新千円札、北里柴三郎。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 千円札は一番身近に感じるおさつでもあります。

 お札は20年に一度をめどに刷新されるようです。

、千円札には、「近代日本医学の父」と言われる北里柴三郎氏が採用される予定だとい

う。裏面には、富嶽三十六景の「神奈川沖浪裏」を採用する。

 北里の少年期に興味をひかれたみこちゃんでした!

主な業績 破傷風菌純粋培養

血清療法の発見

ジフテリア破傷風の毒素に対する抗血清開発

ジフテリア抗血清の製造開発

腺ペストの病原菌共同発見

プロジェクト:人物伝

北里 柴三郎(きた「さ」と しばさぶろう[1]、1853年1月29日(嘉永5年12月20日) - 1

931年(昭和6年)6月13日)は、日本の医学者・細菌学者である。貴族院議員・従二位・

勲一等・男爵・医学博士。 

彼の幼い頃の姿といえば、暇さえあれば喧嘩に役だつ撃剣(げきけん)の稽古(けいこ

)に励むといったふうで、まさに近所のガキ大将だったのでした。 

 北里柴三郎が生まれた家というのは、現在の熊本県にあたる肥後国(ひごのくに)阿

蘇郡小国郷(おくにごう)北里村にあって、代々庄屋の役をついでいた古い家柄でした

 柴三郎がこの家で北里惟信(これのぶ)、貞子(さだこ)夫婦の長男と

して生まれたのは嘉永五年(一八五二)十二月二十日です。

 徳川幕府から明治政府に政権がうつったのが慶応三年(一八六七)です

から、幕末のあの大動乱で世の中が上を下への大騒ぎだった時期はちょうど彼の幼年期

から少年期へかけての頃であったことがわかります。

 彼の両親はこの時勢の移り変りをまのあたりにして、どん何かわが子の

行く末を案じたことでしょう。

 わけても彼の母親は江戸の生まれで、十才ちかくまでそこで育てられた

だけでなく、幼い頃から読書が何より好きであったというふうでしたから、これからの

世の中に生きていくのにはどうあらねばならないかを、とうに見通していたに違いあり

ません。

熊本県北里柴三郎の生家――庄屋の家柄

 その上さらに興味ぶかいのは、彼女はただ単に学問好きの娘というだけではなかった

ことです。

 柴三郎の母、貞子は久留島(くるしま)藩の江戸詰用人(地方大名の江戸屋敷

で、老臣を助けて一切を取り仕切る人)であった加藤海助という人の二女として江戸で

生まれたのですが、父からは、

 「なんでおまえは、男に生まれてこなかったのだ。」

といつも残念がられたほど、男まさりのところがありました。

 男の子と争っても、かつて一度もひけをとったことがなく、常に堂々とこれに

立ち向かうという、キリッとしたところがある娘でした。

 この気性は彼女が北里家へ嫁にきてからでも、少しもそこなわれずに続きまし

たので、家事のこまごましたことから、子供の養育、さては庄屋の仕事にいたるまでの

一切が彼女の手にまかされながら、これを立派にさばいていくことができたのです。

 のちになって、「柴三郎の負け嫌いは母方の血筋をひいたのだろう。」

と誰もが言うようになったのも無理はありません。

 ところでこういう気性の母親なので、日増しにつのるわが子のガキ大将ぶりも

、まんざらわからないことではなかったのですが、これからの世の中のことを考えれば

 「この子には何としてでも、学問を身につけさせてやらねばならない。」

と心に固く誓わないわけにはいきませんでした。

 そこで柴三郎は寺小屋に通わせられたり、母方の祖父の家にあずけられ、園田

(そのだ)という国学者のもとで勉強させられたりしましたが、一向にそのききめがあ

りません。

 それどころかかえってその頃になると、柴三郎の望みは武士になりたいの一心

にこり固まってしまいます。

 そしてとうとうお爺さんの家にもいられなくなって、両親の家に帰ってきたの

が慶応二年の十二月のことで、彼は十四才になっていました。

 しかし彼はそのまま家にいつこうなどとは少しも考えず、そのあくる日、今度

