癌と戦う記者。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

記者としての現役の、中がん患者としての立場で思うことがある。

 がんと闘う記者

かつて何度も繰り返し、そのたびに絶望感すら覚えた看護師さんとのやりとりがある。

「痛い……」と訴えたのに、「痛いですね……」と返されて終わることだ。

いくつかの病院で経験したから、すでに必要な手を打った患者とのコミュニケーション

方法の一つとして、学校で習うのかもしれない。

やさしい口調は、患者に「寄り添う」という表現がぴったりだ。だが、激しい痛みに襲

われているときに欲しいのは、必死の訴えをかわす言葉ではない。同じ目線で、具体的

に何かをしてくれようとすることだ。難しい願いであったとしても。

 みこばあちゃんも感じることがある。

 かつて脳溢血で入院しておられるお方を見舞ったことがある。

ある日突然卒中発作でほとんど麻痺状態でベッド漬けの生活二年目のお方を見舞ったと

き彼女は言う。

「私は病気になってからはほとんどかまぼこ生活。

人の目線はいつも見上げるだけである」。

 それを お聞きした私。

気が付けば、思わずしゃがんで会話をしていた。

気づきの薄い自分がとっても恥ずかしかった

 記者のお方が離されることは、病院に限らず

、日常生活の中においてもあちこちに体験している

末期がんを家で見た叔母の話。

 余命一年くらいは、昼となく夜となくうめき声を上げるため

叔母は自分もたまらなく苦しくなり、「入院しよう?」と

声をかけると、消え入るような声で叔父はいう。

「子守歌でも歌っていると思ってほしい」と

それからの叔母は何も言えなかったと話す。痛みを耐えている様子がわかりそれからは

できるだけ痛みを共にしてきたのだという。

 みこばあちゃんと手、このような場面に生き合うとどれほどのこともできはしない。

気持ちの基本軸だけは、少しなりとも相手に思いを寄せることができたならと感じてい

ます。

病床でも、「動詞」の世界を生きる がんと闘う記者

http://www.asahi.com/articles/ASK7S6JR1K7SUTIL05K.html