さがみはら事件、実名で語る家族!。

   ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 障碍者大量殺傷事件のその後の課題はあまりにも

社会に多くの物を投げつけた犯罪行為でもありました。

 また被害者である障碍者の親たちが、

名前の公表を望まなかったことも、世論に背を向けた行為として非難されている。

 またこの事件は大島議長、安倍総理の元にも

その予告計画が文面で届けられてもいました。

その計画通りに事件が実行されたこともショックな課題ともなりました。

裁判を控える今においても

 犯人は一貫して『心失社はもはや人間ではなく

この世に生きるべきに値しない』と刑務所からも

訴え続けています。

 このような犯罪者にも「よくやった」と称賛の声も

上がってきていることもまた事実です。

ネットは隠れた石表現のできるツールでもあり

あまりにも無責任としか言えない…

 この惨劇の被害者である下記の人は、あえて名前を名乗り

子供と正面から向き合おうとされておられるお方でもあります。

  実名でこの事件と関わり続けておられる尾野さんその人は

再婚のため、被害者との血縁はありません。

 このようなお方が、世の中に存在されておられるだけでも

心に一筋の光を感じます。

 障碍者と生まれてよかったと素直に言葉にできる人はどれほどおられることでしょう

…名前の公表を差し止めた行為にも色々な意見がとびかってもいます。

 さがみはらの障碍者施設における大量殺害事件は

で起きた大量殺害事件が起きた光景は忘れることはできません。

神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」

 「お父さん、お父さん、お父さん…」。生死の境をさまよった息子は、意識が戻ると

同時に何度も叫んだ―。平成最悪の犠牲者を出した相模原障害者施設殺傷事件。父はい

ま、命を選別する被告の妄言に抗い、そして自責の念を胸に問い直す。我が子にとって

の「幸せ」とは何か。(石川泰大、成田洋樹)

事件後、週1回、尾野一矢さん(右)と親子水入らずのひと時を過ごす父の剛志さんと母

のチキ子さん=2017年1月事件後、週1回、尾野一矢さん(右)と親子水入らずのひと時

を過ごす父の剛志さんと母のチキ子さん=2017年1月

午前5時過ぎだった。

「障害者施設で入所者刺される」「15人心肺停止」―。テレビをつけた瞬間、衝撃的な

字幕が目に入った。画面の向こうで、アナウンサーが強い口調でニュースを繰り返す。

現場上空からの中継で大きく映し出されたのは、見覚えがあるS字型の居住棟が連なる茶

色い建物。オレンジ色の大型テントが張られ、周囲をせわしく動き回る救急隊員らの姿

が、事態の深刻さを伝えていた。

2016年7月26日に起きた神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」(相模原市緑区)で

入所者19人が犠牲になった殺傷事件。重傷を負った尾野一矢さん(46)の父の剛志さん

(75)=座間市=は、事件のあった日の記憶が頭から離れない。

「あの光景は、目に、耳に、今もはっきり残っている。きっと死ぬまで消えないと思う

「この子のために」病室での誓い

あの日、妻のチキ子さん(77)を助手席に乗せ、自宅から約40キロ離れた園へと車を走

らせた。ハンドルを握る手は震えていた。

付近では片側1車線の狭い道路にパトカーや救急車が長い列をなし、到着したころには午

前7時半を回っていた。事件発生からすでに5時間がたっていた。

事件当日、神奈川県立障害者施設「津久井やまゆり園」を慌ただしく出入りする救急車

両と警察車両=2016年7月26日、相模原市緑区事件当日、神奈川県立障害者施設「津久井

やまゆり園」を慌ただしく出入りする救急車両と警察車両=2016年7月26日、相模原市

施設の入り口や廊下に血が点々と残り、体育館にはけがのなかった入所者がぼうぜんと

した表情で座っていた。そこに一矢さんの姿はなかった。不安が一気に募った。

はやる気持ちを抑え、職員らが集まる部屋に向かうと、テーブルの上に4枚の紙が並んで

いた。入所者の安否が書き込まれた名簿だった。

無事だったら「○」、そうでないなら「×」。祈るような気持ちで、記号が混在する名簿

を指でなぞり、目で追っていく。

「尾野一矢」。ようやく見つけた我が子の名前に記号はなく、代わりに病院名があった

病院に着いたのは午前9時半。首やのど、腹部を刺され、意識不明の状態で運び込まれた

、と医師から聞かされた。必死に抵抗したのだろう。手の甲にはいくつもの切り傷があ

った。

家族全員がそろった時だった。一矢さんの右目から、涙がスーッと流れるのを見た。「

俺たちの声が聞こえている。だから、絶対大丈夫」。信じることしか、できることがな

かった。

翌日、一矢さんの意識が戻った。病室に駆け付けた時、思いもよらぬことが起きた。

「お父さん、お父さん、お父さん、お父さん…」

一矢さんが叫んだ。何度も、何度も。普段あまり言葉を話さない息子が、そう呼んだの

は初めてだった。

喜びと驚き。だが胸にこみ上げたのは、それだけではなかった。

自分は本当に息子のことを理解していたのか。何も考えていないと勝手に決めつけてい

なかったか―。罪悪感だった。一矢さんを力いっぱい抱きしめながら、誓った。

「残りの人生を、この子のためだけに生きていこう」

尾野一矢さん(左)と病院で面会する剛志さん=2016年7月30日(尾野剛志さん提供)尾

野一矢さん(左)と病院で面会する剛志さん=2016年7月30日(尾野剛志さん提供)

