レイプ被害者の人生。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 私は世の中の最高の不公社!

どれだけ神様のいたずらを 呪って生きたかしれません。

 人生のブラックフォールは、それぞれ形、内容、その質その姿は

変わっていても呪うかのように立ちはだかり張り付いて

離れようとはしない、それはフラッシュバックであったり

トラウマであったりと人生のテーマもその悲しみまでも計り知れない?

 これはどこかで受け入れ、自らの一歩のスタートしかないのだと

その時の経過とともに

人生の再スタートのページは

気が付けばめくられている。  それがじんせいかもしれない!

  東洋経済より

傷ついた側と傷つけた側に向き合う彼女の覚悟 -

写真家のにのみやさをりさん。彼女の自宅にお邪魔すると、昼食を用意して待っていて

くれた。きんぴらごぼう、水菜の白和え、エノキのベーコン巻き、昆布のおにぎり。う

れしくなって思わず「料理、好きなんですか?」と聞くと、こんな答えが返ってきた。

こちら

「子どもの頃から料理するのが当たり前だったから。でもPTSD(心的外傷後ストレス障

害)で味覚がなくなっちゃったから、よく子どもから『味がない!』って言われて困っ

たよ」

幼少時の最初の記憶は「愛されるには資格がいる」と思ったことだったという。厳格な

両親の期待に応えようと弟の面倒を見て、家事を手伝った。勉強も頑張って親の望む私

立の進学校に入学したが、それでも認められている実感は持てなかった。

ある日、世界がモノクロになった

大学卒業後、「これ以上、親の元にいては死んでしまう」と思い、家を出た。大好きな

本に関わる仕事をしたいと出版社に就職。書店や画廊営業、編集業務をしていた入社1年

目に事件が起こった。1995年1月。信頼していた上司からのレイプ被害だった。

被害を話すと、最初は社内で多少の理解を得られた。「本当なら新人の君に辞めてもら

わないといけないんだけど」と言われ、刑事事件での立件はかなわなかったものの、上

司は退職することに。しかしその後、噂が流れた。

「彼女がその気にさせたのだろう。彼も気の毒に」

それでもしばらくは仕事を続けた。そうする以外の道が見えなかったからだ。「私なら

大丈夫」、そう自分に言い聞かせていたある日、突然、世界がモノクロになった。

「信号の青と赤がわからなくなって、そのうちに匂いも味も感じられなくなりました。

友達が心配して精神科に連れて行ってくれたけれど、予約の手違いで、『今日じゃなく

て、昨日受診の予定でしたよ』と言われて。

それでパニックになって病院を飛び出しちゃったんです。睡眠剤をたくさん飲んでいた

こともあって、『私は病院を受診することもできないんだ』と思ってしまって」

追いかけてきた友人と一緒に病院に戻ると、ちょうど居合わせた女性の医師が「空きが

あるから診てあげる」と言ってくれた。診察室でも倒れてしまったが、倒れる直前に聞

いたのは「私はあなたの話が聞きたいのよ」という医師の声。そんなことを言われたの

は初めてだった。結局、その医師の元に10年以上通うことになった。

少しよくなったと思えば、またフラッシュバックが起こる。何年もそれを繰り返した。

人との出会いもさまざまだった。友人が去っていくこともあれば、突然、理解者が現れ

