被爆国であるが故、訴え続けなければならないやくわりがあるはず   日本は被爆国としての役割があるはず。

ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのミコばあちゃんです。

長崎平和式典が72年になろうとしてます。

亡くなられた175000人もの方々

さらに今なお、病魔でお苦しみの皆さまの心の平穏など在りはしないでありましょう。

戦争の爪痕はそこここの胸の中で拭い去ることのできない大きな傷跡に心が痛みます。

お知り合いのお一人に広島で原爆に合われたお方は

外の庭を笹箒で掃除していて、被爆されました。

その手は、あの日、あの時掃除していた状態、箒を持ったままの形がなくなられるその日まで刻

印のように残され

とても不自由な生涯をお暮らしでした。

そのお方は良く生きてこれまた、地獄の生活と言われていました。

戦時下とはいえこのような惨劇どなたがそうぞうできたでありましょうか?

どのような小さな争いにせよ争いは無益でしかありません。

被爆国であるからこそ訴えなければならないことはあるはず。

自衛隊が防衛のためとはいえ、武器を持つことだけは反対です。

アメリカのイラク撲滅作戦は正しかったのでしょうか。

同盟国であるからと言って、危ない支援の必要があったとしたら

亡くなられていた自衛官もおられたのではと

想像するだけでも身が震えます。

朝日コムより。

長崎・平和祈念式典 平和への誓い全文 深堀好敏さん

原爆が投下された1945年8月9日、私は16歳。爆心地から3・6キロ離れた長崎県疎開

務所に学徒動員されていました。11時2分、白い閃光(せんこう)と爆発音を感じ慌てて机

の下にもぐり込みました。夕方、帰宅命令が出て、私は学友と2人、金比羅山を越えて帰ろう

と山の中腹まできたところ、山上から逃げてくる多くのけが人に「山の向こうは一面火の海だ

から…」と制止され、翌朝、電車の線路に沿って歩き始めました。長崎駅の駅舎は焼け落ち、

見慣れた町並みは消えてなくなり、別世界に迷い込んだようでした。ようやく辿(たど)りつ

いた山王神社近くの親せきの家は倒壊していました。その中で家の梁(はり)を右腕に抱きか

かえるような姿で18歳の姉は息絶えていました。あの時、私が無理をしてでも家に帰ってい

れば、せめて最期に声をかけられたのではないかと、今でも悔やまれてなりません。そのあと

大学病院へ向かい、さらに丘を越えると眼下に浦上天主堂が炎上していました。涙があふれ出

るとともに怒りを覚え、「ああ、世界が終わる」と思いました。ここ平和公園の横を流れる

には折り重なって死体が浮いていました。私は、三ツ山に疎開していた両親に姉の死を報告し

、8月12日、母と弟と3人で材木を井桁に組み、姉の遺体を荼毘(だび)に付しました。そ

の日は晴天でした。頭上から真夏の太陽が照りつけ、顔の正面からは熱気と臭気がせまり目が

くらみそうでした。母は少し離れた場所で地面を見つめたまま、ただ祈り続けていました。

〈姉を奪った原爆、写真集めて38年被爆者代表の誓い〉

〈長崎・平和祈念式典田上市長の平和宣言全文〉

たった一発の原子爆弾は7万4千人の尊い命を奪い、7万5千人を傷つけました。あの日、爆心

地周辺から運よく逃げ延びた人々の中には、助かった喜びも束(つか)の間、得体(えたい)

のしれない病魔に襲われ多くが帰らぬ人となりました。なんと恐ろしいことでしょう。私は「

核は人類と共存できない」と確信しています。2011年3月、福島第一原子力発電所の事故

が発生し国内の原発は一斉に停止され、核の脅威に怯(おび)えました。しかし、リスクの巨

大さに喘(あえ)いでいる最中、こともあろうに次々と原発が再稼働しています。地震多発国

のわが国にあって如何(いか)なる厳しい規制基準も「地震の前では無力」です。原発偏重の

エネルギー政策は、もっと自然エネルギー軸足を移すべきではないでしょうか。戦後「平和

憲法」を国是として復興したわが国が、アジアの国々をはじめ世界各国から集めた尊敬と信頼

は決して失ってはなりません。また、唯一の戦争被爆国として果たすべき責務も忘れてはなり

ません。

私は1979年、原爆で生き残った有志6人で原爆写真の収集を始め、これまでに様々な人たち

が撮影した4千枚を超える写真を収集検証してきました。原子雲の下で起きた真実を伝える写

真の力を信じ、これからも被爆実相を伝え、世界の恒久平和核廃絶のために微力をつくす

ことを亡くなられた御霊の前に誓います。

2017年(平成29年)8月9日

被爆者代表 深堀好敏