世田谷一家殺害事件の爪痕。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

  世田谷一家殺害事件が起きてからすでに17年。

記憶も少しづつ離れ、日替わりのように起きるいろいろな事件に

心を奪われているのが実態です。

 祥子の痕跡までありながら、なぜに逃亡がはばめないのであろうかと残念に思えています。

 被害者の親族が受けるご苦労もいかばかりかと思います。

事件当初は同情もあったはずではあるが

長期にわたるに伴い心無い陰口も生まれ、精神的葛藤も言葉に表せないものがあるのでしょう。

今では講演活動もできるようになり、気持ちの切り替えの中つらい気持ちには

変わることはないのでしょうがポジティブライフも

時間とともにチェンジせざるを得なかったに違いありません。

このようなことは、いつ誰に起きるかしれないことだけは止めおきたいものです。

     山系より

隣に住んでいた姉一家の人生も激変した 世田谷一家殺人事件、被害者の姉の「その後」

11月15日、明治大学のホールで、講演が始まろうとしていた。「学部はどこ?」「今日は、ど

んな話が聞きたい?」講師の入江杏さんが、着席している学生に、気さくに声をかける。

講演のテーマは『犯罪被害者支援のつどい』──。

冒頭、スクリーンに映像が流れ始めると、学生たちの表情が引き締まる。

20世紀最後の凶悪犯罪

2000年、12月31日に発覚した『世田谷一家殺人事件』の報道番組を、10数分に編集したものだ。

当時、世田谷区上祖師谷に暮らしていた、宮澤みきおさん(44)、妻・泰子さん(41)、長女

・にいなちゃん(8)、長男・礼くん(6)〈年齢は当時〉の一家4人が殺害された事件は、17年

たった現在も犯人逮捕に至らず、未解決事件となっている。

「みなさんは、この事件を知っていますか?」

VTRが終わると、入江さんが静かに語りかける。

若い学生のほとんどは知らなかったが、中高年の参加者は大きくうなずく。

「あの日、事件をニュースで見たとき、自分が何をしていたかまで覚えている方も多いんです。

大みそか、という特別な日でしたからね」

確かにそうだ。自らを振り返っても、大掃除を終え、のんびりテレビを見ていたとき、不意に飛

び込んできたニュースに凍りついたことを、今も鮮明に記憶している。かわいい子どもたちの

命まで奪った残虐な事件は、日本中を震撼させ、20世紀最後の凶悪犯罪と呼ばれた。

だが、ほとんどの人は知らなかったのではないか。

殺害された宮澤さん一家のすぐ隣に姉一家が暮らしていたことを。事件を機に、姉一家も大きな

渦に巻き込まれていったことを──。

その姉が、入江さんである。

「“世田谷事件の遺族です”、そう人前で話せるまでに、6年かかりました。そして、今、17年

たった私の姿です」

穏やかな表情は、犯罪被害者遺族という言葉が不釣り合いなほど。ざっくばらんな話し方も、実

に親しみが持てる。講演の中では、事件を語る一方、被害者遺族と周囲が、どう向き合えばい

いか、という話にも多くの時間を割いた。終盤では、次々と質問する学生に、「いい質問です

ね」と、時に笑顔を見せながら、自分の考えを伝えていた。その姿が物語っていた。

17年を経て、入江さんが、「助けが必要な人」から、「助ける人」へと立場を変えていること

を。

『あの日』から、どう生き直してきたのか

事件があった『あの日』から、どう生き直してきたのか。壮絶な日々を振り返ってもらった。

「両親の話もするんですか?ちょっと待っててください」

東京・港区の自宅リビング。入江さんはそう言い置くと、別の部屋から風のように2つの写真立

てを持ってきた。

「こちらが父。豪放磊落(らいらく)で、ちょっと遊び人、なんて言ったら怒られちゃうかな(

笑)。母は、見てのとおり、まじめな人でした」

1957年、東京・品川区旗の台で生まれた。不動産業を営む父親は、仕事柄、浮き沈みが激しく

、しっかり者の母親が、家庭を守っていたという。2つ違いの妹・泰子さんとは、2人きりの姉

妹で幼いころから、それは仲がよかった。

「子ども時代は、路地裏で遊んだり、年ごろになってからは、恋の話も打ち明け合ったり。やっ

