元自民党の中広務さん死去。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのみこばあちゃんです。
一党独裁が続くことでメディアにおいても報道のブレーキを感じそれが抑制され
真の報道が妨げられることにも売れいていたのが野中氏であった。
敗戦時が19歳の兵士でもあったから自殺まで考えたといった軍人派でもあった。
その野中さんがハンセンに傾いていった経緯に関しては勉強不足ですが
集団的自衛権公使ノ明記の安保法の制定は
戦争の三線のスタートとなり、これは軍隊としての一歩であり
誰の命も大切です。
日本は世界においても被爆国としての発言は許されるはずです。
今なお、被爆者のお苦しみはいかばかりでしょうか。
争いで命を落とすことはどのような立場においても許されるはずはありません。
総理はこの9条を何があっても改正しようとしています。
だからと言って、放置すれば決定されてしまいます。
これは国民である主権者が望んでいることでもありません。
この憲法を改正しなければ自衛隊の抑制力が働くものでもありません。
市民レベルの行動でこの憲法の改正が阻止されることが望まれます。
今では独裁政治のため、自民党からの反対意見も出ないのが実情です。
一党独裁の権力面における総理のはなはだ暴言まで目立つ昨今です。
アサヒコムより。
野中氏、反戦・反差別訴え「一番まずかったのは安保法」
野中広務さんが亡くなった。権力の中枢にまで登り詰めながら、晩年は反戦と反差別を訴え、弱
い人へのまなざしは温かかった。19歳の一兵士として終戦をむかえ、地方政治に長らく身を
おいた原点があった。
〈野中氏「大政翼賛会にならぬよう…」国会で異例の発言〉
野中さんの弟で元京都府園部町長の野中一二三さん(86)は「いい兄貴だった。昔からどこ
ででもはっきりと物を言う人。国のため一生懸命だった」と振り返った。地元・京都4区選出
の田中英之・衆院議員(47)は「子どものようにかわいがってもらった。まだ信じたくない
」。
〈特集:野中広務さん〉
野中さんは自ら設立した京都府南丹市の福祉施設「京都太陽の園」にも足を運んでいた。施設
で働く女性は「昨年5月ごろ、利用者と話したり、写真を撮ったりしていた。顔からにじみ出
る優しそうな雰囲気が印象的だった」と話した。
京都府園部町(現南丹市)で生まれた野中さんは1943年、大阪鉄道局に就職。45年に戦争
で召集され、高知で終戦を迎えた。敗戦で自決を考えたほどの軍国青年だったという。後に著
書で「戦前の私たちは知らないうちに教育され、戦争に突入した。私はこうした民族性に恐怖
を感じる」と記した。
戦後、地元の園部町に帰り、51年に町議に初当選。33歳で町長になった。府議を経て衆院選
に初当選したのは83年。57歳だった。国会議員としては98年に官房長官になるなど権力
の階段を上ったが、郵政民営化を掲げた小泉純一郎首相と対立して2003年、政界を引退し
た。
自民党を一時離党したが、16年に復党した。だが「憲法9条を守る」との立場は貫き、それに
関連する講演や取材なら積極的に引き受け、時の政権を厳しく批判もした。
17年、朝日新聞のインタビューでは「最近の新聞の中には政府の都合の悪い報道はせず、かば
うところも出てきた。安倍首相に意見する人が党内にも少ないんだ。一番まずかったのは集団
的自衛権の行使を認める安保法制をつくり、戦争をできる国にしたこと。他国の人を傷つけ殺
すことは、自分たちも殺されることになる」と語っていた。
1995年の阪神・淡路大震災…