福島は語る。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。水ぬるむ季節もそこまで来ています。

こぼれるほどの陽光は明るくまぶしい季節…

 nhkの番組で、福島の不評障害はいまだやむことはないという。。福島さんの桃を

食べた夫人が福島さんと聞くやいな、や口に含んでいた桃を 人の面前で吐き捨てるさ

まが映像として移されもいました。

これは人間あればこそと言わざるを 得ないことも悲しい佐賀なのかもしれない。

このようなことは何度となく繰り返されてきた行為ともいえよう。

苦難を越え「福島の被災少年」が掴んだ驚きの夢 青沼 陽一郎

「福島の子どもだからって、いじめられるのは、本当に腹が立った」

福島県郡山市で生まれ育った青年は、小学生だった当時を振り返って言った。

「福島から転校した子どもが東京でいじめられているというニュースをテレビで見た。

その子が悪いんじゃないのに、どうしていじめられるのかって思うと、心が痛んだ」

青年の名前を小椋康平といった。東日本大震災が発生した当時は9歳の小学3年生だった

。あれから10年。少年から青年へ、そして大人への階段を上る時期を、ずっと福島の故

郷で過ごしてきた。そこで彼の心に刻まれた数多くのもの――。

地震への恐怖で生きた心地がしなかった

あの日は学年末で、学校から早く帰ってテレビを観ていた。そこへ緊急地震速報が流れ

た。その直後だった。

「強い揺れがきて、ばあちゃんとすぐにテーブルの下に入った。立つこともできない揺

れで、1~2分は続いた。一瞬、電気は消えるし、皿が落ちて割れる音はするし、地響き

もすごかった」

少年は、生まれてからずっと父親の顔を見たことがなかった。母親と祖父母と4人暮らし

だった。強い揺れが襲ったとき、母も祖父も外に出ていたが、間もなく無事で自宅に帰

ってきた。だが、2階建ての家は傾き、ガスと水道が止まった。そこへ余震が続く。

「夕方からは雪も降ってきて、3月だというのに寒かった。でも、寒さよりまた強い揺れ

が来るんじゃないかと怖かった。生きた心地がしなかった」

その夜は、近くのコンビニで弁当を買って家族で食べた。それでも食欲はなく、眠るこ

ともできなかった。とにかく揺れが怖かった。

翌日、福島第一原子力発電所の1号機の原子炉建屋が爆発を起こす。それをテレビで見て

知った。

「うちのほうにも、影響がくるのかな、くらいは思っていましたけど……」

水道は依然として止まったままだ。9歳だった康平も家族とポリタンクを持って、給水の

列に並んだ。

「メッチャ並びましたよ。1時間くらい。それも公園の水道でしたけど」

生きるために水は必要だ。家族のために少しでも多く確保しようと、並んだ子どもたち

は少なくない。だが、このときには放射性物質が空気中に散乱していた。子どもを並ば

せたことで被曝させてしまったのではないか、とのちのち心配して嘆く母親たちの声も

、私は耳にしている。

郡山から出て行く友達が何人もいた

小学校もそのまま休校となり、新学期が始まったのは、大きな揺れからちょうど1カ月後

の4月11日からだった。ところが、そこで異変に気付く。クラスの人数が減り、学校全体

でも児童数が減っていたのだ。

「郡山から出ていく友達は何人もいましたよ。放射能の影響で出ていっちゃうのかなあ

、この福島にいたら放射能がずっと降っている状態になっちゃうのかなあ、とは思いま

した」

だが、郡山から出ていきたいと思ったことはなかった、という。

放射能よりも、地震のトラウマのほうが強かった。次にいつ来るか、と……」

それでも、県外へ転校した同世代の子どもたちが、「福島」という理由で周りからいじ

められるという報道に接しては、子どもながらに悲しみと怒りを覚えた。

そして、次第に彼の生活も変わっていく。まず印象に残っているは、5月の運動会が半ば

中止になったことだ。

「運動会が午前中だけで終わった。それまでは、お弁当を家族と外で食べるのが運動会

だったのに、それがなくなった」

この頃には、首から線量計をぶら下げることが常態化していた。それに「行動のしおり

」というものを毎日記録しなければならなくなった。

「○月×日、どこに行ったか、毎日書く。ちょっとほかの県と違うのかなあ、と思うと、

それが嫌でしたね。自分の身体の中に放射線が入っているんじゃないかと、不安で」

そうすることで被曝の実態を調べる。危険な場所に暮らしていることを否応なく感じさ

せる。でも、それについては友達と話したこともなかった。それ以上に嫌な思い出とし

て残るのは、マスクをしての生活だった。友達と外で遊ぶのに、夏でもマスクが強いら