は六十キロの山道を、熊本に向けて出発します。

 ここには時習館という武芸を身につけるための藩の学校があり、彼はそこへ入

学して大いに武芸の腕をみがこうと考えたからでした。

 熊本についた柴三郎はけじめ一、二の私塾をわたり歩き、いよいよ待望の時習

館にはいったのは三年ばかりたったのは明治二年のことです。

 けれどもその頃はすでに徳川幕府はたおれ、明治新政府の時代にかわっており

、幕府時代の藩制度は廃止されて、県制度にあらためられました。

 その影響をうけて、藩の学校だった時習館もその翌年の明治三年七月には、廃

校とたってしまいました。

 これではいくら柴三郎一人で力(りき)んでみても、どうにもなりません。

 すでに十八才の青年になっていた彼はやむなく郷里の北里村にひとまず帰るこ

とにしました。

 そしてしばらく家でブラブラしていると、彼にとってはまことにとび立つ思い

の便りが伝わってきました。

 それによれば明治政府は、将来国を背負って立つ軍人を養成するために、大阪

兵学寮を設け、旧藩から成績のよい子弟を募集しているというのです。

 彼の心はたちまちふるい立ちます。そしてある日のこと、彼は思いきって両親

にこの話をもち出しました。

 ところが父親からは、あっさりとはねつけられてしまいました。

 「おまえは北里家の長男であるから、祖先伝来の田畑をまもりこの家をついで

もらわねば困る。

 幸いちかく熊本の殿様のお考えで、西洋医学の学校が開かれるそうだから、勉

強したければそこへ行け。

 そして、将来は医者になれ。

 これからは学問で身を立てる時代で、血なまぐさい戦ごとはもうごめんをこう

なりたいのだ。」

 彼はこの時、できることならこう答えたかったのが本心であったと、後になっ

ていっています。

 「医者と坊主は手足をそなえた一人前の人間のなすべきわざではありません。

 柴三郎、この世に生をうけてより、志(こころざし)は天下国家にあるのです

 私はそのためにこそ、ひたすら武をねり、文を学んで今日にいたりました。

 なんでいまさらぺんぺんと本読みの連中になど加われましょうや。」

 つまりふぬけのような医者と坊主の仲間入りはまっぴらごめんです。

 男子一生の仕事としてもっと国のために役立つやりがいのある仕事をしたいと

いう、この気持ちをわかってください――

こういいたかったのでしょう。

 立身出世が何より大切な心がけで、男子なら大臣大将を夢みるのが当時の世間

一般の考え方であったことからすれば、これも当り前だったかもしれません。

 けれども彼はいいそびれてしまいました。 

熊本医学校時代。中央がオランダ人のマンスフェルト先生。その右斜め上が北里。

彼は医者が嫌いであったが、オランダ語の才能があったので、先生から認

められ補佐役になった。

 そして結局は父にいわれた通り、明治四年二月熊本医学校が開かれると同時に、ここ

へ入学しました。

 しかし心の中では 

 「医学校へ入ったからといって、何も医者にならねばならぬという理屈はある

まい。

文明開化はすべて蘭学(オランダの学問)がもとになる。

 このさいはひとまず蘭学の勉強に精をだし、おもむろにチャンスをねらうとい

う手もあるのだ。」

と、決め込んでいたのでした。

 いかにも彼らしい思いつきです。元々彼の医者嫌いには、彼には彼なりの理屈

があったのです。

 「武芸の道でなら一生懸命にやりさえすれば、その報いはてきめんに現われる

からやりがいがある。

 ところが医者では一つとしてこちらの目論見(もくろみ)通りになることはな

いではないか。

 それにいくら勉強しろといわれたところで、実際にもその通りなのかどうかが

わからぬことを、どれほど頭につめこんでみても、それが一体何の役にたつというのだ

。」

 確かにその頃のだよりない医者のお手並みは薮井竹庵(やぶいちくあん)とい

う言葉が流行したことからもわかるように、誰の目にもハッキリしていたのです。

