西日本豪雨から一念。

  ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

本当に時のたつ速さを感じないわけにはいきません。

今日は七夕様

七夕伝説

織姫は天帝の娘で、機織の上手な働き者の娘であった。彦星もまた働き者であり、天帝

は二人の結婚を認めた。めでたく夫婦となったが夫婦生活が楽しく、織姫は機を織らな

くなり、夏彦(彦星)は牛を追わなくなった。このため天帝は怒り、二人を天の川を隔

てて引き離したが、年に1度、7月7日だけ天帝は会うことをゆるし、天の川にどこからか

やってきたカササギが橋を架けてくれ会うことができた。しかし7月7日に雨が降ると天

の川の水かさが増し、織姫は渡ることができず夏彦も彼女に会うことができない。星の

逢引であることから、七夕には星あい(星合い、星合)という別名がある。また、この

日に降る雨は催涙雨とも呼ばれる。催涙雨は織姫と夏彦が流す涙といわれている。(「W

ikipedia」より)

 短冊に「災害が少なく被害がありませんよう」と

願いを笹にそっとそっとたくしたくなる。

 あの天才から一念。

気持ちだけがおきざりにされ、時だけがいたずらに過ぎてゆく!

 雨音にかき消されながら、「避難してください」の連呼が耳に乱暴に飛び込んできた

小田川の水位が報告されていたなら、ひなんしゃも、もっと増えていたはず?

 小田川の決壊は多くの命と人生を奪い去ってしまった。

 今なお仮設住宅者は7200人おられるとか

 みこちゃん宅は、土手があったことで、庭周辺まで押し寄せた濁流は

間一髪で助かった。

 ご近所の大半は、畳み乾しで多くの労働と

時間が奪われた

 真備住民の58パーセントがとどまることを決意されています。

 これは国レベルの小田川浩二が約束されたことが前提となっています。

 何もなければ、真備の自然はのどかで風光明媚そのもの。

 小田川の決壊は昔から言われてきたにもかかわらず

この惨事を招いてからの工事進展には小首をかしげたくなる…

 真備町は商業地はあちらこちらで復興していますが

手塚図の廃墟もその悲しみを新たにさせている

 福島の被害から逃れるようにして、「岡山は大丈夫」の元

引っ越しされ新築した家が飲み込まれたお方もおられます。

日本列島どこにでも災害は起きても不思議ではないと覚悟も新たに

 まびちょうは深い祈りとともに否応なくあの悪夢のような時間が

それぞれの胸にそれぞれの運命のいたずらを

フラッシュバックさせてしまう複雑な日となりそうです。

生き残ったことでより深い悲しみと

苦悩を体験されている人もそこここで聞かされています。

すべての言葉を失いただただ祈るほかない。

  アサヒコム寄りの引用。

「人生楽しくしてくれた」娘に隠れて泣いた父   豪雨1年

 西日本豪雨から1年。あの日、大切な家族が土石流や濁流にのまれた。のこされた家

族は、懸命に前を向こうとしている。

特集:西日本豪雨から1年

 広島県坂町小屋浦4丁目で、高下(こうげ)幸子(さちこ)さん(当時49)が行方

不明になって1年。「みんなで来たよ」。6日午前8時、夫(55)が2人の子どもと

自宅跡を訪れ、静かに手を合わせた。そばでは、近所の人たちが幸子さんをしのんで植

えてくれたマリーゴールドやヒマワリが揺れる。

 「笑顔でいる時間が長い人」だった。職場で出会い、何げないことでも笑う素朴さが

好きになった。週末はよく2人でドライブに出かけ、助手席から八重歯をのぞかせ愛く

るしい笑顔を向けてくれた。長女(23)と長男(20)が大人になってからも、2人

をひざ枕で耳かきしてあげる、そんな優しい母親でもあった。

 自宅は小屋浦地区を流れる天地川のすぐ脇にあった。あの日、在宅しているはずの幸

子さんを案じ、昼過ぎに広島市の勤務先から電話をかけた。「早めに避難してね」

 午後8時ごろ、幸子さんは勝手口を出たところで、押し寄せた黒い土石流に流された

。長女と15メートルほど離れた高台の親族宅に避難しようとしていたという。

 豪雨後、土砂の山に打ち上げられて助かった長女と、全壊した自宅の整理に追われた

。白地のパーカが出てきた。結婚前、宮島でデートをした時に幸子さんが着ていたもの

だ。誕生日に贈ってくれたセーターもあった。「もったいなくてほとんど着られなかっ

たな」。一つひとつに思い出が詰まっていた。「人生を楽しくしてくれたね」。長女に

隠れて泣いた。

 妻の携帯電話の解約、四十九日、除籍――。生きていた証しが少なくなる中、   

         届かないとわかっていながら、妻のSNSにメッセージを送り始め

た。「どこにかくれんぼしてるの?」「家族皆で正月を迎えたかったよ」「誕生日おめ

でとう」「つらいよ」「むなしい」「あなたが好きだった」……。

 小屋浦を離れ、近隣の町で子どもと親族計4人で暮らす。日常のちょっとしたことで

家族とぶつかるたびに、妻の笑顔を思い出す。

 まだ区切りがつけられない思いと、取り残される焦り。6日、小屋浦で開かれた犠牲

者追悼式には、ずいぶん悩んだ末に参列した。

 1年を振り返れば、支えてくれる多くの人がいた。捜索してくれた警察や自衛隊、励

ましてくれた友人。そして妻。助けられなかった自責の念も尽きないが、「もうええけ

」と妻が背中を押してくれないかとも思う。「人生がまだある。前を向かんと」(岩田

恵実)

■母の野菜カレーが好き…