令和に寄せて/・「桜井よしこ

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 時折雨交じりの雲間の統治です。

 令和の時代は祝賀ムードいっぱいの船出となりました。

 昭和がだんだん遠のく時代、あの焦土に化した原爆

多くの命を 瞬時にして奪った原爆

なぜに広島、長崎に原爆投下がなされたのか…?

敗戦の時代あればこその日本の姿はもはや

あの配線体験者はいなくなります。

歴史としての時代になってしまいましたが

 新天皇へのアンケートにおいても平成天皇が気付かれた

被災者支援と戦没者の慰霊を望んでいます。

だが、新天皇にはグローバルな社会変動に向き合った象徴としての

お姿も期待したいものです。

 それにしても万葉の言葉が紡ぎだす豊かさと

美しさにはうっとりさせられます。

 多くの借金を令和の孫たちに背負わせている財政再建

いまだベールの中に閉じ込め、気が付けば… …?

なんてことも覚悟がいる時代でもあります。

命が尊ばれなくなる時代の始まりかもしれない!

景気の実感が伴わなかった平静であったからこそ

令和の期待が膨らみすぎているのかもしれません。

令和は、軌道修正の時代なのではないだろうか?

   産経よりの引用。

【令和に寄せて】麗しき大和の国柄を守れ 櫻井よしこ・国家問題研究所理事長

 日本よ、麗しき善き大和の国であれとの願いを込めた「令和」の時代が始まった。十七条憲法の精神を引き継ぐとされる元号、令和の時代の課題は聖徳太子が脱中華と大和の国造りを目指したように、日本の国柄を誇りをもって定着させることである。

 平成の御代には多くのことが成された一方、積み残しの課題も多い。その筆頭が日本の国柄とはおよそゆかりのない現行憲法の改正である。

 敗戦当時、内外の視線は昭和天皇に厳しかった。戦勝国では「天皇戦犯論」「天皇処刑論」が展開された。先人たちはそれら敵意溢(あふ)れる糾弾から、皇室を戴(いただ)く日本の国柄を守り日本国として生きのびるために、現行憲法をはじめ占領軍による理不尽な制度改革を、棒を呑(の)み込む覚悟で受け入れた。

 マッカーサー司令部は昭和天皇を温存し、占領政策を円滑に進めたが、背後では日本の国柄を潰す試みがなされていた。情報は厳しく統制され、国民は米国の支配を善きものと歓迎し、民主主義などは米国がもたらしたと思い込み始めた。そのとき、昭和天皇詔勅を発せられた。

 昭和21年1月1日の詔勅の冒頭に、昭和天皇明治天皇の「五箇条の御誓文」全文を置かれた。後にこの御心について語っている。

 「民主主義を採用したのは、明治大帝の思召しである。(中略)『(民主主義を体現する)五箇条御誓文』を発して、それがもとになって明治憲法ができた。民主主義というものは決して輸入のものではないということを示す必要が大いにあった」

 政府や国民が涙をのんで日本の国柄とは言えない米国製憲法を受け入れたのは皇室と国柄を守るためだった。にもかかわらず、国民が日本の国柄を忘れるのは本末転倒だというお気持ちであろう。占領下でこの重要な詔勅を出された昭和天皇は立派な帝王学を身につけていらした方だ。 

 昭和天皇はどのように帝王学を学ばれたのか。東宮御学問所には全分野にわたる碩学(せきがく)が集められ、白鳥庫吉(くらきち)博士が教務全般の主任を務めた。皇統の継承者にとって不可欠の学問である歴史は、白鳥博士が7年間一人で受け持ち、国史東洋史西洋史のうち、国史東洋史の教科書は博士自ら執筆した。『昭和天皇の教科書 国史』がそれで、見事な歴史書である。優れた教育、深い歴史観を身につけられた昭和天皇にして、初めて日本はあの敗戦を乗り切れた。

 だが、国柄を忘れてはならないとの昭和天皇の国民への語りかけとは反対に、米国は教育を通して日本人に影響を及ぼし続けた。米国の情報操作の苛烈さはここではおくが、米国は天皇となる東宮さま(現在の上皇さま)の家庭教師にクエーカー教徒のバイニング夫人をつけた。夫人は著書『皇太子の窓』に、「1946年の春」、昭和天皇が「アメリカ人の家庭教師を一人世話してもらえるだろうか」と米側に依頼されたとし、「アメリカ人の家庭教師は占領軍から押しつけられた」との推測は事実に反すると書いている。

 一方、マッカーサーの軍事秘書、フェラーズは46年1月、吉田茂外相に「皇太子は西洋の思想と習慣を学び始めるべき」として「円熟したアメリカ人女性を」家庭教師につけるよう提案した(瀬畑源〈せばた・はじめ〉『象徴天皇制の形成過程-宮内庁とマスメディアの関係を中心に』一橋大学機関リポジトリ)。これは天皇のご依頼の約2カ月前だ。背後に米国の意図が見えないか。

 昭和天皇が民主主義は外来の価値観ではなく日本の価値観であることに想いをいたせと詔勅で仰るかたわら、バイニング夫人は「英語を教えるということは(中略)アメリカ的な民主主義の思想と実践とを、皇太子殿下その他の生徒達に教えるという、さらに大きな仕事の方便にすぎない」と考えていた(前掲書)。このせめぎ合いの中で若き日の上皇さまは教育された。天皇としてのお姿が、昭和天皇と比べて自ずと異なるのにはこうした要素もあるだろう。

 では新たに即位した天皇陛下の受けられた教育はどうか。学習院には帝王学の発想もなく、ご学友もいないと学習院大学の教授だった篠沢秀夫は書いている(『だから皇室は大切なのです』草思社)。

 『浩宮感情教育』(飛鳥新社)の著者、小坂部元秀氏は陛下が学習院高等科にご在籍当時、クラス担任を2年間務めた。皇室関係の在学生名が大書されている学習院父母会名簿の最初のページを学生が「破り棄て」るはなしが、小坂部氏の著書の「序章」に出てくるのだが、小坂部氏はその行為をもっともだと認めているかのようだ。別の章で小坂部氏は南原繁の国会演説を「記念碑的」と評価し、「所詮は天皇陛下なんてどうでもいい」と書いた詩人の三好達治や、中野重治らを賛美している。

 当時の浩宮親王殿下に小坂部氏が担任教師としての愛情や情熱を注いでいたとは考えにくく、陛下にとって学習院の教育環境は実に冷淡だったと推測できる。

 こんな状況に皇族方を放置して、私たちに立派な天皇像を望む資格があるのか。帝王学や皇室は、国民から遊離したものではない。国民が望む天皇像は、国民がどのような価値観を重視し、どれほどの敬愛をもって皇室を支えるかという命題と背中合わせだ。令和の皇室が日本の国柄を尊び、国民統合の中心となるには、新天皇の大いなる学びをあらゆる面で支える制度と心が、政府、国民の側にも必要だ。共に立派な国を創るという覚悟をもって初めてもうひとつの課題の憲法改正も可能になる。

 災害支援のボランティアの150名の皆様の

長きにわたるお気持ちに真備町は大きな力をいただいております。

本当に長きにわたるご支援に感謝あるのみです。