ることも。

民事訴訟が和解となったとき、勝訴するつもりだった父は「お前の真実なんて意味がな

い」と言い放ち、それから数年、実家とは連絡を取らなかった。一方で、転職した会社

の上司は事情を察して「ツラいときは休みなさい」と言ってくれた。後になって、彼の

身近な人も性被害に遭っていたことを知った。

事件のあった1995年1月は阪神淡路大震災が発生し、にのみやさんも友人が行方不明にな

った。3月には地下鉄サリン事件。大きな事件が続く中で、「亡くなった人には本当に申

し訳ないけれど、どうして私が死ななかったのだろう」と何度も考えた。

「写真」と出会えた1997年

自殺未遂を繰り返し、リストカットの痕は今も残る。1998年の夏には、日本海に飛び込

んだことも。台風が本州を縦断するニュースを見て、発作的に新潟まで行った。荒れた

海に飛び込めば死ねると思ったからだ。

台風はそれたが、それでも海に入った。でも、体は沈んでいかなかった。

「そのときの経験は、してよかったと思っています。何をやっても死ねないんだってい

う諦め、というか開き直り。その後もリストカットが止まらなかったけれど、リストカ

ットをしても『生きなきゃ』とは思っていた」

写真を始めたのは事件から2年後、1997年の頃だ。世界がモノクロに見えると言っても、

人に伝わらない。言っても苦笑いされるだけで、相手にされない。

偶然手にとった美術書を開いたとき、「写真という手があるじゃないか」とひらめいた

。モノクロ写真に焼いて見せたら、自分の見ている世界が伝わるかもしれない。簡易暗

室セットを友人に買ってきてもらい、使い方を聞くそばから写真を撮って現像した。像

が印画紙の上に浮かび上がってくる。それを見て、気持ちがすーっと落ち着いていくの

を感じた。

最初に撮ったのは、自分の手や足。手足がまるで自分のものではないように感じていた

から。撮ってみたら、写真の中の手足は自分のものだと思えるようになった。パニック

が起きそうになるたびに、暗室にした風呂場にこもって朝まで写真を焼いた。

2001年から、年に一度のペースで喫茶店で小さな個展を開くようになった。「地平」「

虚影」「降り積もる記憶」「鎮魂景」「幻霧景」「あの場所から」。

作品集にはそんなタイトルがつけられている。モノクロで、ざらりとした質感。砂丘

海辺の風景。そして人。それがにのみやさんの写真だ。

「今は、そのときを信じて、待とうよ」

事件から12年後の2007年からは、性犯罪被害者たちの写真を撮り始めた。きっかけは、

当時人気だったSNSmixiだった。PTSDを抱えている人たちが集うコミュニティで、発言

した。

当時のことを、にのみやさんは「とてつもなく孤独だったのだと思う」と振り返る。

「誰かとつながりたくて、でも誰とでもつながれるわけじゃないことは百も承知だった

。被害者とだったらつながれるかもと思って、被害者と会って話を聞いて、写真に撮る

ことを始めました」

北から南まで、いろいろな場所で暮らす人と会った。カメラの前に立ったのは約10人。

「姉さん」と呼ばれ、慕われた。

彼女たちとのメールのやり取りを、写文集『声を聴かせて?性犯罪被害と共に、』(窓社

)にまとめた。この中で、にのみやさんは被害に遭った女性にこんなふうに語りかけて

いる。

(略)