 彼が坊主はともかくとして「医者などまっぴらごめん」と思いこんだのも無理

はありません。

 彼のこうした医者嫌いは熊本医学校へ入学したからといって、にわかに変るわ

けもありませんでした。

 それでも彼は初めの目論見通り、オランダ語の勉強だけは一生懸命に続けまし

た。

 そしてこの勉強は将来への道は違ってしまったとはいえ、その門出としては予

想通りのまことにやりがいのある第一の仕事となったのであります。

 というりもこの学校では別にきめられた教科書というものがあったわけではな

くて、まずオランダ人の先生がしゃべる言葉は脇にひかえている助教の口から日本語で

生徒に伝えられ、生徒はこれを筆記し、わからないところはまた通訳づきで先生に言い

直してもらい、そしてこれをまとめて教科書がわりに使うというやり方で、授業が行な

われていたのです。

 だからオランダ語が上手でありさえすれば、そのほかのことはどんなに不勉強

でも、その生徒は先生の目にとまらないはずはありません。

 事実、柴三郎もその通りになりました。

 当時の先生はマンスフェルトというオランダの軍医でしたが、柴三郎は入学後

二年とたたないうちに、早くもこの先生のお眼鏡にかなって助教にしてもらい、先生の

補佐役を勤めるほどになったのでした。

 ただマンスフェルトにとって、何としてもうなすげなかったのは、

 「これほどの才能がありながら、この北里という青年はどうして医学を本気に

なって勉強しようとしないのか。」

としうことでした。それである日、マンスフェルトが柴三郎に、

 「一体君は本心から医者になるつもりで勉強しているのか、どうなのだ?」

と、きいてみました。

 柴三郎の答えは例によって、自分の知っているかぎりでの医者稼業の情けなさ

から、医者はまっぴらごめん、オランダ語をならうのは文明開化の担(にな)い手とな

るための手段なのだ、というものでした。

 マンスフェルトはこれをきいて、

 「なるほど、そういう考え方であったのか。」

と一応は納得がいきました。

 しかし、マンスフェルトはすぐ気がつきました。

 「この青年の医者嫌いはただの勉強嫌いからきているのではない。何をどう学

ばせるか、これが問題なのだ。」

 つまり、導き方一つだというわけです。

 マンスフィールトは、これは見込みがあるぞと思いました。

 何故なら柴三郎が一人ぎめに「つまらんものだ」と決め込んでいた当時の日本

の医学の中味は、実は医学全体からみれば、大きな氷山の一角にしかすぎないものだと

いうことをよく知っていたからです。

 そこで彼はあらためて医学の勉強とはどういうものかについて、柴三郎にじゅ

んじゅんと説いてきかせたのであります。

 このとき普通伝えられているところによりますと、マンスフェルトはただ、

 「医学というものはけっして無用の学問ではない。」

と諭(さと)しただけのようになっていますが、はたしてそれだけだったのでし

ょうか。

 いや、そんなことは到底信じられません。

 なにしろ医者になることをあんなに嫌っていた柴三郎が、その後手のひらを返

すように変ってしまったというのですから。 その感化がどれほど大きなものであった

か、およそ見当がつきます。

 ただありきたりの説得だけでは これ程の変化は生まれるはずがありません。

 それにもまして見逃せないのは、柴三郎がマンスフェルトの教えをどういうふ

うに受けとめたかということです。

 彼はきっと先生の教えを次のような形にまとめて、その胸にしっかりとたたみ

込んだのではなかったでしょうか。

 「医者になるための勉強は、病人に薬を盛ってやったり、けが人の手当をして

やったりするのに必要な、内科や外科だけではない。

 ――そのほかに一人前の医者として、ぜひとも知っておかなければならない事

柄はいくらでもある。

 ――なかでも体の仕組みや働きがどうなっているか、そして病気になるとそれ

らがどのように変っていくのかということを、専門に勉強する解剖学、生理学、病理学

