遠のいた慈しみの心!恩返しの心…!

 

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

           コスモス咲き乱れるこの時期、山口百恵さんが歌う【コスモス

】は

心の琴線に触れずにはいられない。

縁側の陽だまりに、庭に咲くコスモスが母の子供を回想する何気ない風景と溶け合って

どこか哀愁を感じるのがこの時期のコスモスのフレーズ…

 子供絵の母の思いが染み渡るまるで絵のような世界化も…!

このようなやさしく穏やかな時が母と娘の間に流れていたら

どんなに幸福で豊かなときかしれない。

無題1うす紅の秋桜が秋の日の

何気ない陽溜りに揺れている

比頃涙もろくなった母が

庭先でひとつ咳をする

縁側でアルバムを開いては

私の幼い日の思い出を

何度も同じ話くりかえす

ひとり言みたいに小さな声で

こんな小春日和の 穏やかな日は

あなたの優しさが しみてくる

明日嫁ぐ私に 苦労はしても

笑い話に時が変えるよ

心配いらないと笑った

あれこれと思い出をたどったら

いつの日もひとりではなかったと

今更ながらわがままな私に

唇かんでいます

明日への荷造りに手を借りて

しばらくは楽し気にいたけれど

突然涙こぼし元気でと

何度も何度もくりかえす母

ありがとうの言葉を かみしめながら

生きてみます 私なりに

こんな小春日和の 穏やかな日は

もうすこしあなたの子供で

いさせてください

 昔から恩返しの心は、日本人のモラルとして

以前であれば我々の倫理観として流れていたような気がしています。

鶴の恩返しにもあるように、古来より民話を通しても言い伝えられてきた。

 みこちゃんは、今の条件で唯一できることがあるとしたなら

みなともに嫌がるごみステーションの清掃ではないかと思い

早22年くらいはさせていただいています。

雨の日も、雪の日も、カンカン照りの真夏の太陽のもとでも

ひとりつぶやく日もありはしましたが

よく続けてきたものだと、ご褒美にけーきでひとりなぐさめる日々です。

 こんなみこちゃんが、病気で入院することなく、過ごせたことは、小学校からの義務

教育、いろんな目に見えない支えのおかげで

今日を迎えたことができ そのお礼の形として、ごみステーションの管理をさせていた

だけている幸いに「ありがとうのことばしかありません」

 分別できないプラごみが、出してあっても、それを1か月放置していても

その当事者が持ち帰ることはなく、結局みこちゃんが

我が家で買ったごみ袋を持参して、燃えるゴミの日に持参することはたびたびです。

これは、どこかモラル破壊を感じむなしい体験を重ねています。

 妻を亡くされたお医者さんが、心に区切りをつけたいと

お四国巡りをしていると、道で通りかかったドライバー女子が

車を止め、「冷たいものでもお飲みください」と

2000円札を手わされたお話が本に掲載されてありました。

 お医者さんは、おもてなしの心をありがたくいただいたのだと

記されてありました。

お四国巡りをされたお方なら、このような、なにがしかの体験は

多くのお方が実感されたことでしょう。

慈済基金自衛隊のOBたちが、ボランティア組織

「慈しみ」を形成し、全国展開しておられます。

その副会長は、台湾出身者です。

自衛隊員がこのようなご奉仕をしていただけていたなんて

知る由もなくお恥ずかしき限りです。

 ネット上で見えないことをいいことに、

言いたい放題の「馬地場等」

いじめがあっても見て見ぬふりを決め込む体質

教職員まで我が身可愛さの防衛に終始する!昔言われていた聖職はどこへやら…

馬地場等これが職場にまで波及していて、

対人関係に悩む現代病が負のスパイダるとして

社会現象まで引き起こしている現実。

我が家にも、どこからともなくごみのプレゼントまでいただく現代病…

 本当にモラル破壊は、はてしない!

