に降伏した。

 榎本の助命に奔走したのは、後に首相となる黒田清隆だ。箱館戦争で新政府軍の参謀

だった黒田と榎本は文字通り対峙した。黒田は最後の総攻撃直前、劣勢の榎本に使いを

出し、武器弾薬の提供を申し出た。当時の気風はそうだった。

 榎本は「ご好意に感謝する」と丁重に断った上で、ある書物を託した。オランダから

持ち帰った国際法の教科書「海律全書」だ。

 「今後の日本に必ず役立つと思う。新政府でご活用願いたい。決戦の際に消失する恐

れがあるので、ぜひ保存願いたい」

 黒田は感嘆し、武器の代わりに酒とつまみを届けた。内務卿の大久保利通らに榎本の

釈放を嘆願し、頭を丸めアピールした。そして死罪確実といわれてから5年後。榎本は

対露交渉で日本の代表となった。

 薩摩や長州出身者を中心とする新政府に外交経験者は少なく、国際感覚にたけた榎本

の才能は貴重だった。とはいえ、近代国家を歩む上で最優先だった国境画定のために「

優秀な罪人」を登用した明治政府の心意気は驚くべきことだ。

 明治維新は全てが変容したといっても過言ではない。混迷の時期の中、国境の画定は

焦眉の急だった。

 明治初期のさまざまな記録を見ると、政府が極力武力に頼らず、国際的な理解を得な

がら国境を画定しようとした痕跡が見える。

 山田教授は「岩倉具視の遣欧使節団の意味は大きい。欧米を回り自分たちに力がない

ことを改めて確認すると、交渉しようとなった。不平等条約と向き合い、主権というこ

とに初めて目が向いた」と話す。

 新政府は明治4年、公家出身の岩倉を団長とする使節団を結成し、大久保や木戸孝允

伊藤博文ら中枢メンバーが加わった。想像しがたいことだが、政情不安のときに1年

10カ月、要人中の要人が日本を留守にして米英独仏などを回った。

 産業技術や国民の暮らし、政治・社会制度を直接見た成果は絶大だった。随行員で帰

国後に『米欧回覧実記』を刊行した久米邦武はこう回顧している。

 「英国は日本と同じ島国なのに大きな船を作り、近代化を進めて国力を広めている。

この島国の根性をわれわれは見習わなければいけない」

 現在の日本も北方領土をはじめ、韓国が不法占拠する竹島島根県隠岐の島町)、中

国の脅威にさらされる尖閣諸島沖縄県石垣市)と国境をめぐる懸案は絶えない。しか

し、武力による解決は選択肢となり得ない。求められるのは外交力だ。時代や国際環境

は大いに変化しても、明治人の精神に学ぶところは多い。