元野球選手の再出発。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

与えられた人生はそれぞれさまざまである。

人生の進行プログラムは、想定内のこともあるが、そうでないことも降りかかってくる。

仕事の転職は相当のエネルギーと覚悟もいる。

 日々の暮らし向きに関しても、小さな再出発もたくさんある。

これらを受け入れるには強い精神力とエネルギーが不可欠である。

まして、アスリートとしての日々に終止符を打つことの絶望感は

一般人には、味わうことのない人生のリセットからの出発。

まずお金に関する感覚の需要もご苦労があろうかと推察される。

当然のごとくプロからの通告はある程度の覚悟もおありかと思うが

生きるための選択は難しいのではと思えます。

毎日が野球漬けの日々であれば、、職業に対する意識レベルも低くキャリアを積む機会にも恵ま

れてはいなかったと思える。

野球選手の引退後の人生は、並々ならぬ努力なくしては明日をも迎えることはできない。

     東洋経済より。

高卒の元プロ野球選手、引退後の長い16年間 38歳、元阪神投手の公認会計士が悟った真実

?

今から4年前の2013年11月。その瞬間、思わず「あった!」と声が出た。公認会計士・監査審査

会のサイトに掲載された「平成25年公認会計士試験」の合格者一覧に、自分の受験番号が載っ

ていたからだ。信じられない気持ちで、何度も何度もサイトと受験票の番号を見返した。

プロ野球選手を引退して12年、公認会計士を志してから9年の月日が経っていた。合格がわかっ

た瞬間、うれしさよりも先に湧き上がったのは「ほっとした」という感情。短いとは決して言え

ない時間で、勉強を続けながら考えたのは、アスリートのセカンドキャリアについてだ。

僕のようなケースが、現役プロ野球選手をはじめとするスポーツ選手がキャリアを形成するうえ

で、何かのヒントになれたらうれしい。試験合格から4年、今夏から公認会計士として歩み始め

たタイミングで、これまでを振り返ってみたい。

戦力外通告の衝撃

2001年、9月も終わりにさしかかった頃、練習を終えて部屋に戻ると、ふだん鳴ることのない内

線が鳴った。

「あぁ、ついに来たか……」。僕が呼び出されたのは阪神タイガースの選手寮「虎風荘」の一室

。4年間住んでいたが、ほとんど入ったことのないその部屋には、普段めったに会うことのない

球団の編成担当職員が2人静かに座っていた。その顔を見た瞬間、今から僕が何を言い渡される

のか、容易に想像がついた。

「来季は契約しない」。想像していたとおりの言葉が聞こえてきた。自分なりに心の準備をして

いたつもりだった。それなのに、実際に受けた衝撃は予想をはるかに上回るものだった。

ほかにも何か話していたような気もするが、頭が真っ白になっていたのだろう。何も覚えていな

い。こうして、僕のプロ野球選手としてのキャリアはあっけなく終わりを告げた。

その年の秋季キャンプ、僕は背番号が3桁のユニフォームに身を包み打撃投手としてグラウンド

に立っていた。プロ野球界を去ってしまうことに未練のあった僕は、球団からの打撃投手の誘

いを受けたのだ。

野球ファンでなければ、打撃投手という仕事を知らない人が多いと思う。野手の打撃練習のため

に投げるのが仕事だ。つまり「打たれる」ために投げるのである。

ついこの間まで現役選手として「打たれない」ために投げていた僕は、この「打たれる」ために

投げることをすぐには受け入れられなかった。現役に未練を残しながらという中途半端な状態

での転向だったことも影響していたと思う。

