令和元年 沖縄戦没者慰霊祭。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 山里の朝のさわやかな空気に触れ

今日の静寂を受け、先人たちの苦渋の上に

今日あることに改めて感謝の気持ちで祈りたいものです。

 美空ひばり没後30年。

平成の申し子たちには、美空ひばりの存在など知らない。

 戦後の混乱期 少女歌手として「悲しき口笛」が

そこここの街に響いた。

  死の直前の舞台に立つにあたり

親友「中村めい子」に、深夜に一本の電話があったという!

 メイコ、布団の中でリンゴ追分を歌おうとしたら

声が出ない、だから入院するよ」が

生前に交わした最後の言葉であったといわれています。

川の流れのようにを堂々と歌い上げたあのプロ魂の影に

どれほどの人が闘病の最後の苦しみを想像しただろうか…?

最後の舞台で歌い上げた川の流れのようには時空を超えて

きっと残り続けることでしょう。

 6月23日は、令和元年全戦没者慰霊祭が、総理大臣の出席の元

厳かに挙行されました。

 総理大臣あいさつの中で、慰霊の式典における

やじだけは決してあってほしくはありませんでした。

 高齢にもかかわらず式典に参列されたご遺族も

少なくはなかったはず… …

式典にはどのような思いがあろうと

政治的色彩だけは無縁であってほしかった。

 安倍総理の脳裏に去来するものは何でしょう?

 沖縄との信頼関係がなければ

人を不幸に向けるだけではないのか?

 亡き小渕がサミットを沖縄で開いたように

どこか信頼の入り口がなければ

すべての言葉にハートも温度もまったくの取ろうそのもの!

 沖縄の戦争は、決して集結し、穏やかな平和の日々かといえば

それはNoだ!

 安倍総理は、沖縄に寄せている本心を、沖縄県民に語るべきではないのでしょうか。

『できうることはすべてする』とは、すでに県民に背中を向けているといわざるを得ない。

 地位協定の改定、辺野古フルの問題も丁寧に説明する総理たる義務もあるはずだ!

 まるで沖縄を無視したかのような独走態勢…

 沖縄は、多くの犠牲者を生むことすらなかったような結末!

 総理の式典のあいさつは「とってもお上手」

 人の心に響く言葉はどこをとっても見つけようもない

20万人を超える人が亡くなった沖縄戦から74年。沖縄は23日、令和になって初めての「慰霊の日」を迎え、最後の激戦地となった沖縄県糸満市では、戦没者追悼式が開かれました。

太平洋戦争末期、昭和20年の沖縄戦では、住民を巻き込んだ激しい地上戦で20万人を超える人が犠牲になり、沖縄県民の4人に1人が命を落としました。

沖縄県は、旧日本軍の組織的な戦闘が終わったとされる6月23日を「慰霊の日」としています。最後の激戦地となった糸満市摩文仁平和祈念公園で開かれた沖縄県主催の戦没者追悼式には遺族などおよそ5100人が参列し、正午に1分間の黙とうをささげました。

このあと沖縄県の玉城知事は、「平和宣言」の中で、沖縄の方言と英語を使って「いつまでも平和で安心した世界をみんなで築いていかなければならない。県民の皆さんとともに努力していく」と述べました。

一方、アメリカ軍普天間基地の移設計画をめぐり、ことし2月に行われた名護市辺野古沖の埋め立ての賛否を問う県民投票で、投票した人の7割以上が「反対」の意思を示したことを踏まえ、「結果を無視して工事を強行する政府の対応は、民主主義の正当な手続きを経て導き出された民意を尊重せず、なおかつ地方自治をもないがしろにするものだ。政府には、県民の大多数の民意に寄り添い辺野古が唯一との固定観念にとらわれず、沖縄県との対話による解決を強く要望する」と述べました。

また、安倍総理大臣は「引き続き、『できることはすべて行う』、『目に見える形で実現する』との方針のもと、沖縄の基地負担軽減に全力を尽くしていく」と述べました。

首相あいさつ中にヤジ 「帰れ」「辺野古反対」…

戦没者追悼式では、事前に式典の間は声を出さないよう呼びかけられていましたが、安倍総理大臣があいさつをしている際、会場からは、「帰れ」とか「辺野古反対」、「うそつき」などといった声が上がりました。

