夜間中学の今…!

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 お彼岸の中、台風の影響なのか雨が昨夜来より

やむことはありません。

風交じりでなく雨はまっすぐに降っています。

 お彼岸には、必ず作ってお供えしていたおはぎもここ何年か作っていません

ずぼらには体もすぐなじんでしまいます。

簡単スクワットとかかとの上げ下ろし運動4日目は、今のところ継続中♪

 戦中から戦後の貧しい時代の人が、学校に行けなくて

活字と無縁にお暮らしの方々のご苦労のほどが

ひしひしと感じられ、人生の終盤において、学びの機会を得られ

生き生きと生活しておられるご様子にも感銘。

 日本に職場を求められた方々のためにも、この夜間中学が

存在し機能することは、これからの日本の課題として、ボランティア依存に頼るのではなく、国レベルで支えてほしいものです。

海外の労働者を受け入れるのであればその受け皿としての、日本語教育は、トラベル防止、労働者のメンタルケアーの観点からも注目されるべき夜間中学ではないのだろうか

 産経寄りの引用。

【夜間中学はいま】(12)ラブレターを妻に書くため、文字を学んだ (2019年09月20日)

 学校に通ったのは、小学2年の途中まで。だから、自分の名前も住所も書けなかった。わが子の出生届を市役所の職員に代筆してもらったときは、情けなさに涙があふれた。「子供の名前ぐらい自分で書きたかった」。20年前から奈良市立春日中学校夜間学級に通い続けている西畑保さん(83)は、読み書きを学び文章を書くのが大好きになった。長年、支えてくれた妻に、手紙で感謝の気持ちを伝えることもできた。

 「名前を書いてな」-。妻に回覧板を手渡された。30代半ば、新婚時代のころのことだ。書いてはみたが、文字にならなかった。

 実は、妻にすら読み書きができないことを隠していたのだ。厳しい言葉で非難されても仕方がないと、離婚も覚悟した。妻はとても驚いた様子だったが、数日後、「これからも一緒に頑張ろうな」と言ってくれた。

 西畑さんが育ったのは、和歌山県新宮市の山深くにある炭焼き小屋。家には電気も水道もなかった。午前5時に家を出て、小学校まで歩いて3時間。冬場は通えず、1年生の半分は欠席した。

 小学2年のとき、学校で100円を落とした。和紙の材料になる雁皮の木の皮をはいで、こつこつと稼いだ大金だ。誰の物かと尋ねる担任に、自分のお金と答えた。「貧乏なのに持っているはずがない。嘘つき」と言われ、廊下に立たされた。級友からはつばを吐かれ、「泥棒」と心ない言葉を投げつけられた。

 この一件をきっかけに、学校に行くのをやめた。今でも、いじめのニュースを見ると、当時の記憶がよみがえる。「いじめられた傷は一生消えない」

 他に行くところもなく、家業の炭焼きを手伝っていたが、嫌でたまらなかった。「早く家を出て働きたい」と12歳でパン屋に就職。食堂やすし店を渡り歩き、食の世界で仕事を続けてきた。

 読み書きができない分、朝早くから夜遅くまで働きづめ。肩身の狭い思いをした経験を挙げればきりがない。

 すし店では、出前の電話を受けてもメモが取れずに怒鳴られた。読み書きができないと知った先輩職人がわざと難しい漢字で「蝦(えび)」と書いた仕入れリストを渡してきたこともあった。同僚は運転免許や調理師免許の話をしていたが、そのときの西畑さんにとっては「夢の夢」だった。

 35歳のとき、転機が訪れた。見合いで同い年の笑顔のまぶしい女性に心をひかれ、結婚した。ただ、「読み書きができない」と打ち明ける勇気は出なかった。家でくつろいでいるときでも、常に「いつばれるか」という不安がつきまとった。

 回覧板の件があって以降、せめて自分の名前と住所ぐらいは書きたいと妻に教わって練習したが、いくら努力してもだめだった。

 長女が生まれ、出生届を出すことになった。指に包帯を巻いて市役所へ。窓口の職員に「けがをしたから、代わりに名前を書いてください」と頼んだ。届けを済ませた帰り道、ベンチに座って空を見上げると涙がこみ上げてきた。

 小学生になった娘たちから「お父ちゃんの字を見たことがない」と言われたのもこたえたが、妻は子供にも分かるように説明してくれた。役所や銀行には付き添い、代筆してくれた。

 結婚以来、支えてくれた妻にいつか感謝の手紙を書きたい。定年退職した西畑さんは、平成12年に夜間学級に入学。夜間学級では、80代や90代になっても学ぶ生徒の姿に刺激を受けた。

 半年ほど過ぎた頃、ようやく名前が書けた。「初めて名前を書いたときのことは忘れられない」と思い起こす。冬休みには、生まれて初めて年賀状を書いた。

 数年たつと、新聞が読めるように。「知らない字があっても、上と下の字が分かれば、だいたい読める」。散歩がてらに奈良県庁に置いてあった新聞を片っ端から読むのが日課になった。

 ある日、ラブレター募集の案内を見つけた。数週間考えた末、飾らない言葉ではがきにこんな内容をつづった。「僕は今夜間中学校で勉強をしています。勉強できたら妻に本当のラブレターを書こうと思っています」。入賞し、文章を書くのが楽しくなった。

 念願だったラブレターを書いたのは結婚から35年目。70歳になっていた。数日かけ、感謝の気持ちを便箋につづった。「尽くしてくれてありがとう。君のおかげで今がある」。妻は笑顔で受け取ってくれた。

 妻は5年前に他界したが、今年6月、妻との思い出を、産経新聞朝刊連載「朝晴れエッセー」に投稿したところ、新聞の1面に自分の書いた文章が掲載された。肩書は「夜間中学生」とした。

 来年3月には夜間中学を卒業する。夜間学級では勉強だけでなく、小中学校で子供たちに自らの体験を語ったり、自主夜間中学との交流を通し、かけがえのない出会いもあった。「夜間中学に行って、いろんな人に会えて幸せだった」と語る西畑さんは「今が青春」と言い切った。

 「夜間中学」に関する体験談やご意見、ご感想を募集します。

 住所、氏名、年齢、電話番号を明記していただき、郵送の場合は〒556-8661(住所不要)産経新聞大阪社会部「夜間中学取材班」、FAXは06・66

 昨日実刑が届けてくれたわずかな栗

虫だしのため、塩水につけ老いています。

 暮らしの中においても、一番過ごしやすいこの時期

何か有効利用していけたらと、今日の元気に感謝の一日にしたいものです。33・9740、メールはyachu@sankei.co.jpまでお送りください。