自衛隊OBが形成するボランティア組織。

災「本当にそのお金を受け取りに行くべきか……」。航空自衛隊を退職した元隊員たち

は数カ月前、自問していた。しかし、配付会場に来た後、疑問は吹き飛んだ。今、彼ら

は慈済ボランティアと共に被災者に奉仕している。

津波に襲われてから今日まで涙を流したことはありません。でも、この『心つなごう

愛で』の歌を聞いた時、涙がこぼれました」。このような話は各地の見舞金配付会場で

よく聞かれる話である。

日本人はよく「建前」という言葉を使う。とくに震災後、多くの人が悲しみを押し隠し

、容易なことでは心の内を人には見せない。「建前」という壁が人と人の間に流れる感

情の交流を阻んでいる。

幸いなことに善意はそよ風のように人々の心の内側にある「本音」を撫で、真心の交流

が生まれている。その理由は、待っている時にボランティアが歌う「心つなごう愛で」

という歌かもしれないし、見舞金を恭しく手渡しするボランティアの丁寧で尊重のこも

った態度かもしれない。あるいは思いやりコーナーで出される一杯のお茶と、台湾菓子

の甘酸っぱいパイナップルケーキかもしれない。どこの会場でも被災者は慈済ボランテ

ィアの真心を感じ取ることができ、それは悲しみから抜け出すきっかけとなっている。

十月二十二日、配付会場に笠原豊子さんがお菓子を持って現れ、ボランティアになりた

いと申し出た。前の日、彼女は見舞金を受け取った後、うっかり運転免許証を紛失して

しまい、大勢のボランティアが一所懸命探し回った。運転免許証は結局見つからなかっ

たが、笠原さんは多くの愛を見つけた。

前かけをつけた笠原さんは穏やかな人柄で、典型的な日本の主婦という感じだった。震

災後の家の整理も終わっておらず、家族の世話もしなければならない状態であれば、忙

しいからと人間菩薩になることを断って当然である。「家の方は忙しいのではありませ

んか」とボランティアが聞くと、「あなたたちがこんなに働いても忙しいと言わないの

に、私に忙しいと言う資格はありません」と答えた。

お返しで恩に報いるのが

日本の伝統的な礼儀作法

そよ風のような愛は、笠原豊子さんのような主婦の心を温めることができる。柔らかい

春陽のような愛は、百戦錬磨の金剛をも柔軟にする。航空自衛隊を退職した元隊員たち

は固い軍人という役をかなぐり捨て、慈済ボランティアと一緒に被災者に奉仕している

九月十日から十二日まで、慈済ボランティアは宮城県東松島市で見舞金の配付を行った

。菅原三千男さんは「見舞金を受け取りに行くべきかどうか」迷っていた。自分に厳し

い武士道精神を持った人は、無常に遭遇した時、人一倍心に溜め込むことになる。

市役所の職員が慈済ボランティアに聞いた。「どうして座って見舞金を渡さないのです

か」。ボランティアは、「私たちはただお金を渡しに来たのではなく、世界三十九カ国

の人々の愛を手渡しするために来たのです」と答えた。

こうやって少しずつ愛で接することで、菅原さんは疑問が消えた。日本の文化には「恩

返し」という考え方がある。台湾にも「人から一斤食べさせてもらったら、八両お返し

をする」という古くからの言い伝えがある。私が子どもの頃、日本教育を受けた母は、

隣近所から食べ物をもらうと、お皿をきれいに洗い、白米を盛り、その上に卵を載せて

礼儀正しく返しに行ったのを覚えている。

台湾も東京も遠く、見舞金をもらってもお返しができないが、何かしなければと彼は思

った。「慈済のために何をしたらいいのだろう」。自衛隊を退職してから様々な社会活

動に参加してきた。今、菅原さんは「公益社団法人隊友会東松島支部」の副会長を務め

ている。慈済が配付活動する時に言葉の問題があると聞くと、十九人の隊員を伴って交

代で手伝いに来た。彼らは体で奉仕することによって心の傷を癒している。

配付活動の初日と二日目は最も来場者が多く、受け取りに三~四時間も待たなければな

らなかった。お昼になると、慈済ボランティアは昼食が摂れない人々にお菓子を出した

。持ち場を離れて食事をしに行こうとしない男性ボランティアがいた。彼は「慣れてい

ます。お腹は空いていません」と言い、また、心優しい女性ボランティアは目を赤くし

て「被災者が立ったまま食事もしていないのに、私が食べるわけにはいきません」と言

った。

菅原さんは今年七十一歳で、航空自衛隊の元隊員も皆、同じ位の年齢である。彼らは皆

、真っ直ぐ伸ばした腰と膝にサポーターを巻き、食事の時間になっても休まずに人々へ

の奉仕に当たっていた。

津波に襲われた跡も生々しい被災した土地を踏んだ慈済ボランティアは、死者の冥福を

祈る。

津波に襲われた跡も生々しい被災した土地を踏んだ慈済ボランティアは、死者の冥福を

祈る。

初日、彼らは弁当を持参してきたが、二日目からは慈済ボランティアの招待で、皆と打

ち解けて一緒に食事を摂り、緊急災害用の即席ご飯を食べた。

日本には「同じ釜の飯を食う仲間」という言葉がある。この尊敬に値する元自衛隊員と

慈済ボランティアは人助けの良き仲間である。公益社団法人隊友会は日本全国で約八万

八千名の会員がいる。「慈済に人手が必要な時は、必ず飛んで来ます」と菅原さんが言

ってくれた。

外国から日本を見ていると、政府は有能で国民は礼儀正しく、震災から既に立ち直って

いるはずだと思っていた。しかし、実際にこの土地に来て、泣き崩れるお婆さんや涙を

流して言葉がでない人に出会い、その人たちの肩をやさしく叩きながら、心の傷が内に

秘められているのを知った。亡くなった家族のこと以外に、仕事が見つからないことや

仮設住宅での困難な生活状況が彼らを苦しめていた。

家族を亡くしたという話を数多く聞いたが、その内容は似通っている。「同時に二人の

家族の手をつかんでいましたが、体力に限界がきました。最後はどちらの手を離したら

いいのでしょう?」「津波が襲ってきた時、私は大声で『逃げろ! 逃げろ!』と走り

ながら叫びました。何人かは私について走りましたが、急に離れて家に飛び込み、貴重

品を取りに行った人もいました。後で避難所で捜してみると、物を取りに行った人がい

ませんでした」

無常は準備が整っている時には来ない。「誰を助けたらいいのか?」「何を持って逃げ

たらいいか?」といった問いは、心理テストではない。「心を静め、慌てず、仏道を極

める心で衆生を悟りに導く」、「大きな悪が訪れた後には、大きな善が訪れる」……こ

れらは被災者に手渡した祝福カードに書かれたものである。

石巻市で台湾からの支援に応え、国旗がはためくのを見た。国連のように世界各地から

集まったボランティアや元気いっぱいで初めて参加した現地のボランティア、東松島

らやってきた元自衛隊員たちの勇壮な姿、そして、紺色のシャツに白いパンツの我々慈

済ボランティア……。

大災害の後、世界からの愛がここに集った。