今一致して感じられないことを、責めたりしたらだめだよ。責める必要なんてないんだ

よ。それは、或る意味、当然の症状なのだから。そうなって当然の体験を、私たちは経

てしまったのだから。

にのみやさんは言う。

「人の間にいてこそ人間だけど、PTSDやトラウマを抱えると人の間にいられなくなる。

再生すると思っている人が多いですけど、同じ場所からのやり直しはきかないし、元に

は戻れない。新たに構築するんです。それをもっといろんな人に想像してほしい」

カウンセラーの勉強をし、被害者からの相談電話や相談メールの窓口を開設していたこ

ともある。けれど、始めてから5年経った2012年を区切りに、いったん交流をやめた。き

っかけは、以前カメラの前に立った女性から言われた言葉だった。

「姉さんはもう、被害者じゃない。加害者だ」「姉さんは再婚もして妊娠もして、私た

ちが持てないものを全部持ってるじゃない」

きれいごとではすまない現実

にのみやさんは2000年に結婚し、長女を出産している。その後、離婚したが、現在は新

しいパートナーとの間に長男も生まれた。新しいパートナーとの再婚が決まったのが201

2年頃で、にのみやさんは妊娠中だった。

自分が加害者側なんて、思ってもみない自分がいた。

「加害者であって被害者、被害者であって加害者……。今でこそ、誰の中にも加害者性

はある、なんて傲慢だったんだろうって思うけれど、そのときはまだ私は被害者である

ことでいっぱいだった。だからショックでした」

私は数年前、当時まだ面識のなかったにのみやさんからメールをもらったことがある。

私の書いた記事への感想とともに、被害者同士でも理解し合えないことがあることや、

被害者だからといって連携できるわけではないことがつづられていた。にのみやさんの

十数年にわたる経験からくる、きれいごとではすまない現実がそこにはあった。

被害者同士で足の引っ張り合いになることもある。なぜなら、そのぐらい社会から隔絶

され、追い詰められて、孤独だからだ。

その後に撮った作品集が「SAWORI」だ。妊娠中の姿や、リストカット痕を撮った写真を

土に埋めているカット、生まれた長男を抱く夫、夫が長女・長男と寝転がる一枚もある

。陽の当たる場所で撮られた写真が多いが、最後は自身の影を撮った1枚で終わっている

自分の加害者性を見るのは怖いこと。「行き着いたのは被害者でも加害者でもなく、個

人として立つしかないということ」だったと、にのみやさんは言う。

2019年の今、にのみやさんが力を入れているのは性犯罪の加害者との対話だ。2017年か

ら、加害者臨床の専門家である斉藤章佳さんが勤めるクリニックで月に1~2回、加害者

たちの前で話をしている。加害者との対話を望んだきっかけは、かつて自分を傷つけた

上司の謝罪に違和感を覚えたことだった。

「被害に遭った5年後に、加害者に謝罪してもらったことがあるんです。彼は当然のよう

に頭を下げたけれど、私には全然届かなかった。彼は事件そのものを謝罪している。で

も私は、事件からその後のすべてを謝ってほしかった。そこに相容れないものがありま

した」

事件後も被害者が苦しみ続けることを、加害者の多くは知らない。回復しない自分を責

める気持ち、出口を求めてさまよい続ける孤独。被害者が奪われた膨大な時間を加害者

は知らない。そこには、あまりにも深い断絶がある。

「被害者の現実と加害者の現実がそれぞれあって、その隔たりには愕然とする。一方で

、被害者と加害者って置かれる状況がすごく似ているんです。社会的に孤立したり、周

囲から理解が得られなかったりという点で共通している。この矛盾は何なのだろうと思

う」

「日本は犯罪者にやり直しを認めている社会です。性犯罪には終身刑はない。基本出て

くる。やり直せと言っています。被害者にも、被害に遭ったことにいつまでもこだわる

な、やり直せって言う。でも実際にやり直しを認めているのかといえば、社会は許容し

ていない。『あの人は加害者だったから』『あの人は被害者だから』ってレッテルを貼

って関わらないようにする。そうである限り、回復ややり直しはない。おかしいなと思

います」

社会は加害者について知らなさすぎる

性犯罪は、被害者が訴えなければ発覚しない。だからこそ被害者の語りが求められる。

しかし被害者だけではなく、「加害者が告白できる場所を作らないといけないのでは」

と、にのみやさんは言う。社会が加害者について知らなさすぎるからだ。

1990年代の性犯罪被害者に対する対応について、にのみやさんは『声を聴かせて』の中

でこんなふうに書いている。

でもそれもまた、現実なのだった。

当時と比べれば、被害者への対応や支援の状況は多少なりとも変わりつつある。一方で

加害者はどうだろうか。加害者が自分の加害性に気づき、それを改める場は、この社会

にどれほどあるだろうか。

私は、にのみやさんが参加している加害者の臨床プログラムに参加したことがある。そ

こで感じたのは、「彼らは、にのみやさんの1万分の1でも自分と向き合った経験がある

のだろうか」ということだった。にのみやさんがどれだけの経験をして今ここにいるの

かということを、彼らは少しでも理解しているのだろうか。

そう言うと、にのみやさんは「わかんないでしょうね」と笑った。

それでも――。

「加害者と被害者がやり直す社会は、加害者と被害者と、それ以外の第三者がごちゃ混

ぜにいる場所。ちゃんと社会とリンクしていかないと、どこまでも社会復帰できない。

加害性と被害性を、みんなで分かち合える場が必要だと思っています」

2004年7月15日。音楽練習の帰り道、疲れて立ち寄ったコンビニの駐車場で、突然見知ら

ぬ男が車に乗り込んできました。首を絞められ、「殺すぞ!」と脅され、所持金を盗ら

れ、人気のないところまで運転させられた私は、自分の車の中でレイプ被害に遭いまし

た。

「このまま殺される・・・。」死の恐怖の中で必死に耐え続けた屈辱的な時間は、私が

これまで生きてきた人生も、「私」という存在そのものも、全てを否定されたような絶

望そのものでした。

「私は汚れてしまった。これからどうやって生きていったらいいの?神様助けて下さい

。」と、心の中で何度も繰り返しました。助手席のドアから立ち去った犯人は現在もま

だ捕まっていません。

■被害直後の二次被害(警察・産婦人科にて)