の三つは、人間が一生かかってもやりつくせないほど奥行きが深く、また面白い学問で

ある。

 ――しかもこれこそが西洋医学の一人舞台なのだ。」

といったようなことです。

 さてこうなってくると、彼の勉強ぶりにも変化が生じたのは当り前です。

 そしてそれまで見向きもしなかった実習の時間などにも、よく出るようになり

ました。

 ところがどうでしょう。彼がこうして初めはほんの好奇心から手を出したもの

が、やがてはその生涯を決めてしまうほどのきっかけになったとは!

 人の一生の分かれ道には間々、こうしたことがあるものです。

 彼がほんの好奇心から手を出したもの、それは「顕微鏡でものをみる」という

ことでした。

 顕微鏡といえばその当時では、日本人の誰もが見たこともなかっためずらしい

器械でした。

 そして実習のなかでも一番大切だったのは顕微鏡を使って、これまた日本人が

やったことも見たこともなかった方法でつくられた、人体の組織標本を調べる手ほどき

だったのです。

 柴三郎にとって、これは生まれて初めての経験でした。そればかりではありま

せん。

 いざやってみてさらに驚いたのは、その目新しさ見事さが、意外にも彼の心を

すっかりとらえてしまったことです。

 「論より証拠」とはよくいったもので、現にまのあたりにした事実の偉力とい

うものは、百の説法にもまさったききめがありました。

 ここで初めて柴三郎の頭のどこかにまだこびりついていた、片寄った考え方は

根こそぎ覆(くつが)えされてしまいました。

 そして彼は、かねてからマンスフェルト先生がいわれていた通り、

 「この仕事は男子一生!」

と、身にしみて感じるようになったのであります。

 それからの北里柴三郎はもはや、かっての大臣大将を夢みていた北里柴三郎

はありませんでした。

 めざす未来への道がきまった以上、あとはただ一筋にこの道を行けるところま

で前進するだけです。

 「だが、もっと先に進むには?」

 もうその頃には東京にも西洋医学を教える立派な学校がありましたので、生徒

の中にはさっさと上京してしまった者もありました。

 北里もできることならこれにならいたかったのでしょうが、当時の北里家には

それだけのゆとりがありませんでした。

 そこで彼は引き続き昼間は助教を勤めながら学び、夜間はマンスフェルト先生

の官舎へ通って、特別教授を受けるということで我慢するより投がありませんでした。

 しかしまもなく、明治七年にはマンスフェルト先生の任期がきれて、熊本を去

らなければならないことになりました。

 その年の七月、いよいよ帰国することになったマンスフェルト先生は心を込め

て、

 「私がこれまで君に教えたところは医学のほんの入門にすぎない。

 この田舎で一生医者をやるつもりならこれで充分だろうが、このままで終わり

たくなかったら君はもっともっと勉強しなくてはいけない。

 そのためにはぜひとも東京へ、それからさらにヨーロッパヘ行くようにしなさ

い。」

と、いいました。

 そして、ヨーロッパ各国のすすんだ医学界のありさまを物語りながら、北里を

励ましました。

 柴三郎にしてみれば、かねてからこんな事をしていては置いて行かれてしまう

と気が気ではなかったので、すぐに上京の決心を固めたのはいうまでもありません。

 家が豊かではないので東京へ行ったからといって、家からの仕送りをあてにす

ることはできません。

 それでも彼の決心はくじけませんでした。

 苦学でも何でもする覚悟で、はるばる海をわたり、山をこえて東京へついたの

は、明治七年九月のことでした。

 それから半年ばかりの間、彼は郷里の先輩にあたる山田という人の家にやっか

いになり、いまでいうアルバイトをやってお金をつくったり、大学へ入る準備の勉強を

したりして、そのあくる年ようやく東京医学校に入学することができました。

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