ちゃん(泰子さん)は私にとって、誰よりも心を許せる存在でした」

小学校から高校まで、入江さんは私立の一貫校に通い、泰子さんは地元の公立学校に通った。姉

妹で進路が違ったのは、「父の羽振りのいい時期が、たまたま私の学校の節目に重なっただけ

」と笑う。

「だから、妹が高校受験のときは、勉強を見てあげたりと、できる限り応援しました。父の仕事

がうまくいかず、家が大変だった時期も、やっちゃんがいれば心細くなかったし、たぶん、妹

も同じだったと思います」

絆の深さは、唯一無二。

名門、国際基督教大学を卒業して間もなく結婚したのも、「やっちゃんの言葉が決め手でした」

と言うほどだ。

「夫を自宅に初めて招いたとき、妹が“お姉ちゃま、わかってる??あの人、とってもいい人よ

。あの人を逃したら、一生後悔するよ!”って、すごい勢いで。当時、末期がんを患う父を安

心させたい気持ちと、仕事で自活したい気持ちがせめぎ合っていましたが、妹の言葉で迷いが

吹っ切れました」

こうして、24歳のときに、大手自動車会社にエンジニアとして勤務する、8つ年上の夫・博行さ

んと結婚。父親にも、晴れ姿を見せることができた。

結婚から6年後には、待望の長男が誕生。同じころ、泰子さんも、会社員のみきおさんと結婚し

、家族ぐるみの付き合いが始まった。

そんな両家が、寄り添うように建つ二世帯住宅に引っ越したのは、1991年のことだ。

「妹と相談して、決めたんです。2つの家族が“支え合う仕組み”を作ろうって」

当時、夫の独立・起業にともない、入江さん一家はイギリスに生活の拠点を移すことになってい

た。

「父に先立たれた母をひとり残すのが心配でしたが、母が私たちの家に暮らし、隣に妹夫婦が住

んでくれたら安心だと。私たちも、日本と行き来するつもりだったので、妹たちと暮らせるこ

とを、楽しみにしていました」

宮澤家に、にいなちゃん、礼くんが生まれてからは、帰国のたび、両家8人の大家族が、にぎや

かに食卓を囲んだ。泰子さんが学習塾を開く際は、入江さん一家のリビングを教室として提供

。二世帯住宅は、当初の予定どおり、2つの家族が『支え合う』舞台となっていた。あの事件に

巻き込まれるまでは──。

20世紀最後の日。悪夢の始まり

2000年、12月31日。事件発覚の日、入江さん一家と母親は、いつもと変わらぬ朝を迎えていた。

「帰国したばかりの夫が、和食が食べたいと言うので、鮭を焼いたのを覚えています」

この年の春、息子が私立中学に入学したため、8年間のイギリス生活をいったん終え、入江さん

は息子と帰国していた。年末を迎え、単身赴任中の夫も帰国し、昨夜は2家族で夕食のテーブル

を囲んだばかりだった。

「いつもと違ったのは、早起きの、にいなちゃんと礼くんが、なかなか起きてこなかったことで

す。大みそかで朝寝坊かな、と気にもとめませんでしたが」

時刻は10時を回っていた。待ちきれないように腰を上げたのは、母親だった。泰子さんとおせ

ち料理を作ることになっていたため、「起こしてくる」と隣家に向かった。両家は、二世帯住

宅といっても、玄関が別々だった。

「だから、母が第一発見者になってしまったんです」

「家じゅうが荒らされていた」

10分もしないうちに、血相を変えて戻ってきた母親は、震える声で叫んだ。

「隣が、泰子たちが、殺されちゃってるみたい──」

ただならぬ様子に、入江さん一家は、隣家に急いだ。

「殺されたって、まさか──」

半信半疑で玄関に入った瞬間、全身が凍りついた。目に飛び込んできたのは、異様な光景だった。

「衣類や書類が散乱し、家じゅうが荒らされていました」

山積みの衣類の下から、みきおさんのものと思える白い足が見えた。弾かれたように中に入ろう

とする入江さんを、夫が鋭い声で止めた。

「見るな!?触るな!?戻るんだ!」

悪夢の始まりだった。

「妹一家が殺されたと知ったのは、警察の事情聴取を受けているときでした。このとき、母の頬

に血がついていることに気づいて。第一発見者の母は、たったひとりで家中を回り、4人の亡骸

を抱きあげていたんだと胸が詰まりました」

犯行時間は30日午後11時から翌日の未明にかけて。犯人は宮澤さん一家を殺害後、現場に長時

間とどまり、現金を強奪して逃亡した。