安倍総理大臣が沖縄の基地負担の軽減について触れた際には「ことばはいらない」などと声を上げる参列者もいました。一方、こうした声に対し「黙れ」などと叫ぶ参列者もいました。

 平成天皇初めての沖縄訪問。昭和50年7月17日 初めての沖縄ご訪問の折、ひめゆりの塔で火炎瓶事件があった夜に

県民に対して発表されたメッセージ(当時は皇太子殿下)

「私たちは沖縄の苦難の歴史を思い、沖縄戦における県民の傷跡を深く省み、平和への願いを未来につなぎ、

ともどもに力をあわせて努力していきたいと思います。払われた尊い犠牲は、一時の行為や言葉によってあがなえるものではなく、

人々が長い年月をかけて、これを記憶し、一人ひとり、深い内省の中にあって、この地に心を寄せ続けていくことをおいて考えられません。」

◇  ◇  ◇  ◇  ◇

諸君!2008年7月号

平成皇室二十年の光と影

■琉歌四十首のノート 外間守善(ほかましゅぜん) (沖縄学研究所所長)

…1975(昭和50)年、沖縄国際海洋博覧会で両殿下が沖縄を初めて訪問されることになったある日、私は東宮御所に呼ばれ、尋ねられた。

戦没者鎮魂のため南部戦跡を訪ねたいのですが、外間さんはどう思いますか」と。

当初の予定には、博覧会場だけで南部戦跡は入っていなかった。これには宮内庁も博覧会委員会も大反対で、一人で悩んでおられたようだ。

南部戦跡が日程に入ることになったのには殿下の強いご意志があったのである。

出発の前日には、殿下が自ら「談話」との一文を書かれた。私は英訳担当の学者と二人、東宮御所で深夜まで検討を重ねた。

帰り際に私が「何が起こるかわかりませんから、ぜひ用心して下さい」と申し上げたところ、

殿下は静かに「何が起きても受けます」とおっしゃった。並々ならぬご決意が伝わってきた。

早朝に御所を出発した両殿下は、沖縄に到着するとまっすぐ南部戦跡に向かわれた。

車が糸満の白銀堂にさしかかった時、白銀病院から爆竹のようなものが車列に向かって投げられた。

幸い事なきを得たが、車はその後訪問した「ひめゆりの塔」で起こった。

慰霊碑に献花をして両殿下が左側に二メートルほど移動した瞬間にガマに潜んでいた犯人が火炎瓶を投げつけたのだ。

火炎瓶は献花台にぶつかって破裂した。警護の人々が両殿下をかばったが、両殿下は前を向いたままだった。

そして、警護の者に押されるような形で車に乗られたという。

もちろん、その後の予定は中止されても当然なのだが、両殿下の予定は一つの変更もなく沖縄師範健児の塔、

島守の塔と参拝なされた。事件後に訪問された各塔でのお出迎えには私の知人が何人もいたが、両殿下は

何ごともなかったかのように自若としておられたという。最後に予定されていた遺族会館では予定に入っていなかった

ひめゆり同窓会の人々をお呼びになって、昼間の事件の心労を慰められたそうだ。

「談話」の一文はその日の夜に発表された。

私は事件を東京で知った。南部戦跡めぐりに賛成しない方がよかったのか、と気をもんでいるところに八木侍従から電話あった。

殿下はその時、屋良知事たちと夕食中だったが「外間さんが心配しているだろうから」とわざわざ電話をかけるよう指示なさったらしい。

沖縄から帰られてすぐに殿下から「琉歌になりますか」と二首の歌を見せられた。

ふさかいゆる木草 めぐる戦跡 くり返し返し 思ひかけて

花よおしやげゆん 人知らぬ魂 戦ないらぬ世よ 肝に願て

無名戦士の塔に詣でて、戦争のない世界を祈願なさったであろう両殿下のお姿が髣髴として私には万感胸にせまる思いがあった。

玉城知事の平和宣言、沖縄言葉と英語交え 政府へは批判

http://www.asahi.com/articles/ASM6R36DDM6RTPOB003.html