頭ではそれを理解していても、無意識に指先に力が入りコースを狙ってしまう。しかも、僕が投

げる相手は一軍定着を狙う若手選手がほとんどである。気持ちよく打って首脳陣に調子のよさ

をアピールし一軍に定着してもらいたい。そう思えば思うほど、余計にコントロールが乱れて

しまう。この心の葛藤は打撃投手でいるうちに解消されることはなかった。

モヤモヤを抱えながら打撃投手を務めて1年後の秋、突然球団事務所に呼び出された。そして打

撃投手の契約を更新しないことを告げられる。まさかの宣告だった。正直、1年で打撃投手を解

雇されるとは思っていなかったのだ。

トライアウトが野球人生の区切り

その年の11月、僕は甲子園球場で開催された12球団合同トライアウトに参加した。まだ育成枠

のなかった当時、3桁の背番号で参加していたのは僕だけだったのではないか。テストとはいえ

、憧れだった甲子園のマウンドで投げられる。自分の野球人生に区切りをつけるのにふさわし

い舞台だと思ったのである。

対戦したのは打者3人。最後は三振で締めたと思う。とはいえ、それでどこかの球団から声がか

かるほど現実は甘くない。あとになってわかったことだが、実際にこの回のトライアウトで合

格者は1人もいなかった。

トライアウトが終わりいよいよ寮の退出期限が近づいてきたある日、部屋で何げなくパチン、パ

チンと爪を切った。その瞬間、?を涙が伝っていった。右手の人差し指と中指の爪を、無意識の

うちに爪切りで切っていた自分に気づいたのだ。

投手は爪の長さが1ミリでも変わると微妙に指先の感覚が変わり、それがコントロールに大きな

影響を与える。爪の割れやすい体質である僕は、高校生の頃から、その2本の指の爪は絶対に爪

切りで切らず、ヤスリで整えるようしていた。そのこだわりを忘れてしまうほどに、プロ野球

手ではなくなったことを、いつしか受け入れてしまっている自分がいたことに涙が溢れたのだ

った。

しかし、落ち込んでばかりはいられない。生活のためには否応なしに次の仕事を探す必要がある

。タイガースを退団し無職となった僕が進んだのは、飲食業界だった。現役時代からの馴染み

の店の友人と、引退後は一緒にお店をやろうと話していたからだ。引退後に飲食業に転身する

先輩が多く、プロ野球選手の引退後の職業としてイメージしやすかったことも理由の1つだと思

う。

やるならちゃんとやろうと、友人の経営するバーを手伝いながら、専門学校に通って調理師の免

許を取得した。それでも、具体的な将来のビジョンやビジネスプランが自分の中にあったかと

いうと、そうではなかった。

飲食業に飛び込んでみて痛感したのは、プロ野球界での生活がおカネの面で恵まれたものであっ

たこと、自分がいかに社会経験がなく世間知らずかということだった。自分の無力さを日々痛

感させられるたび、「俺はこの先どうなってしまうんだろう」という将来への不安ばかりが募

っていく。1年余りでバーを辞め、ホテルの調理場に職場を変えてみても将来への不安は解消さ

れないままだった。

自分を追い詰めてくるのは、それだけではなかった。18年ぶりにタイガースがセ・リーグを制

覇するという、それまでの暗黒時代が?のようなタイガースの快進撃に沸き返る大阪の街。引退

後も大阪で生活していた僕の耳に、遠ざけようと思ってもいやでも届くその情報が一層僕を苦し

めた。

タイガース優勝の立役者となったのは、同じ高卒同期入団の井川慶。20勝5敗という驚異的な成

績で賞を総なめにする、文字どおり大車輪の活躍だった。球界を代表する投手に成長した同級生

の華々しい活躍を祝福する一方で、延々とシイタケの石突きを切り落としたり、メロンの種を?

