新たなる福島の街づくり、行政の支援あればこそ!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 福島の復興は嬉々として暮らしが進行しない。

これは住めるようになっても暮らしの条件が整わないことだ。

医療スーパー、若者が街に帰らないことだ。

年寄りばかり帰っても暮らしは成り立たない。

 かつては2万人もの人口地も、帰ったのはわずか500人という。

 これでは復興予算を計上して支援してもケアーには及ばない。

 福島計画としては、まず新たなる街づくりをすることからのスタートにしなければ

復興支援の完成などありえない。

 その一つの提案として、中央省庁のいてんなどもあるのではないのか・・・?

 東京に集中する人口の移転問題も視野に、福島を

幸福の街づくりに展開する構想もあってよいのではないのでしょうか。

 町に暮らしが戻れば、帰ってきたい人は少なくないはずです。

 農業はしばらく、しばらく低迷することは承知すべきかもしれない。

これは消費行動に理解が求められなければならない

 福島の活性化は、土地利用を国家レベルで検討いただくことこそが

急務と考えます。

新たなる福島の街づくりを期待したいものです。

世界が福島を注目し続けています。

     新聞記事より。

福島の原発被災地 まちの再生、探り続ける (3月4日)

福島第一原発の周辺4町村で、避難指示が一斉に解除されてからまもなく1年。東日本大震災

原発事故で深手を負った現地をめぐると、厳しい現実がいや応なく目に入ってくる。

住まい、買い物、医療と介護、働く場、コミュニティー……。生活に欠かせない機能の多くが足

りず、人の帰還が進まない。住民への意向調査で「戻らない」と答えた人が5割に迫る自治体

もある。

しかし、裏を返せば、「いずれ戻りたい」「迷っている」という人も少なくない。

それぞれの被災者の生き方を支えつつ、望む人が地元に戻れる環境を整えていくのは、行政の大

切な役割だ。これまでの対策を点検し、実情とのずれをただす必要がある。

まちの再生は難題が山積みだが、道筋を探りながら、粘り強く進むほかない。

■帰還進まぬ現実

原発の北側に位置する浪江町。1月末、開校を春に控えた「なみえ創成小・中学校」で入学説明

会があった。

「少人数の学校の方が、一人ひとりきちんと目を配ってもらえると思う」。家族でいわき市に避

難する30代男性は、学校の再開に合わせて地元に戻り、2人の子を創成小に通わせることに

した。町の畠山熙一郎教育長は「子どもの声が聞こえる普通のまちに再生する、大事な一歩に

なる」と期待を寄せる。

ただ、こうした家族はまだわずかだ。入学予定は小中の合計で10人ほどにとどまる。

震災前、町には2万人余りが住んでいたが、戻ったのは1月末時点で約500人にすぎない。ハ

ードルになっているのは、生活環境の整備の遅れだ。

町内にコンビニはあるが、スーパーはなく、車で数十分かかる店に頼らざるを得ない。町が業者

に出店を働きかけているが、商圏がまだ小さく、話がまとまらない。

診療所も内科と外科のみ。戻った住民には高齢者が多く、「歯科や眼科も何とかしてほしい」と

いった声が聞かれる。

■堂々巡り抜けるには

住民の大半が戻らない状況は、浪江町と同じ時期に避難解除された富岡町飯舘村も似通う。除

染を進め帰還を促す行政の思惑は、大きく外れている。

暮らせる環境が整わないから住民が戻らない。人が少ないので、生活に必要なサービスが提供さ

れない。この堂々巡りから抜け出すために、自治体と政府は生活分野の対策に知恵を絞らねば

ならない。

医療・介護は、担い手確保を市町村任せにせず、福島県や国が関係団体と連携して支援すること

が必要ではないか。商店などには、再開準備だけでなく、一定期間は運営も支える仕組みを充

実させられないか。

市町村ごとにまちの再生を進めるやり方には限界もあるだろう。必要な機能を複数の自治体で分

担して整えるなど、広域連携が欠かせない。

気がかりなのは、復興政策が施設整備に偏りがちなことだ。

巨額の予算を投じて、エネルギーやロボット技術などの研究開発施設、大型スポーツ施設などの

建設計画が進む。「復興予算があるうちにと考え、箱ものをどんどん求める首長もいるが、維

持費のことまで頭が行っていない。国も感覚がちょっとまひしている」。被災地のある町の幹

部は漏らす。

行政は「生活再建」を強調するが、予算や人手の配分がずれてはいないだろうか。

■社会全体で支える

被災地では、長引く避難で暮らしの土台となる人のつながりが根こそぎ壊され、帰還や賠償金を

めぐる分断も影を落とす。作り直すのはたやすくないが、新たな芽も生まれている。

2年半前に避難指示が解除され、住民の3割が戻った楢葉町。昨年9月に開店した小料理屋「結

(ゆい)のはじまり」は夜になると、周辺の住民や原発関係の作業員らでにぎわう。

店を切り盛りする古谷かおりさん(33)は、もともと首都圏で働いていたが、復興を担う人材

の育成塾にかかわり、起業を決意した。「地元の人と外から来た人が接点を持ち、自然に楽し

んでもらえる場として続けていきたい」

飯舘村が近く始める「ふるさと住民票」は、つながりを被災地の外に広げる試みだ。村を応援し

たい人を対象に、村の情報を伝え、村民と交流する仕掛けも考えるという。

「元に戻すのではなく新しい村をつくるという発想で、いろいろ実験していく」。菅野典雄村長

は話す。

原発事故から7年。今も福島の人々は現実と向き合い、悩みながら、平穏に暮らせる環境を取り

戻そうと模索を続ける。

忘れてならないのは、あの事故が原発を推進する国策の末に起きたという重い事実だ。そのこと

を胸に刻み、復興への歩みを社会全体で支えていけるかが問われている。