れた。暑いし、苦しい。子どもにとっては苦痛以外のなにものでもない。

さらに強烈な印象に残るのは、ある日突然、被災した自宅に放射線量を計りに大人たち

がやってきたことだった。「うちはどのくらいあるのかな」とたちまち不安になったこ

とを覚えている。室内はどこも基準値内だったが、安息の場所も放射線に脅かされてい

ることを知った。

やがてはじまる甲状腺検査。小学4年生の秋から中学校に進んでも、定期的に行われる。

それも、学校の多目的ホールに生徒が並んで、名前を呼ばれたらいくつか用意された衝

立のひとつの中に入る。そこで簡易ベッドの上に寝かされ、首にゼリーを塗られ、検査

器を当ててエコー画像で甲状腺の異常を探す。それもひとり3分くらい。

「もしかしたら異常があるのかな、と不安でした」という気持ちに、次第に「なんでそ

んなに何回もやらないといけないのかなあ」という思いが交錯するようになっていく。

定期的にやってくる身体の異常を見つけてもらうために順番を待つ時間が、大きなスト

レスになっていたはずだ。

子に甲状腺がんが見つかった父親の苦悩

幸い、彼の甲状腺に異常は見つからずにきた。彼の友人にも異常はなかった。ただ、私

はこの10年の間の取材で、息子の甲状腺にがんが見つかり、摘出手術を受けたという父

親に話を聞いたことがある。それも、同じ郡山でのことだった。

「ああ~、がんですね」「結論からいうと、がんです」そうぶっきらぼうに医師から告

知された瞬間のことを父親は忘れなかった。「えー」と思わず息を吐く父親の脇で、息

子の顔色がみるみる真っ青になっていった。そのまま椅子に座っていることもできなく

なって、診察室のベッドに倒れ込んだという。

その直後に、息子と一度だけ口論になったことがあった。そのときに息子がこう叫んだ

「どうせ俺はがんで死ぬんだから!」

たちまち、父親としてはいたたまれない気分になった。

告知から4カ月後に手術を受け、転移のあったリンパ節も一部切除している。その後も、

転移や再発がないか、半年に1度の検査が必要だった。その検査が近づくたびに、本人も

家族も不安になるという。当時、父親は私にこうこぼしていた。

「これが一生続くのかな。就職はできるのか、結婚はできるのか、私にとっての孫が生

まれたとしても、そこに悪影響はないのか、心配ばかりしています」

そんな特異な環境で9歳から10代のほとんどを過ごした小椋康平というひとりの青年。彼

には、ひとつの夢があった。歌手になることだ。

きっかけは3歳のときだった。母親が『NHKのど自慢』に出て演歌を唄った。その姿に強

烈な感動を覚えて、ボクもやる!歌手になる!と決めた。そこから地元のカラオケ教室

に母親が通わせてくれた。震災の当時も、1カ月だけ休んですぐに再開した教室に通い続

けた。

そして、震災から4カ月後の2011年7月、9歳で出場したカラオケの全国大会で初優勝を果

たす。氷川きよしが東京で主催したもので、6000人以上が応募、年齢制限もなかった。

その後も郡山で教室に通い続け、全国大会や東北地方の大会に出場しては、優勝を続け

た。レコード会社の人間の目にもとまるようになるが、高校時代に優勝した大会で「君

、歌手になるのはやめたら」と言われたこともあった。太っていて見た目が悪い、とい

うのが理由だったそうだ。

だが、それでも諦めなかった。体調管理にも気をつかい、努力を重ねた。そして、ある

作詞家の勧めもあり、昨春の高校卒業と同時に、母親が育ててくれた郡山の家を離れ、

本格的に歌手を目指して上京することにした。

嫌な思い出の残るマスクをしての生活

ところが、そこにまた支障が……。

「4月に上京するつもりが、緊急事態宣言が出て、できなくなってしまいました」

それでも諦めずに、2カ月遅れの6月に上京する。くしくも、子どもの頃の嫌な思い出の

残るマスクをしての上京と新生活だった。

そして、震災から10年の節目のこの3月に「コウヘイ」の名前で歌手としてデビューする

『地球は泣いている』。それがデビュー曲だ。温暖化をはじめ、地球上の環境問題を問

いかける唄だ。YouTubeでの無料配信デビューだ。

いまも帰宅困難区域という人の住めない場所を残す福島第一原子力発電所の事故からも1

0年。避けることのできなかったその影響を受けて育った青年が夢を追い続け、人類の未

来さえ左右する環境問題に歌手として声を上げる。これも10年を刻む、ひとつの物語な

のかもしれない。

(文中敬称略)

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