ひとはひとあればこそ・・・。
ご機嫌いかがでしょうか。
視界ゼロのミコばあちゃんです。
大阪付属池田小学校において、大量殺傷事件から16年。
大阪における池田付属小学校の大量殺害事件は,瞼に浮かび言葉もございません。
移譲者による異常な惨劇に驚きが禁じ得ませんでした。
職場の上司もあの時の娘さんの死をご覧になっていたのですね。
池田事件被害者のお母さんが16年、
度のような心境でお過ごしになっておられたのだろうと思うだけで胸がつぶれそうです。
未来在る子の命が無残な結果として受け入れなければならなかった現実
家族の言い知れぬお苦しみはいかばかりであったことでしょう。
でも働かれ続けておられたことで、良きお仲間と出会われ、心のうちまでお話しできるように
なられたことは何よりでございます。
人はいかなる時も、長い時間、そして人により支えられるからこそ
生きることができているのだろうと通関させられもします。
御人の真心が何よりの心の栄養源となり、明日へのステップとなる
ご両親様がえがおあるごかていであることこそが
亡き娘さんの何よりの喜びではなかろうかと妄想させていただきました。
朝日コムより。
「あのときのお母さんだったのね」池田小事件から16年
大阪教育大付属池田小学校(大阪府池田市)で8人が亡くなった児童殺傷事件は、8日で発生か
ら16年を迎えた。被害者やかけがえのない人を失った遺族は、周りに支えられ、助けが必要
な人に手を差し伸べながら、思いを伝えていく。
■「あのときのお母さんだったのね」
2年生だった塚本花菜(かな)さん(当時7)を亡くした母の有紀さん(50)は、昨年春から
、老人ホームの介護福祉士として働いている。
ある日、終末期の女性が意識もうろうとしながら「お母さん、しんどい、苦しい」とつぶやくの
を聞き、胸が苦しくなった。「花菜ちゃんも亡くなる寸前まで、私のことを呼んでくれていた
のかな」
16年前のあの日、市立池田病院に駆けつけた有紀さんは、ストレッチャーの上に横たわって亡
くなっていた花菜さんと対面した。その時の花菜さんと、目の前の女性が重なって見えた。
それ以降、寝たきりの入居者の姿や、フロアを歩く看護師、白い布団を見ては事件を思い出し、
仕事が手に着かなくなった。
「ちょっとだめかもしれない」。昨年7月、上司の女性マネジャーとの面談で、事件について初
めて打ち明けた。
「あのときのお母さんだったのね」。池田病院で27年間、看護師をしていたマネジャーもあの
日、病院でストレッチャーに乗った女の子の姿を見ていた。
マネジャーは「つらい所にいる必要はありません」と言い、介護度の軽い入居者の健常棟の介護
支援担当に変えてくれた。マネジャーは「横たわったままの人を見るのはつらかったと思う。
よくここまで頑張って来られた」と気遣う。
有紀さんは職場の同僚にも事件について話した。「しんどいときは無理しないで」と言ってくれ
た。自分から隔てていた壁がなくなった気がした。「花菜ちゃんはいとおしい。その子の話が
できないのはすごく悲しかった。これからは話せます」
その後、施設が力を入れるレクリエーションの担当も任された。事件後に生まれて中学2年にな
った長男(14)が勉強する傍らで、生きる喜びや楽しみにつなげていけるレクリエーション
を考えることが楽しい。
今年の6月8日はレクリエーションの担当者会議が入った。「この巡り合わせも、『いまは仕事
を大事に』ということかも」。夕方、学校が終わった長男と一緒に付属池田小を訪れようと思
っている。
起爆剤としての役割改めて感じさせていただきました。