現場には、犯人の指紋、衣類、血液など、多数の証拠が残され、逮捕は時間の問題だと思われた。

だが、予想に反して、捜査は難航した。

「どんな小さな情報でも、思い出してください」

警察は殺気立ち、入江さん一家は、朝から晩まで、人を疑う作業を続けた。

「それこそ、寝食を忘れて、捜査に協力しました。絶対に、犯人を逮捕する。怒りに突き動かさ

れるように」

葬儀の席では、同情の声が上がる一方、「家の前を通るのも恐ろしい」「犯人と違う血液型でよ

かったわね」だのと、心ない言葉を浴びた。

過熱したマスコミの、根も葉もない報道にも愕然とした。

「身も心も限界でした」

入江さん一家と母親が、逃げるように世田谷の地を離れたのは、事件から1か月後のことだ。

引きこもる母。自分を責め続ける日々

仮住まいのアパートに移ってからは、息をひそめるように暮らした。

「母は、あんな事件に巻き込まれて恥ずかしい。世間に顔向けができないと、引きこもってしま

いました。私も、どん底でした」

夫は半年間、忙しい仕事を休み、家族を支えた。息子も、先生と相談し、事件の遺族であること

を公表しないまま、学校に通い続けた。

「夫のやさしさや、息子の健気さが、ありがたかった。でも当時の私は、その思いに応えるどこ

ろか、死ぬことすら考えていたほどです」

なぜ、みきおさんが「両家が仲よく暮らすために、防音設備にしよう」と提案したとき、「そん

なの水くさいよ」と断らなかったのか。防音でなければ、犯人の気配に気づき、助けられたか

もしれないのに──。

自分を責め続けた。

「何より、悔いたのは、なぜ、もっと早く、引っ越さなかったのか、ということです」

事件現場の周囲が閑散としていたのは、公園用地のため、近隣の家がほとんど立ち退きをすませ

ていたからだ。姉妹一家も、東京都に土地を売却し、入江さんにいたっては、新しい土地を購

入していた。早い段階から、「一緒に引っ越そう」と、泰子さんに提案もしていた。

しかし、泰子さんは引っ越しを躊躇した。

「立ち退きの猶予期間が3年あるので、しばらく、このまま生活したい」

と。

それは、母親として、子どもを思ってのことだった。

事件以来、ずっと支えてくれた夫の死は、妹一家のときと違い、犯人への怒りがないぶん、悲し

みも深かった。だが、7年が過ぎた今、語られるのは、夫との楽しい思い出だ。

「夫がイギリスから帰国すると、近所の公園で犬を連れて散歩するのが日課でした。いつも話す

のは私。夫はもっぱら聞き役でしたね。そうそう、私たちの出会いも、公園だったんです。犬

を散歩中に、動物が大好きな夫が話しかけてくれて」

「ただごと」の日々を大切に

入江さんは、「ただごと」の日々を大切にしている。

穏やかで、ありふれた毎日が、どれだけかけがえのないものかを知っているからだ。

「あの事件で、私たちは嵐の中に放り込まれました。非日常では、悲しみすら現実感が薄かった

。でも、今、夫が逝って、心から悲しい。それは日常を取り戻せたから、感じられることなん

です。妹一家は、ただごとの毎日を大切に、生活していました。私も、その意思を引き継げた

らと思っています」

世田谷事件が起きた年末は、全国各地を講演で飛び回る。多忙な日常を送りながらも、地に足を

つけて暮らす。

「朝はみそ汁を必ず作ります。都心に暮らしているのでスーパーが近くにないけれど、八百屋さ

んがあるので、新鮮な野菜を入れて。社会人になって忙しく働く息子に、“今日は夕飯いる??

じゃあ、作っとくね!”なんて、声をかけて送り出しています」

17年たった今も、事件現場は、取り壊されることなく、当時のまま残されている。

犯人逮捕をあきらめていない、警察の象徴のように。

「建物は老朽化しても、事件は風化させたくない。思いは警察と同じです。犯人への怒りも、当

時のままです」

入江さんは、そう言い切る。毎年、年末には、世田谷事件追悼の集い『ミシュカの森』を開催し

、たくさんの参加者とともに故人を偲ぶ。

私たちも忘れずにいたい。

幸福に暮らしていた、4人の大切な命が奪われたことを。事件から17年、悲しみを生きる力に変

え、懸命に生き直した家族がいることを。

(取材・文/中山み登り?撮影/森田晃博)