見取り士もあるという!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 この桜時になると決まったように

「この桜、あと何度見られるだろう」と

桜をめでつつつぶやく人もあることでしょう…

 生ある限り、死のエンディングは必ず訪れます。

死の階段が迫り来た時、家族に囲まれ

旅立つことができたなら、人生さいこうのしあわせ!

人生の週末の大半が病院であることは統計が証明しています。

 寄り添われる中旅立てる人は年々少なくなっているともいえるのでは…

 機能不全家族で会ったり、アダルトチルドレン

子供たちの見取りは気持ちよく見取りに向き合えない関係も増えても来ました。

 みこちゃんは天涯孤独のお一人暮らし。

ただただひたすら願うことは

ご迷惑の少ない形でこの週末を迎えることができたならと

その身支度だけには心したいと静かなる思いの中で受け入れる準備だけには余念があり

ません。

そのためにも自分らしく生ききる生活にシフトしたいものです。

   東洋経済からの引用。

47歳の孫が祖母の看取りで見た「奇蹟的な最期」 -

祖母の危篤に父親は見舞いを拒んだ「あなたが、おばあちゃんのことを親同然だと思う

気持ちはよくわかる。だけど俺は正直言って、死んでもらってホッとするよ。だから、

おばあちゃんが危篤だと言われても病院に行くつもりはない」

受話器ごしに静かに、だが最後ははっきりと言い放った父親(76歳)の声に杉田香織(

仮名・47歳)は直感した。それはパパの本心だけど本心じゃない、と。2018年4月下旬の

ことだ。

こちら

だが、どんな経緯があろうと、祖母(94歳)の最期は父と娘で看取ってあげたいという

望みが打ち砕かれたことも、杉田は認めざるを得なかった。

父親への電話を切ると杉田は気持ちを切り換えて、日本看取り士会に祖母の看取りを依

頼した。小さいながらも会社を経営する杉田には、ためらっている余裕はなかったとい

う。

「経営者として日々の業務をこなしながら、危篤の祖母を毎日見舞うのは精神的にも、

肉体的にもギリギリの状態でした。家族を看取るのも初めてのことでしたし……」

日本看取り士会の存在を知り、祖母と自分の両方をケアして支えてくれる人たちだと思

ったと杉田は言い足した。

「祖母と私は親子同然の関係でしたから、祖母を失う私自身のメンタルケアもあわせて

お願いできる人は介護士でも、看護師でもなく、看取り士だろうと直感したんです。そ

れに、私自身の看取りはどうなるのかと考えると、その参考にもなるだろうという気持

ちもありました」

施設入所後の約10年間は元気だった祖母も、94歳の誕生日を境に急に弱っていった。緊

急入院することになった病名は、虚血性心不全動脈硬化などにより冠動脈が狭くなっ

たり閉塞したりして、心臓に血液を運べなくなる状態)。肺に水がたまり、ひどい呼吸

苦に繰り返し襲われていた。?

杉田は、日本看取り士会の柴田久美子会長の著書を参考に、祖母と呼吸を合わせて落ち

着かせようと、試行錯誤を繰り返した。看取り士が終末期の人に行い、家族にも勧める

「幸せに看取るための4つの作法」の1つだ。

「祖母がベッドから上半身を起こし、『ハァーハァーハァー』と肩で大きく息をするん

です。私が祖母を抱きしめながら、意識的にゆっくりと息をしていると、祖母の荒い呼

吸も次第に落ち着いてくる。それでベッドに横になると、また息苦しくて起き上がる。

その壮絶な反復に直面すると私も涙が溢れてきたり、吐き気も催したりして、ひどく消

耗させられました」

祖母と父親の間に生まれた葛藤

そもそも、杉田はなぜ祖母と親子同然で生きてこざるをえなかったのか。

杉田の両親は幼い頃に離婚。離婚後は父に引き取られたが、物心がつく前に地方で暮ら

す父方の祖父母に預けられた。父親が稼ぎ口を東京に求めたからだ。

幼少期はピアノや日本舞踊を習うなど裕福な暮らしだったが、杉田が7歳のときに祖父が

急逝すると生活は一変。父親からの仕送りも不安定で、杉田は中学校へ通うためのバス

代がなくて学校を休むことさえあった。

「でも祖母は、父への恨みつらみは一切口にしませんでした。一方で隣近所から3千円を

借りたら5千円を返す人でしたから、貧しい暮らしの中でも周りからの信頼と、自身の矜

持は失いませんでした」(杉田)

