平和憲法の理念は永遠でなければならない。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

 国境なき医師団の看護士だからこそ語れる言葉がある。

  まさに砲弾の近いところで、活動され、命との戦いもしばしば感じてこられたであろう。

まさにナイチンゲールの精神をそのまま受け継がれてこられたかのような

市姿勢には、身の危険のための武器等考えも及ばない。

医師も砲弾が身近にあっても命の危険の真っ只中にあっても

手術の手を止めようとはしなかったという。

シリア、スーダンなどの危険地での生々しいお話に

日本にあってなんと平和ボケしているのであろうか。

戦火のないところに安住できている幸せに合唱したくなる。

平和憲法の理念だけは未来永劫でなければならない。

自衛隊には日本被爆国としての役割もあるはず。

国防軍になることだけは決して許すことなどできない。

     朝日コムより。

世界の戦争を間近に見続けた。だから語れる言葉がある

国境なき医師団の看護師、白川優子さん

世界の激戦地にばかり派遣され、人道支援に奔走する日本人がいる。戦争や天災など医療が必要

な地域にスタッフを派遣する国際NGO「国境なき医師団(MSF)」の看護師、白川優子さ

ん(43)。今はシリア北部ラッカ近郊で活動中だ。現代の戦争の悲劇を間近で見続け、平和

を保ち続けることの大切さを日本社会にも訴える。

――過激派組織「イスラム国」(IS)が最大拠点としたイラク北部モスルで今年6〜7月、緊

急医療支援を行いました。

「病院に銃弾や爆発で傷ついた人、IS戦闘員の自爆攻撃に巻き込まれた人が次々と運ばれてき

ました。手術室の看護師長として技術の指導をし、多い日には10件の手術に立ち会いました

。約4キロ離れた旧市街の前線の爆発の煙が見え、砲撃音が聞こえました」

イラク人の患者だけでなく、医師も看護師も誰もが3年にわたるIS支配の被害者でした。み

んなが親しい誰かを亡くし、恐怖を感じ、傷ついたからこそ、患者の痛みがよく分かる。人間

愛の深さを感じました。ある日、ISの戦闘員の子どもが運ばれてきました。外国出身の両親

自爆テロで死亡し、幼児も手足をやけどしていました。多くのイラク人にとってISは憎し

みの対象なのに、言葉も通じず怖がる幼児に、『子どもには罪が無い』と愛情を持って接して

いました。公平に医療を行う病院としては当然ですが、私は涙をこらえられませんでした」

――2012年と13年に3カ月ずつ活動したシリアでは、病院も危険にさらされています。

「アサド政権はMSFの国内での活動を認めていないため、シリア北部の反体制派支配地域に周

辺国から入りました。非正規に入るしかなく、医療活動自体が命がけです。MSFのジャケッ

トも着られず、看板も立てられない。それでも、たくさんの患者がうわさを聞きつけ、やって

来ました。ある日、病院の上空を政権軍の航空機が旋回し、近くに弾を6発落としました。も

のすごい震動で、死ぬかと思ったけれど、医師は患者の手術を止めませんでした」

――12〜16年に計4回派遣されたイエメンはどうでしたか。

「12年、内戦下のイエメンでは、米国などがテロリスト掃討作戦として無人機で空爆していま

した。(国際テロ組織)アルカイダ系武装組織の幹部が殺されたとき、攻撃側はお祭り騒ぎで

したが、その陰で多くの市民が深い傷を負いました。内臓が出ていたり、手足がもぎ取られた

りしていました」

「今の戦争は、サウジアラビアとイランの『代理戦争』とも言われていますが、一般市民は大変

な貧困に苦しんでいます。お風呂に入れず、服もボロボロ。栄養失調が深刻で、けがを治療し

ても、なかなか治りません。コレラがいま流行しているのも驚きません。シリアやイラクと違

って、国際社会に注目されず、援助も足りない。戦争が終わる兆しすら見えません」

――南スーダンでは戦争を一番身近に感じたそうですね。

「14年2月、北部マラカルに入ると、突然、戦争が始まりました。早朝のドカーンという音か

ら砲撃音がずっと続き、戦争に巻き込まれたという感じがしました。国連の敷地内に逃れて、

防空壕(ごう)を出たり入ったり。50度を超す気温の中、ビスケットや缶詰を食べ、ナイル

川の水に塩素を入れて飲んだ。たくさんのけが人が運ばれてきて、どんどん亡くなります。遺

体をバッグに入れて、せめて日付と性別と推定年齢を書きました」

「約2週間で砲撃音が止まり、空港も開放されたけど、街中の病院に残された患者の確認に向か

いました。国連の敷地から出た瞬間に目にしたものは遺体、遺体、遺体。でも、危険を覚悟し

て行って良かった。生きている患者がいたんです。毎日行って90人以上救出した。南スーダ

ンで戦争は一瞬で始まり、何万人もが難民になり、亡くなるという現実を見ました」

――16年に活動したパレスチナ自治区ガザは、イスラエルなどに周囲を封鎖され、「天井のな

い監獄」とも呼ばれています。

「私が行ったときは紛争状態ではなかったけれど、世界一巨大な『監獄』というのは本当にその

通りと思いました。人々は『次の戦争はいつか』『いつ検問が開くのか』ということばかり話

している。狭いガザに190万人が閉じ込められ、外に出られない。立派な大学があり、教育

レベルも高いけれど、その後の仕事がない。それでストレスがたまって、抗議行動をするわけ

です。イスラエル兵に足を撃たれ、治療を終わった人がまた撃たれて来る。睡眠薬ばかり飲ん

でいる人もいた。私は足の治療をするだけではダメだと思いました。待合室で話を聞く機会を

つくると、自分たちの心の内を聞いてくれたと感謝されました」