血縁なくても「一度も後悔ない」

一矢さんはチキ子さんと死別した前夫の子どもで、剛志さんと血のつながりはない。

初めて会ったのは、一矢さんが3、4歳のころ。チキ子さんの家を訪ねると、玄関に立っ

て黙ったままこちらを見ていた。

「色白でぽっちゃりとしていて、まるでお人形さんのようだった」

自閉症のためか、一矢さんは水にぬれるのを嫌がり、髪がひどく汚れていた。剛志さん

は泣いて暴れる一矢さんを抱きしめて髪を洗った。辛抱強く世話をしているうちに、膝

の上におとなしく座っていられるようになった。

着替えの練習も始めた。パジャマのボタン代わりに大きなホックを縫い付けたり、洋服

の表裏をわざと逆にして置いたり。チキ子さんが「ここをパチンと留めるんだよ」と教

えると、一矢さんは手を動かさず、口で「パチン」と繰り返した。うまくできたと思っ

たのだろう。うれしそうにはにかむ一矢さんを囲んで、家族に笑顔が広がった。

トイレ、食事、歯磨き…。一つのことを覚えるまで数カ月。小学校の特別支援学級を卒

業するころには身の回りのことができるようになった。

「目障りだ」「早く施設に入れろ」―。周囲から心ない言葉を浴びせられたことは数え

切れない。

小学校からの帰り道。民家の軒下で見つけたダンゴムシやアリを持って帰ってくると「

うちの敷地で何かを盗んでいった」と文句を言われ、牛舎にいるウシに草をあげれば「

変なものを食べさせた」と言いがかりをつけられた。

「それでも、障害のある子どもの親になったことを後悔したことは一度もない」

幼いころ、知的障害のある近所の子どもをからかったことがある。「障害を持ちたくて

持ったわけじゃないんだよ」。母にきつくしかられた時の言葉が、いつも胸にあった。

かわいいだけで子育てはできない。大声で騒いだり、暴れたり…。思い通りにならない

いら立ちを一矢さんにぶつけてしまったこともある。後ろめたい気持ちが心にずっとあ

った。

一矢さんは成長とともに障害が重くなり、夫婦で仕事を抱えながら自宅で介助するのが

難しくなった。親元を離れて12歳から障害児施設で暮らし、23歳の時にやまゆり園に入

所した。

剛志さんは家族会の会長を務め、月1回は園に顔を出した。だが一矢さんは食堂で一緒に

食卓を囲んでも、食べ終えると振り返ることもなくすぐに自室に戻っていった。息子が

何を考えているのか分からなかった。そういうものなのだろうと軽く考えていた。

園での生活が長くなるにつれ、一矢さんの一時帰宅は減っていった。「あの子にとって

のわが家は園なんだね」。親離れしていく息子に、うれしさと寂しさが入り交じった。

息子の意思「やっと気づけた」

そして事件は起きた。穏やかな暮らしは断ち切られ、かつてそこにあった営みは奪われ

た。施設は一部の建物を残し、建て替えに向けて取り壊され更地が広がる。

入所者の多くは17年4月から、横浜市港南区の仮園舎で暮らしている。事件後、一矢さん

は髪が薄くなり、白髪も増えた。一時は体重が6キロ落ち、傷痕を見ようとすると「怖い

」と取り乱すこともあった。

週1回、夫婦で施設を訪ね、親子水入らずのひと時を過ごす。以前よりも言葉がはっきり

と出るようになり、生き生きとした表情を見せるようになった実感がある。

「本当の気持ちは今も分からない。でも、心の中にちゃんと意思を持っている。事件を

きっかけに、親子の絆が深まったような気がするんです」

園の再建を巡っては、より自由度の高い少人数のグループホーム(GH)などで暮らす「

地域移行」を求める声が身体障害者や支援者から上がった。だが、剛志さんは元の場所

で大規模施設としての再出発を訴え続けた。

「重度の知的障害者を受け入れてくれるGHがないのに、地域に出て行けというのはおか

しい」

管理されがちな大規模施設での暮らしに否定的な障害当事者らが参加する集会にも足を

運び、時に批判を浴びながらも施設の必要性を説いた。

一人暮らしを見据え、週1回、ヘルパーの男性と昼食をともにする尾野一矢さん(左)=

2019年2月一人暮らしを見据え、週1回、ヘルパーの男性と昼食をともにする尾野一矢さ

ん(左)=2019年2月

そんな剛志さんが考えを変えるきっかけになったのは、映画監督の宍戸大裕さん(36)

との出会いだった。重度の知的障害者が公的制度を使ってヘルパーの支援を受けながら

アパート暮らしをする日々を撮り続けてきた宍戸さんから「新たな生活の選択肢として

一人暮らしもある」と教えられた。支援者の話に耳を傾け、実際に一人暮らしをしてい

る当事者と家族にも会い、ゆったりした自由な暮らしぶりに目を見開かされた。

「施設にこだわっていた自分は間違っていたかもしれない」。18年夏から、一矢さんと

昼食をともにする場に外部のヘルパーに同席してもらっている。

「最終的にどこに住むかを決めるのは一矢自身。できるなら、一人暮らしを実現させて

あげたい」

あの日から2年8カ月。遺族や被害者家族が口を閉ざす中、剛志さんは唯一、実名で取材

に応じている。当事者が声を上げなければ、「障害者は不幸を作ることしかできない」

と言ってはばからない植松聖被告(29)=殺人罪などで起訴=に屈してしまうと思うか

らだ。

社会に根付く差別や偏見が事件を起こした、と剛志さんは考えている。「平成最悪」と

される事件も風化と無関係ではいられない。人々の記憶が薄らげば悲劇はいつか繰り返

される。そんな危機感が強い。