大正12年生まれで、戦争体験もある祖母は強かった。

東京で暮らす父親が一度、杉田を引き取りに来たことがある。祖母は隣近所の人たちを

集めて、父親を杉田に会わせずに追い返した。その時は自分の存在がすでに祖母の生き

る糧になっていたのかもしれない、と杉田は回想する。

「後で知ったことですが、父親は子どもの頃に母方の本家に養子に出されたことがあり

、寂しい思いをしたようです。追い返されて以降、父親と祖母の関係は疎遠なものにな

っていきました」

裏を返せば、それが杉田と祖母が親子同然で生きてきた理由。実母の行方が長らくわか

らなかったせいもある。

緊急入院後の祖母の話に戻す。呼吸苦を抑えるために医療用麻薬モルヒネが投与される

と、祖母の意識はときおり遠のくようになる。

「それでも祖母は浴衣の襟元や裾をこまめに整えたり、医師に気づくと目を閉じたまま

両手を1cmほど上げて、感謝の気持ちを表す両手握手を求めたりするのを止めませんでし

た。その姿には圧倒されましたね」(杉田)

祖母は、杉田が子ともの頃から身繕いをつねに整えることと、周りへの感謝を忘れない

ことを、口を酸っぱくして説き続けたからだ。

祖母は約10年間過ごした施設でもつねにニコニコしていて、相手の反応の有無に関わら

ず、朝は自ら「おはようございます」と周りに声をかけ、胸元に手作りの花のコサージ

ュをつけたり、杉田の心配をよそに、90歳を越えても少しヒールのある靴を履き続けた

りしていた。

死を前にして表れるのが本人の本質だとすれば、無意識であっても祖母の言動一致ぶり

に杉田は鬼気迫るものを感じたという。

また、杉田が改めて気づいたのは、身繕いやあいさつに気を配るという祖母の教えは、

自分の事業ともつながっていること。

ベンチャー企業での秘書から始まった私のビジネスキャリアの延長線上で、ビジネス

マナーやマネジメント研修に特化した会社を立ち上げたつもりでした。ですが、実は祖

母が私に繰り返し教え込んでくれたものが事業の核になっているな、と。そういう意味

では、祖母のためにも、この事業を成功させたいという思いを新たにしました」

一方で、病院での鬼気迫る姿を見せつけられて、祖母がその体を張って「死に方とは生

き方だ」と自分に見せてくれている気もしたという。

「『私の最期の姿を見たでしょう??じゃあ、あなたは自分の人生をどう生きていくつも

りなの?』 と祖母から問われているようで……。ずいぶん重たい宿題をもらった気分で

すが、それも祖母からの贈り物だと思っています」

杉田はそう言って口を固く閉じた。

看取り士が見せた「究極のホスピタリティ」

看取り士の清水直美(48歳)が病室を訪れたのは、2018年4月下旬の午後。記事冒頭の、

杉田からの面会依頼を父親が断った翌々日だった。個室のドアを開けると左中央の壁に

沿ってベッドが置かれ、その先に窓があった。

それまでの呼吸苦がウソみたいに、当日の祖母はとても穏やかに目を閉じていた。昏睡

状態にある祖母の耳元で杉田が話しかけた。

「おばあちゃん、お友達の清水さんだよ。かわいい人だね」

すると、祖母がウーッとうなるような声を出した。

「わかったのかなぁ」と杉田が言うと、清水が「(昏睡状態でも)耳は最期まで聞こえ

ていますから」と伝えると、杉田は「さすがだわ、おばあちゃん」と話してフフフッと

笑った。

その前日、祖母はせん妄(妄想や幻覚、記憶障害などのこと)状態で苦しんでおり、杉

田はそのことをつらく感じていた。

「だから清水さんが来たとき、私の心は軽かったんですよ。祖母が少しも苦しそうじゃ

なかったから。確かにグッタリとしていて、素人目にも死に向かっていることは実感し

ながらも、穏やかな表情に安心していました」

杉田がトイレから戻ったときのことだ。

「清水さんは黙って祖母の左手をゆっくりとさすって下さっていたんですね。少しきざ

な例えになりますが、その光景は私が通っていた中学校の礼拝堂で祈っているような、

そんな厳粛な空気感でした」

看取り士の寄り添いとはこれか、と杉田は感じ入った。接客などのビジネスマナー研修

も行う会社の経営者として、具体的にどう見えたのか。

「その場にすっと溶け込み、それでいて誰の邪魔も一切せずに、そこにただいられる技

術とでも言えばいいんですかね………」

杉田は少し言いよどんでから続けた。例えば、「〇〇さ?ん、お孫さんも心配されてここ

にいらっしゃいますよぉ」と、ビジネスライクな笑顔で、これ見よがしに話しかけるよ

うなことを清水はしなかった、と。

「逆に、祖母に触れる看取り士さんのひとなでに、少しでも恐れやためらいがあれば、

