夜間中学の広がりが欲しいもの!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 修学時、なんだかの事情により学ぶことのできなかった教科。

社会人となったとき、市役所の届け出事項、選挙での起債

  生活に困窮するほどの学習障害

大人になって学びたいと思う人は少なからずあることでしょう…

 みこちゃんも高校生活を学びなおししたく思う一人でもあります。

 あんなに勉強なんて大嫌いだった私が

今だからこそ学びたく思っています。

世界史や地理、化学なども今なら丁寧に学べるような気がしますが

あの世の宿題にしたいものです。「笑い」

コミニケーション能力が著しく欠如しているため

意思伝達がスムースにいかない悩みにさいなまれてもいます。

これでは対人関係まで気づけないのではと自暴自棄でもあります。

国語を学ぶことで、言語能力を養いたいと思える昨今です。

 夜間中学は素晴らしい。

誰でも望めば行ける窓口のひろい

夜間中学であってほしいものです。

 労働移民者の窓口としての機能も欲しいものですが

これは国が動かないとボランティアが賄うことには無理もあろうというもの.

   産経よりの引用。

【夜間中学はいま】(5)戦災孤児 喜びの涙も覚えた

 夜間中学は、戦争や貧困などで義務教育を受けられなかった人たちのために設けられ

た。神戸市立丸山中学校西野分校の卒業生、 村上玉子さん(77)=兵庫県姫路市

は、夜間中学の原点を体現する一人だ。物心ついた頃には両親はおらず、名前も知らな

い。他人の家を転々と渡り歩き、そこで子守をしながら暮らした。戦災孤児だった。

 針のむしろ

 終戦時は4歳だったらしい。近所の子供の体格と比較して「だいたいこのくらいの年

頃やろう」と生年月日を決められたので、本当の年齢は分からない。

 6歳の頃から子守を始めた。10歳のとき、世話係だった子供の忘れ物を届けに小学

校へ行くと、教室の黒板には絵とひらがなが書かれていた。「はと」「つばめ」の文字

を知った。買い物に行けば、商品札の「ほうれんそう」や「ちくわ」などの文字を目に

焼きつけた。書くことはできなかったが、生活に密着した言葉は何とか読めた。ランド

セルを背負って登校する子供たちがうらやましかったが、「食べさせてもらっている身

。学校に行かせてほしいとはとても言えません。夢には見ても、無縁のところだと思っ

ていました」と振り返る。

 読み書きができないことで味わった「針のむしろ」は数え切れない。役所で書類に記

入できず、職員には代書を断られた。仕方なく近所の人に頼みに行くと、中には「こん

なんも書かれへんの」と笑う人もいた。

 23歳で結婚し、一男一女をもうけた。長女が幼稚園に入ると、積み木やおはじきな

どの持ち物に名前を書くように言われた。困っていると、入園前にすでにひらがなを覚

えていた長女は「うちが書くから心配せんでええよ」と二日がかりで書き終えた。疲れ

て寝る娘の姿に「情けない母親でごめんな」と涙がこぼれた。長男が小学校に入ると、

担任とやり取りする連絡帳も姉である長女が記入した。

 長年働きづめだったが、読み書きが必要な事務仕事は避け、喫茶店や弁当店などでの

職を探した。50歳を超えたある日、夜間中学を取り上げたテレビ番組を見た。年齢に

関係なく学ぶ人たちの姿に、「私も人生を取り戻す」と心に決めた。あこがれ続け、あ

きらめかけていた「学校」に入学できたのは、定年を迎えた後の61歳のときだった。

 定期券購入に30分

 「忘れられない日」という4月19日を今年も迎えた。ちょうど16年前、夜間中学

に初めて足を踏み入れた日だ。ランドセルの代わりにリュックを背負い、毎日登校した

。年をとれば覚えるのも時間がかかる。長女の澄江さん(54)は「時間があればチラ

