真珠湾攻撃から76年。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

真珠湾攻撃からすでに76年もたってしまった。

ミコばあちゃんは歴史的背景は全くの無知です。

日本は負の歴史を認識すべきではなかったのであろうか。

戦線布告は単に経済封鎖によりヤモ植えなかったと理解してよいのか。

歴史的背景が教えることも多くある。

これからの学びもまた必要なように思える。

戦略戦争であったのだと理解する。

 韓国臥「慰め婦」から抜け出せないでいることにも

改めて学んでみたいと思っています。日本にとっての真珠湾攻撃での大勝利はどう、受け止めら

れたのだろうか。

やはり戦争だけはしてはならないように思っています。

いくら日本が迎撃機にこだわりを見せてみても

それには価値を見出すことなどできはしません。

     産経より。

真珠湾攻撃76年】米英、日本の軍事行動を予測、開戦誘導か ルーズベルトチャーチル

復電報

日本によるハワイの真珠湾攻撃から8日で76年。英国立公文書館が所蔵するウィンストン・チ

ャーチル英首相とフランクリン・ルーズベルト米大統領の往復電報によれば、ルーズベルト

開戦13日前に日本の「軍事行動」を予測していたことがうかがえる。チャーチルも返電で対

日譲歩に反対し、ルーズベルトが日本に最後通告の「ハル・ノート」を提示した後の開戦直前

に米英合同で事実上の“宣戦布告”を呼び掛けていた。米英指導者は戦争回避より先制攻撃す

るように日本を追い詰め、開戦へと誘導したとの見方が専門家から改めて示されている。

日米が戦争回避に向けて交渉を続けていた1941年11月25日午後1時20分に英外務省が

受信したチャーチルあての電報でルーズベルトは、日本側から20日、「南部仏印(仏領イン

ドシナ)から兵を北部仏印に引き揚げる代わりに米国側は通商関係を資産凍結前に戻し石油の

供給を約束する」暫定協定案が提出されたと伝えた。その上で、米政府が「日本が南部仏印

ら撤兵し、北部仏印の駐留兵を7月26日時点の2万5千人以下にすれば、米国は在米日本資

産の凍結を解除する」などの提案を作成したと報告。これは後のハル・ノートの原案の一つで

、幻の「暫定協定案」(日本が受け入れ可能な3カ月休戦案)と呼ばれる。

しかし、ルーズベルトは追記して「これは日本人に対し適正な提案と思えるが、諾否は実のとこ

ろ国内の政治状況による。あまり希望を持てない」と悲観的な見通しを示し、「われわれ(英

米)はすぐに起こるであろう本当の困難のためにあらゆる準備をしなければならない」と警告

した。

日本を挑発、追い詰めた

国立公文書館が所蔵するチャーチル英首相とルーズベルト米大統領の往復電報で明らかになっ

ルーズベルトの追記について、大戦中の米英関係に詳しいウォーレン・キンボール米ラトガ

ース大教授は、編著「チャーチルルーズベルト−完全な交信」で、「ルーズベルトは戦争回

避よりも戦端を開こうとしていたと解釈される。また日本との開戦危機を欧州戦線への入り口

に利用していたとの議論がある」と分析している。

■より厳しい協定案

中西輝政京都大名誉教授は産経新聞に、「暫定協定案を伝えて、日本が受け入れないだろうとい

うのは矛盾している。日本の軍事行動が差し迫っていることを予測していたことは明らかで、

チャーチルから最後通告のハル・ノートを出すことへの了解を取ることが目的だったのではな

いか」と指摘する。

米エール大図書館所蔵のスチムソン米陸軍長官日記には、1941年11月25日(米国時間)

ルーズベルトが軍事会議で「米国は来週月曜日(12月1日)にも攻撃を受ける可能性があ

る」と注意を促し、問題は「われわれ自身が過大な危険にさらされることなしに、日本に最初

の1発を撃たせるような立場にいかに誘導していくかだ」と発言したと記されていた。

ハル回顧録などによると、暫定協定案には中国が猛反対した。ルーズベルトはこれを放棄して翌

26日、日本に、より厳しい協定案、いわゆるハル・ノートを提示。中国、仏印からの軍撤退

など、日露戦争以降に日本がアジアで築いた権益の放棄を求めた。日本は「眼も暗むばかり失

望に撃たれた」(東郷茂徳『時代の一面』)ことで米国との交渉打ち切りを決め、戦争を決意

した。

チャーチルも呼びかけ

ロンドン大学経済政治学院(LSE)のアントニー・ベスト准教授は「ルーズベルトは日本がタ

イなどへ何らかの攻撃準備をしていることを把握していた」とした上で「チャーチルにも戦争

回避の意思はなかった。それより米国からアジア、欧州情勢での英国支持の確約を得るという

外交目標が大きかった」と分析する。

マレー作戦など日本の軍事行動を察知していたチャーチルは30日の電報でルーズベルトに、「

日本のこれ以上の攻撃(軍事作戦)は、ただちに最も深刻な結末に至ると(米英合同で)日本

に宣告すること」が残された手段であると提案しており、中西氏は、「チャーチルは対日戦に

米国を巻き込もうと事実上の宣戦布告を呼び掛けた」と読み解いた。

日米の開戦責任について、東京裁判の判決は、「米国の譲歩にもかかわらず、日本は戦争計画を

推進し、真珠湾の奇襲をはたし、強引に戦争に持ち込んだ」と一方的に日本に非があったとし

ている。しかし、往復電報は、「日本が和平交渉の最中に奇襲攻撃した」卑怯なだまし打ちで

はなく、「米英指導者が戦争ありきで日本を挑発して開戦へと追い詰めたことがうかがえる」

(中西氏)との解釈を裏付けている。(ロンドン 岡部伸)