死別は人生の通過地点!

       ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 大切な人であればあるほど死別のお別れは

言葉に言い尽くせない悲しみと深い孤独感、そして喪失感であふれかえる…

死別の時はいくら言葉を並べても表現しつくせるものではない。

黄昏時のむなしさもまた悲しみを増幅させ声を出し

「ウオンウオーン」と泣き崩れてしまう時は、だれもが通過する道とも言えます。

 みこちゃんが母を亡くした時もまさにそうでした。

人が何気なく笑うその時までも、なぜか涙が込み上げてしまう。

 いつもおしゃべりしながら食べていた夕食土器が、その時を迎えるたびに

涙で暮れなずんだものだ…

 母と気持ちを一体化するために、一時間般若心経を懸命に唱え続けた一年半。

厚い時も寒さ募るときも一心に祈り続けました。

その姿を、きっと甥が見守り続けていてくれたのだと思っています。

 だからこそ、新築と同時に仏壇までも

気持ちよく引き受けてくれたのだと

感謝の気持ちでいっぱいです。

 その時は仕事に忙殺していたこともわが身のコントロールのおかげもいただけたのだと

今では振り返ることもできてもいます。

 我が知人も、大切な旦那様を亡くされたばかりです。

 出会う旅にあふれかえるほどのやりきれない思いを、無言のまま聞かせていただくことしかできていません。

 死別の悲しみ苦しみはやはり時のみが特効薬と

思えていますみこちゃんです。

 大切な人の死別のシミレーションなんてけっしてできはしない!

 彼女は趣味の多いい人なので、きっと今は抜け殻のような生活であっても

必ず以前の生活を取り戻されると信じています。

 泣くことも大切… …。

泣くことで心の相乗効果もあるのだと思っています。

これは体の防衛のための生理的手段ともとらえたいもの!

 今のみこちゃんはどんな時でも両親が先になり後になりしながら

見守り続けてくれていると背中に熱いオーラを感じています。

 虹の橋で待ち続けていてくれる母と出会えたならと

妄想をめぐらすひと時はいつしか楽しいひと時に早変わり♪

 手を伸べて、母と語らう、虹の橋

  死別の手記。

気持ちもなんとか落ち着きを取り戻し、子供達と毎日平穏な日々を送っています。

今でも振り返ると悔しさに腹が立ち、悲しさに涙が出てきます。

あの1本の電話が私に悲しい知らせを伝えたのです。決してあってはならない出来事が起こったのです。一瞬耳を疑い信じられない気持ちでした。

主人が救急車で運ばれ付き添う私

病院で1人待つ時の心細さと祈る気持ちの中、駆けつけた子供達の顔を見た瞬間、自分を取り戻し気丈に振る舞う私病院に運ばれ治療を受ける主人苦しむ主人

脳外科の医師に呼ばれ、

1,自然死2,植物状態

の2つの選択肢のうち、

どちらかを選ばなければならなかった時の家族の辛さ

初めて知った交通事故の恐さ大切な人を失う辛さ

自動車も自転車もほんの少しの不注意が大きな事故へとつながる恐さ

事故を起こした加害者、事故にあった被害者のどちらも事故によってなにも

かもが変わってしまう恐さを知りました。娘の交通死

手 渉

当時18歳の高校生の娘が、交通事故に遭って亡くなって20年になります。何の前触れもなく何も言えず突然逝ってしまいました。「なぜ自分の子供が」という諦められない感情は今も残っています。それからの私たち家族の人生は一変しました。娘を失っただけでなく、いつもの当たり前の生活が崩壊の危機にさらされたのです。縁がないと思っていた裁判では、警察、検察、地裁、高裁、最高裁と続きました。裁判が終わったのは、娘の死後10年の時間が過ぎていました。

さて、娘の突然の死は精神的に堪え難く、救済してくれる所を県警や警察庁に問い合わせましたが、当時の日本には被害者支援組織はありませんでした。娘が亡くなって4ヶ月後に、孤軍奮闘して「全国交通事故遺族の会」を設立し、被害者の救済と交通事故防止のために活動してきました。詳細については、インターネットで「全国交通事故遺族の会」を検索していただければと思います。最近では、交通死者は減少していますが、それでもまだ毎年4千人以上の方々が亡くなっています。

地球規模で見ると毎年120万人もの死者数が報告されています。国連で「世界道路交通被害者の日」が採択されています。私達の会では、去る11月21日、3回目の「世界道路交通被害者の日」を主催しました。今年は、警察庁をはじめ交通事故に関係する諸官庁が「後援」をしていただき画期的なことでした。今後は国家的行事として開催されることを切望しています。

私の娘は、自転車で通学中ダンプカーに衝突されて亡くなりました。当時自転車は被害者になるケースが多かったのですが、最近は自転車同士や自転車が歩行者と衝突し、加害者になる傾向があり、損害賠償も絡んで大きな社会問題になっています。

自動車は鉄道と違ってレールをもたないきわめて不安定な乗り物です。しかもおびただしい量の自動車が相互に出会いながら、しかも縦横無尽に走るので、自動車相互の調整がうまくいかず事故が起こる危険性は高いのです。自転車についても同じことが言えます。理想的な交通事故防止は、運転手の適性をもっと厳格にし、自動車の構造や道路環境を人間の注意力に頼らないでもよいように改善することと思います。飲酒運転厳禁は勿論ですが、法定速度を守ったり、一時停止を守ったり、駐車禁止の所には駐車しないこと。とにかく交通違反をしないこと。更に運転計画を立てて、体調を整えることも大切です。注意力散漫や判断力が衰えている時は、運転を中止する勇気も大切だと思います。自転車は車道では被害者になり、歩道では加害者になる傾向があります。自転車専用道路の検討も必要です。自転車も交通ルールが作成させると伺っています。義務化されて交通事故が減ることを希望しています。交通事故は絶対に他人事ではないのです。