き出したりという地道な作業を繰り返す自分がいた。

熱烈なタイガースファンの調理場の上司は僕が元阪神の選手とは気づかぬまま、甲子園へ試合観

戦に行った自慢話やタイガースについて熱く語ってくる。僕は話を合わせて相槌を打ちながら

、自分の境遇と井川や元チームメイトたちの境遇とを比較して、嫉妬している自分がいること

に気づいてしまう。そんな自分に苛立ち、どんどん嫌いになっていった。ほんの少し前までは

同じユニフォームを着ていたのに。

「俺はいったい何をやっているんだろう」。自分だけが取り残されたような焦燥感、将来に対す

る不安はますます大きくなっていった。

そんなある日、仕事から帰るとテーブルに1冊の本がおいてあった。ありとあらゆる資格が掲載

された資格ガイドだった。

彼女が与えてくれた気づき

10円ハゲができるほどストレスをため込み日に日に焦燥感を募らせていく僕を見かねた彼女が

買ってきてくれたものだった。彼女は決して、僕に資格取得を勧めているわけではなかった。

少ない選択肢の中で悩み続ける僕に、世の中にはこんなにたくさんの仕事がある。もっと視野

を広げるべきだということを気づかせたかったのだ。

後に妻となる彼女のこのときの行動が、僕に新たな挑戦を決意させた。資格ガイドをパラパラと

読み進めていくと、「公認会計士」という資格が目に飛び込んできた。簿記の知識を生かして

ビジネスのスペシャリストとして活躍できるというその内容に、高校時代に簿記を学んでいた

僕は、何か運命的なものを感じた。しかも、大学での単位などを求められず、誰でも受験でき

るように試験制度が改正されるタイミングだったことも、高卒の僕にとってとても魅力的だっ

た。僕は迷わず受験を決めた。

すぐに資格予備校に申し込み学習を開始した。しかし、受験勉強は思うように進まない。経済的

にアルバイトをしながら勉強せざるをえなかった。それも確かに1つの要因ではある。だが、い

ちばんの理由は、現役時代に長時間机に向かう習慣がまったくなく、すぐに集中力が途切れてし

まい勉強から逃げ出してばかりいたことだ。

公認会計士試験の1段階目の試験である短答式試験合格には届かないが、日商簿記検定1級に合

格するなど、ようやく勉強が習慣づいて成果を感じ始めたのは、学習を開始してから3〜4年た

った頃だろうか。この頃、縁あって通っていた資格予備校を運営する会社に入社し、東京本社で

正社員として働かせてもらえることになった。

大阪で生活していれば、いやでもタイガースの情報が耳に入ってくる。東京へ移って会社勤めを

始め、劇的に環境を変えることで、受験勉強に集中し、成果を出したいという思いもあった。

慣れない東京の街での生活やデスクワークに当初は戸惑ったが、初めて一般事業会社の内部を

知ることができたことは、受験勉強にとっても確実にプラスの効果はあったと思う。

そして、2009年に短答式試験に合格。そこまではよかったが、論文式試験が僕にとって大きな

壁となった。公認会計士試験では、一度短答式試験に合格すると以降2年間は短答式試験が免除

になるという特典がある。合格した年を含めて3回論文式試験を受験できるということだ。この

3回の受験チャンスですべて不合格になることを、俗に「三振」という。

2011年、僕は「三振」を喫してしまった。

公認会計士の学習を始めてからすでに7年。もう一度短答式試験から受験しなければならない状

況に陥っていた。合格は不可能に思えた。もう受験は辞めよう。日商簿記1級や短答式試験の合

格実績があれば、以前から興味のあったコンサルティングの分野にも進めるかもしれない。そん

な思いも頭をよぎった。

岐阜の母や兄にも「いったい、いつまで受からない受験を続けるつもりなのか」と心配されてい

たし、会社の上司をはじめ誰に相談しても、「今までよく頑張った。公認会計士だけが人生じ

ゃないよ」と、みな受験を諦めることを肯定してくれた。

ただ1人、猛反対した人がいた。「そんなふうに中途半端に道を変えてコンサルティングをやっ

たところで、そんな気持ちでコンサルに来たあなたに頼りたい人なんているわけないでしょ!

