夜間中学は語る。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

おはようございます。

今日も文句なしの秋晴れ,快晴…

 なぜか早起き鳥のさえずりが聞こえません。

この時期、電気ストーブを背中にパソコンに向かっています。

今年は朝食時にファンヒーターのお世話になるだけです。

我慢の日々は続いています。

 夜間中学は「生きるために学びたい」との思いを強くされている方も

多くいられると思います。

せめて都道府県にいっこうだけでも創設してほしいものです。

海外からの労働者を受け入れるのであれば

せめて日常使える日本語だけでもマスターしてほしいものです。

  産経よりの引用。

【夜間中学はいま(15)】90歳超の女子中学生    生きる姿勢変わっ    

   た

学校ではすべてが初めての経験。「いろんなことに挑戦したい」と運動会にも車いす

参加する金相今さん=大阪市生野区(安元雄太撮影) 学校ではすべてが初めての経験。

「いろんなことに挑戦したい」と運動会にも車いすで参加する金相今さん=大阪市生野

区(安元雄太撮影) その他の写真を見る(1/2枚)  いくつになっても人は学び、成長

できる。   夜間中学生が身をもって、そう教えてくれる。大阪市立東生野中学校夜

間学級で9年間学び、今年3月に卒業した康士順(カン・サスン)さん(93)と、入

れ替わるように4月に入学した金相今(キム・サンクン)さん(92)。世界恐慌、貧

困、戦争…。ともに苦難の時代を生き抜き、学校と縁遠い人生を送ってきたが、晩年に

たどり着いた夜間中学でひたむきに学び続け、励まし合う友も得た。「生きる姿勢が変

わった」という。

93歳充実「いくつになっても勉強」

 康さんは、韓国・済州島で生まれ育った。兄や姉の結婚後、病気で寝たきりの母との

暮らしは極めて貧しく、わらぶき屋根の家には水道も電気もない。戦争が始まると、毎

日竹槍の訓練や道の整備をさせられ、生活は一層厳しくなった。セリやノビルなどの食

べられる野草を何とか探し出し、怯えながら泣きながら暮らす日々。「青春時代なんか

ありませんでした」と顔を曇らせる。

 戦後まもなく母が亡くなり、結婚。突然日本へ渡った夫を、今にも沈みそうな小さな

船で命がけで追いかけた。二十歳のときだった。以来、大阪で暮らす。

 言葉のわからない地で、寝る間もなく働いた。ヤミ米の買い出しもした。5人の子供

を育てながら「とにかく生きるのに必死」だった。

 子供たちも大きくなり、ようやく幸せがめぐってきた康さんに、まだ33歳だった長

男の急死が襲いかかる。幼い孫たちの世話が肩にかかり、悲しみでやけになった夫は酒

浸りの末、がんで亡くなった。「本当にいろんな苦労しましたよ」。ぽつりともらす。

 13人の孫と13人のひ孫に恵まれ、老後の穏やかな暮らしを送っていたある日、家

のポストに東生野夜間中学の生徒募集のチラシが入っていた。康さんが済州島で学校に

通ったのは小学4年まで。女は学校なんか行かなくていいと、当たり前のように考えら

れていた時代だった。

「人生で一番うれしかったことは、学校に来られたこと」と話す康士順さん=大阪市

野区(安元雄太撮影) 「人生で一番うれしかったことは、学校に来られたこと」と話す

康士順さん=大阪市生野区(安元雄太撮影) その他の写真を見る(2/2枚)  懐かしい

「学校」の言葉に心が躍り、「いつかもう一度」と願っていた思いが蘇る。ひらがなや

カタカナは独学で身につけていたが、勉強したいことは山ほどあった。80歳を超えて

いた康さんは「この年で入れてくれるんかなあ」と心配しながら、学校を訪ねた。先生

は「入学できますよ」と即答。「そのときのことははっきり覚えています。とってもう

れしかったですね」と満面の笑顔で語る。

 机を並べる級友も先生も高齢の康さんを気遣い、励まし、大事にしてくれた。

 毎日自転車で通学し、「夕方になるとワクワクしながら、学校に行く準備をしました

」と振り返る。「年をとっても若いもんに負けるもんかと、頑張りました。計算も速い

ですよ。英語は、孫の一人がイギリスで医者をしているので覚えたかったけど…難しか

ったですね」

 充実した9年間。人生で一番うれしかったことをたずねられたら、迷わず「学校に来

られたこと」と答えるという。

 「いくつからでも、いくつになっても勉強できる。100(歳)まで頑張ります」。

小柄な体の背筋をピンと伸ばした。

92歳挑戦「すべてが初めての経験」

 金さんは、夜間中学に入学するまで一度も学校に通ったことがなかった。今、車いす

で通学しながら、授業も行事も部活も「初めて経験することばかり」の学校生活を満喫

する。

 日本での暮らしは二度目だ。最初は戦前、9歳のときに韓国から渡ってきた。11歳

頃から働き、日本語を話したり聞いたりできるようになったが、読み書きはできなかっ

た。10代後半で結婚し、長女を出産。終戦の直前、10年近く過ごした日本から韓国

に戻り、農業をしながら7人の子供を育てた。

 高齢になって足腰が弱まり、ベランダや風呂場で倒れていたこともあった金さんを、

大阪で暮らす次女の野田成さん(64)が心配し、同居を勧めた。

 二度目の日本での生活は5年前から。戦前はまだのどかだった大阪の街もすっかり都

会に変わっていたが、日本語は耳にするうちに思い出した。

 何もすることがない金さんは、家で一日中パジャマで過ごし、韓国ドラマを見ながら

昼寝をしては、夜に眠れなくなった。働き者だった母の「怠惰」な姿に、親子喧嘩は絶

えず、業を煮やした娘は、韓国帰国まで含めた3つの選択肢を突きつけた。金さんが仕

方なく選んだのは、近くにある東生野夜間中学への入学だった。「この年で何の勉強を

するんや、とすごい拒否でした。今では信じられませんが」と野田さんは苦笑する。

 だが、3月に見学に行くと、先生も生徒も温かく迎えてくれ、すぐに入学を決めた。

車いす生活の金さんのために、学校は特注の机を用意する。「こんなにやさしくしてく

れる人たちが、どこにいるのと感激しました。一生懸命勉強しようと思いました」

 毎日新たな発見がある学校は刺激に満ち、金さんの生活は一変した。授業についてい

けるように昼間は余分にもらったプリントで勉強し、当初は体調面を考えて3限までで

切り上げていた授業も、「みんなに負けたくない」と最後の4限まで受けるようになっ

た。心地よい疲労で夜は熟睡。通学の服を選ぶのも楽しく、「生活にメリハリができま

した」とほほ笑む。

 入学から半年。ひらがなやカタカナは習得し、簡単な漢字もわかる。テレビのテロッ

プも読めるようになった。「ここに来られて本当によかった。いろんなことに挑戦した

い」という言葉通り、運動会などの行事にも車いすで積極的に参加する。「生きる姿勢

が変わりました」

 目標は卒業証書をもらうこと。終の棲家と決めた日本で「死ぬまで勉強しようと思い

ます」。

 「夜間中学」に関する体験談やご意見、ご感想を募集します。

 住所、氏名、年齢、電話番号を明記していただき、郵送の場合は〒556-8661

(住所不要)産経新聞大阪社会部「夜間中学取材班」、FAXは06・6633・97

40、メールはyachu@sankei.co.jpまでお送り下さい。

この人たちの暮らしの保証もいるのでは…?。少なくない実態」もあることから、