無題(息子が亡くなったことについて)

千葉市 29歳 男性

平成21年9月25日に事故は起きました。夕方に妻から電話があり、「息子が事故にあった。」と聞かされました。私は妻をなだめて、社長に事情を話し、すぐに病院に行きました。

病院に着くと、真っ赤に目を腫らした妻がベンチに座っていました。妻に「大丈夫だよ」と声をかけて、しばらくすると先生に呼ばれ診察室へ。先生の話によると、息子はすぐに手術をすれば大丈夫だろう。と言っていたので、私もきっと大丈夫だろうと思っていました。

そして、やっと息子の顔を見れたのですが、その瞬間に私の中にあった余裕の気持ちは一気に絶望に変わりました。

顔は大きく腫れ上がり、今朝見た息子とは変わり果てた姿でした。

私は手術室に行くまで何度も息子の名前を呼んだのですが、反応はなく苦しそうに呼吸をしていました。

息子は手術室に運ばれ、待合室で待っている間、私は神様にずっとお願いしていました。神や仏を信じる人間ではなかったのですが、あまりに変わり果てた息子の姿にもしかしたら、という思いが私に大きくのしかかり、必死に息子の手術が成功して、元気な姿が見れますようにと祈り続けました。

どれ位の時間が経ったでしょうか・・・先生が申し訳なさそうな顔で手術室から出てきたので、私は悟りました。

「あぁ・・・きっと息子は・・・」

そして先生から告げられた一言は・・・

「一生懸命に処置をしたのですが、出血が止まらず、今付けている人工呼吸器を外せば・・・」私は溢れる涙を抑え、妻に

「Rは頑張ったよね?これ以上辛い思いをさせるのはよそう。」

妻も溢れる涙を抑え静かに頷きました。

私は、先生に「外してあげてください。」

とだけ告げ、妻を抱き寄せ、思い切り泣きました。

君とお別れしてから、早いもので一年たつね。1日たりとも忘れたことはないよ。

今でもひょっこり帰ってきそうな気がする。家の中を見渡すと君との思い出がいっぱいある。7月2日に君の弟が生まれたんだよ。

やっぱり兄弟だね。君の赤ちゃんの時に似ている。心臓に穴が開いているみたいで病院に通っているけど、そんな風に見えない位元気いっぱい育っている。心臓の穴はそんなに心配しないでも大丈夫らしいから、君も心配しないでね。家を見渡せば君との思い出がいっぱいあるのに、君を抱きしめることも出来ない。小さな手を握りしめてあげることも出来ない。すぐそこに居るのに、もう君の声を聞けない。

もっといっぱい遊んであげれば良かった。もっといっぱい抱きしめてあげれば良かった。もっと・・・もっと・・・。

あの日、君の横で一晩中泣いた。悔しくて悔しくて・・・。

何も出来ない自分に悔しくて・・・。怒ってばかりいた自分がゆるせなくて。

だけど怒っていたのは君の事嫌いだからじゃないんだよ。パパみたいな駄目な大人にならないで欲しかったから。立派な大人になって欲しかったから。こんな事になるなら、もっといい子いい子してあげたかった。パパもママもみんな元気にしてるから、ゆっくり休んでて。こんなパパの子供に産まれてくれてありがとう。

生まれ変わったら、また家族になろうね。

もう一度妻と2人でご飯が食べたい

いすみ市 岡本昭三 82歳

私の妻は平成19年10月に交通事故で亡くなりました。相手の脇見運転が原因です。時間にすれば2秒から3秒の脇見が妻の一生を奪ったのです。

その日の朝は妻と2人でご飯を食べて、私はいつものように釣りに出かけました。妻は畑に行くと言っていましたが、この時の会話が妻と交わした最後の言葉になりました。

妻が事故に遭ったのは、午前8時半ころです。相手は近くに住んでいる会社勤めの女性でした。出勤前に用事を済ませようと急いでいたのと助手席のバックが気になって脇見をしたため、自転車で道路を横断していた妻を発見できなかったのです。はね飛ばされた妻はブロック塀に叩きつけられました。

釣り場から呼び戻され慌てて病院に行くと妻は手術中でした。手術が終わり集中治療室に運ばれる妻に声を掛けましたが反応は無く、担当の医師からは「出血がひどく、今夜がヤマです。」と言われました。その夜、息子が見舞いに行ったところ、目を開けて何か言いたげだったそうです。意識が戻ったのだと思いますが、大きな怪我だったので大変苦しかったのではないでしょうか。

次の朝、病院から「容体が急変した。」との連絡があり急いで駆け付けると、私たちを待っていたかのように妻は息を引き取りました。

亡くなった妻と一緒に自宅に戻ると相手の運転手が来ていました。彼女は、泣いて詫びていましたが、妻を失った悲しみが強く、何も考えられませんでした。彼女は妻の命日やお盆にお墓参りに来ます。お線香もあげてくれますが、事故から3年が経った今でも、恨む気持ちは無くなりません。あの時の悲しさは忘れられません。

彼女は執行猶予付きの判決を受けましたが何故、妻が死んだのに刑務所に入らないのか不思議です。一生罪を背負って苦しみながら生きて欲しいと思います。彼女は私の家の近所に住んでいます。その親戚も私と同じ自治会に住んでいます。私はその人たちの顔を見る度に元気だったころの妻を思い出し悲しくなります。遠い所に住んでいる人であればこんな思いもしないで済むのに、どうして私が今でも苦しまなければならないのでしょうか。

【熊木徹夫の人生相談】夫の死 悔やんで、悲しくて

https://www.sankei.com/life/news/190714/lif1907140002-n1.html