家族や本人も瞬時に見抜くはずです。でも、私の目には、清水さんからはそんな自我も

感じませんでした。祖母の傍らで『ただただ、そこにいる』寄り添い方に、究極のホス

ピタリティを見て感動しました」

「死は敗北ではなく人生の大切な締めくくり」

清水は心の中で、「私が来ることになるのでよろしくお願いします」と、杉田の祖母に

繰り返し伝えながら左腕をさすっていた、と後日語った。

「あの場面では、祖母さんへの杉田さんの声がけをより響かせることが重要で、私の声

を差しはさむ必要は一切ありませんでした。私の自我なんていらないんですよ。一般的

にはホスピタリティは、おもてなしなどを『与える』イメージが強いかもしれませんが

、看取り士の仕事は黒子役に徹して、旅立とうとする方や、ご家族の存在をこそ際立た

せることですから」

清水はもともと看護師として働いていた。その頃、患者を治療することが目的の病院で

は「死は敗北」だった。患者を救えなかった結果だからだ。

だから呼吸合わせ1つとっても、看護師と看取り士ではまるで違う。

「看護師の呼吸合わせは、まだ治る見込みがある患者さんだけが対象でした。呼吸が荒

い相手に顔を近づけて、意識的にゆっくりとした深呼吸を繰り返しながら、相手の呼吸

を正常なペースに誘導するためです」(清水)

一方、多くの高齢者をその胸に抱いて看取る中で、日本看取り士会の柴田会長が編み出

した呼吸法は違う。逝く人の死への恐怖心を、呼吸を共有して生まれる安心感で包み込

むためのものです、と清水は説明した。

「看取り士にとって、『死は人生の大切な締めくくり』だからです。そこが『死は敗北

』という病院の死生観との決定的な違いです」

清水が看護師から看取り士に転身したいちばんの理由だった。

清水が訪問した日の午後、杉田はもう1人の見舞客を待っていた。当日午前中に父親から

「行きます」とメールが届いていたからだ。2日前の電話で「死んでもらってホッとする

」と、見舞いを断ったばかりだった。

清水が入室して1時間ほど過ぎた頃、バツの悪そうな表情で父親が現われた。誰とも目を

合わせず、祖母の顔を一瞬覗き込むような仕草をした後、ベッドを通り過ぎて窓際にあ

るソファに腰を下ろした。もしも祖母が目を開いても、その視界には入らない位置だっ

た。

杉田が清水を、祖母が長年お世話になった施設の職員だと紹介すると、父親は「ありが

とうございます」と言い、頭を下げた。その後、「よく眠っているじゃないか」と、視

線を合わせずに杉田に声をかけた。

「人は死ぬ時を自分で選んで旅立つ」

しばらくの沈黙の後、清水が父親に、「お母様にお手を触れられませんか。手から触れ

て下さると、ご本人はとても安心されますから」と尋ねると、父親は「いやいや、いい

ですよ」と即答した。清水は自分がいると家族だけの時間がつくれないと考え、今日は

これで退室すると杉田に伝えた。

「入院で大変だったな」

清水を見送って戻ってきた杉田に、父親は場を持て余すように言った。

杉田は「ううん」と答えた後、心の中で自分にこう言い聞かせていた。

「……この会話は祖母に全部聞こえている。3人で話す最後の機会になるかもしれない。

だから、楽しい会話を祖母に聞かせた方がいい」

父親が再び、「お前、仕事はどうしてるんだ」と口を開いた。

「ちゃんとやってるよ」

「ご主人には迷惑かけてないか」

「うん、それも大丈夫よ」

「でも、お前は、おばあちゃんの面倒を本当によく見てるよ」

「今度のことは後で本にでも書いて、私がごっそり儲けるからさ」

それは杉田の事業が成功することを強く願ってくれていた祖母へ向けた軽口で、杉田は

微笑んでみせた。すると、父親が「じゃあ、そろそろ帰るわ」と言って腰を上げた。来

てからまだ30分ほどだった。

そのとき父親はベッド脇で祖母の体をさすっていた杉田にまっすぐに近寄ってきて、そ

の右手を祖母の額に近づけ、触るか触らないかの微妙な間合いですっとなでた。

「私はほぼ正面で父の顔を見ていましたけど、口角はしっかり上がっていて、祖母を見

る目はとても優しかった。だけど、その触るか触らないかの父の右手がとても象徴的で

した。触りたいんだけど、触れない。祖母との長い間の葛藤をぎゅっと凝縮したような

場面でしたから」(杉田)

結局、祖母は父親の面会から約7時間後に逝くことになる。

「でも、祖母はうれしかったはずです、ずっと会いたがっていたと思うから。やっぱり

パパのことを待ってたんだって、私、直感しました。柴田さんの本にもあったように、

人は死ぬときを自分で選んで旅立つんだって」

杉田は晴れやかな顔つきでそう結んだ。

(=文中敬称略=)