シの裏に文字を書き、夜中まで取りつかれたように勉強する母の姿」を幾度も目にした

。「負けん気の強い母です。本当につらい思いをしてきたんやろうな、と思いました」

 村上さんは、先生から日記を書くことを勧められた。最初の頃は「せっせと」を「せ

っいせと」と書く間違いや誤字、脱字などを赤ペンで直されることが多かったが、やが

てほとんどなくなった。「ミミズが這ったような字」もすっかり上達し、「人に自分の

思ったことを伝えられる楽しさ」も知った。

 今も鮮明に覚えている光景がある。初めて自分で定期券を購入したときのこと。申込

書にゆっくりと鉛筆で記入したが、文字は枠内におさまらない。何枚も書き直し、30

分かけて書き上げた。「その定期券で電車に乗ったときは、天下をとった気分でした」

 かつて流した「悔し涙はしょっぱかった」、文字を学び流した「うれし涙は甘かった

」と村上さんは言う。

 読み書きの先に

 読み書きができるようになると、街の看板も買い物のレシートさえも声に出して読み

たくなった。「新聞も主人の弁当箱を包むものでしたが、世界中で起きていることを伝

えてくれるものになりました」。入学して間もない頃に先生が黒板に書いた言葉を思い

出す。「文字とことばは人間のいのち」-。「その通りです。夜間中学は、読み書きが

できることの先にあるものを教えてくれました」

 小さいときから「人は怖いもの」と思って生きてきた。「死ねないから生きているだ

け」だった。つらいことがあっても歯を食いしばって生きてきたせいか、楽しさも感じ

なかった。学校に通うようになると、物事に感動して涙が出るようになった。心を開き

、本音で、自分の言葉で語れるようになった。それが何よりうれしい。だから、戦争や

貧困などで学びを奪われた数多くの人たちに「勇気を出して一歩を踏み出して」と呼び

かける。

 学ぶ喜びをかみしめながら西野分校で3年を過ごし、進学した定時制兵庫県湊川

高校(神戸市)も4年で卒業した。それから10年近くたった今も同高校内や民間の識

字教室に通う。「せっかく覚えた文字で、自分の思いを伝えられる喜びを忘れないため

に勉強を続けたい」

 5歳のときに両親が離婚。一緒に暮らす母親が脳梗塞を発症したのは7歳のときだっ

た。目の前で母親が倒れたことはおぼろげに覚えている。点滴を受ける母親の通院に付

き添ったが、病状は次第に悪化し、寝たきりに。母親の介助に料理などの家事手伝い。

働き手のいない家計は苦しく、登校できなくなった。「外にはおつかいで出かける程度

。相談できる相手もいませんでした」

 家では、かつて塾講師をしていた母親に算数を教わった。漢字は辞書で勉強し、覚え

るためにその字を織り込んで詩を書いた。自分を一番表現できるのが詩だという。だが

、将来のことを考えると不安がふくらみ、胃がキリキリ痛んだ。

 15歳のある日、おつかいの帰り道で一枚のポスターが目に入る。夜間中学生の募集

だった。「どんな学校なのか分かっていませんでしたが、私も通えるのかな、ここで学

びたいな、と心から思いました」。山崎さんが登校できない状況を気にかけていた母親

も「夜間中学に行かなあかんなぁ」と言った。

 それから3年。平成26年4月中旬、母親が亡くなった。その十日後、山崎さんは夜

間中学の門をくぐった。「もし母がいたら通えていたか…。いないから通えている。考

えると苦しくなる」。だが母親が口にした言葉があるから、今日も学校に行こうと思え

る。

 質問の嵐

 学校に通えなくなった山崎さんは住民票を移さずに転居していたため、学籍は除籍さ

れ、住民票も抹消されていた。夜間中学への入学手続きをとる際に分かったことだ。

68歳で入学「人生変わった」 夜間中学の歩み一冊に

https://www.asahi.com/articles/ASM4T5CPVM4TPTIL00Z.html