」。それは、僕が公認会計士を目指すきっかけをくれた彼女だった。

プロ野球公認会計士も中途半端で逃げ出したら、この先もいろいろなことに言い訳をし続け

る人生になると思う。今、あなたに必要なのは何かを成し遂げたという自信。だから絶対にこ

こで諦めたらあかん!」。目の前の困難から逃げ出そうとする僕の心を見透かして、あえて厳

しい言葉で叱咤激励してくれた彼女の言葉に僕は、“合格するまで絶対に諦めない”と改めて

心に誓った。

そこからもう一度受験への取り組み方を見直し、一から受験生活の見直しを考えた。テレビやゲ

ームといった勉強に必要ないものは部屋からなくし、いつでもどこでも勉強できるようトイレ

やお風呂など部屋の至るところに教材を置いた。1分1秒でも無駄にはしないという思いだ。受

験を最優先に考えた本当の意味でのストイックな生活に切り替えたのである。

野球と受験勉強の共通点

それまで試行錯誤を続けていた勉強方法についても画期的な気づきがあった。野球と受験勉強は

そのプロセスが似ているということだ。目標達成のために、自分の課題を見つけそれを克服す

ることが大事なのだ。野球で言えば、甲子園出場という目標を立てて、実現のためにライバル

校に勝てる力をつけなければならない。そのためには自分はもっとストレートの球速を上げる

必要がある。走りこみ、筋トレをするなど日々、そのためのトレーニングをしていく。

これを受験勉強に置き換えると、合格という目標に向けて、簿記の得点を伸ばす必要があるとす

れば、授業を受ける、問題を解くなどの対策を行い成績を伸ばしていくということになる。

それならば野球で培ってきたものが生かせるはずだ。そう思い、投球練習の際に具体的なシチュ

エーションを想定するといった練習への取り組み方や、ピンチにマウンドへ上がるときのメン

タルコントロールの方法などを勉強にも取り入れてみたのだ。

たとえば、投球練習の際は漫然と投げるよりも、9回の裏2アウト2、3塁、打者は大谷翔平選手

で初球のアウトコースにボール1個分外したストレート。という明確な意図をもって投球練習す

るほうが効果は高い。受験の場合、問題を解くときに本試験会場で、試験時間残り5分、そこま

での手応えからして、この問題を正解できるか否かが合否を分けるかもしれない――といった状

況を想定して、時間を計りながら解くほうが集中力も増すし、解くスピードと正確性を意識し

たトレーニングにもなる。

こうした考え方を取り入れたことで、自分に合った効果的な勉強スタイルが確立され、成績は飛

躍的に伸びていった。2013年5月、再び短答式試験に合格した。そのままの勢いで8月の論文式

試験に臨む。3日間最後まで諦めることなく全力を出しきったものの特段の手応えがあったわけ

ではなかった。それでもふたを開けてみれば、冒頭にも記したように合格。当初は信じられな

い思いだったが、合格の喜びをようやくじわりと実感したのは、当時の会社の上司から「合格

おめでとう」と電話がかかってきたときだった。

一時は野球が大嫌いになり自ら遠ざけようとしていた時期もあった。しかし今では、日本で初め

プロ野球選手から公認会計士になったことで、メディアからの取材や著書の刊行、講演の依

頼など本業以外にも多岐にわたる仕事の機会をいただいている。何よりチームの垣根を越えて

、本当にたくさんの選手や球団関係者とのご縁が広がった。公認会計士というまったく畑違い

の資格によって、現役時代以上に野球界とのつながりが深まったのである。

そうなってみて感じるのは、長い人生の中で無駄な経験など何1つないということだ。高校生の

頃に簿記の学習経験があったことが、プロ野球引退後に公認会計士という選択肢を与えてくれ

た。僕の場合は公認会計士であったが、一人一人の人生の中にはさまざまな可能性の種が転が

っているはずだ。

野球以外にも可能性は広げることができる

「今まで野球しかしてきていないから、野球しかできない」。引退する選手がよく口にするフレ

ーズだ。だが、決してそんなことはない。野球しかしてこなかったということは、野球以外の

ことができないことを証明するものではない。壁にぶつかったとき、すぐに無理だと決めつけ

、自分の可能性を閉ざしてしまうのではなく、発想を転換し工夫することで、未来を切り開く

ことができる。スポーツ選手に限らず、誰でも自分の可能性を広げることはできるのだ。

この経験や考え方を多くのアスリートやスポーツに関わる方々に知ってもらいたいという想いか

ら、このほど、「一般社団法人アスリートデュアルキャリア推進機構」を設立し代表理事に就

任した。

セカンドキャリア」から「デュアルキャリア」へ――。この法人では、講演・セミナー・執筆

などの活動を通じて、現役中からアスリートとしてのキャリア形成と同時に引退後のキャリア

形成にも取り組む「デュアルキャリア」という考え方の啓蒙を行っていく。

アスリートのキャリア形成の意識・考え方の変化を促し、これからの時代のスタンダードにして

いきたい。

僕の経験が1人でも多くの方の、勇気を持って一歩を踏み出す“きっかけ”にしてもらえるよう

、道なき道を歩き続けたいと思う。