あまりに突然降りかかってきた非現実的な体験からか、しばらくすると、ある瞬間を境

にして体の痛みや精神的な絶望感が全くなくなってしまいました。どこか冷静すぎる自

分に半ば驚きながらも、私は車内に残っていた服を着て、自ら運転して交番へ助けを求

めました。

警察署では、取調室に案内され、複数の刑事さんから被害の詳しい内容や犯人の特徴を

何度も聞かれました。その後、連れていかれた産婦人科では、私が数時間前に見知らぬ

男性から性的暴行を受けた被害者であるにもかかわらず、精神的にも身体的にも配慮の

欠けた対応で、ただ淡々と証拠採取のための必要な処置をされました。

なかでも一番辛かったのは、警察での再現見分でした。私自らが被害者役となり、犯人

役の警察官からもう一度車の中で襲われる様子を自分で説明し、再現させられました。

あまりのショックだったのか、この事実は昨年警察で当時の資料を見て知ったことであ

り、被害時の記憶は戻った現在でも、警察での再現見分の記憶だけは思い出すことがで

きないままでいます。

「私は助けて欲しくて警察に来たのに、誰も今の本当の私を知ろうとしてくれない。」

レイプは、まぎれもなく私の人生の身に起こった出来事であるはずなのに、犯人逮捕の

ためだけに被害者と向き合っているかのようにみえる刑事さんの対応が、私の心をさら

なる孤独に追い詰め、どこかぽつんと1人取り残されていくような感覚を味わいました。

※ 現在は、警察での性暴力被害者に対する支援のあり方がますます重要視されており

、被害者の方には被害者支援担当の警察官が必ずついて、再現見分も人形を使うなどの

配慮がなされているそうなので、当時の私がうけたような警察の対応はなくなってきて

いると聞いています。ただそんな中でも、警察に限らず周囲の人たちが、被害者の方に

よかれと思ってかける何気ない言葉が二次被害につながっているという現実は、残念な

がらあると言わざるを得ません。

■被害後の回復の道のり

私は、多くの友人・仲間たちのおかげで、一度は失われた自尊心を少しずつ取り戻すこ

とができました。事件後、それまでの生活をなんとか送りながらも、精神的にとても不

安定で、体調を崩したりしました。仕事も長く続けられず、摂食障害にも苦しみ続けま

した。

被害後1年経ってからは突然襲ってくるフラッシュバックや自殺衝動と闘う日々でした。

私がパニックで泣き叫ぶ時、弱音を吐いてしまう時、自分を責めてしまう時、仲間は忍

耐強くありのままの私を受け止め続け、寄り添ってくれました。被害後、一変してしま

った日常の中での新たな道のりを一緒に歩いてくれるような、そんな毎日でした。

「ぱんちゃんは、悪くないよ。悪いのは加害者だよ。あなたは大切な存在だよ。」

傷ついた心の回復には、時間も必要だったと思います。事件から数年かかって、それま

で繰り返し投げかけられてきた周囲からのメッセージが、ある時私の心に本当の意味で

ストンと落ちた時、長い暗闇のトンネルから抜け出したような体験をしました。

「私は悪くない。私は大切な存在。もう、自分を責めるのはやめよう。私は幸せになれ

る。」

■立ち上がる選択

レイプ事件から5年たったある日、警察から電話がかかってきました。「証拠として提出

されていた被害時の服を返却しますので、印鑑を持って署にきて下さい。」という内容

でした。5年ぶりに警察署へ行き、あの日の服を返却された時、もちろん当時の傷ついた

自分もリアルに思い出されましたが、それ以上に私の内側が強く感じたのは、「5年経っ

た、今の生きている自分」に対するなんともいえない晴れやかな気持ちでした。

そして私は、このことをきっかけとして、これからの人生において一つの決断をしまし

た。

それは、PANSAKUの音楽活動を通して自分のレイプ被害をブログに公表することでした。

その翌年には、レイプ被害体験をもとに、「STAND」という曲を発表しました。

家族は私が実名で被害を公表したことに対して猛反対しました。私のシンプルな感情と

は裏腹に、家族や一部の人からは、「あんたは傷を売り物にしてそこまで音楽で有名に

なりたいのか?」と言われたりしました。正直にいうと、この言葉は、とてもとても悲

しかったです。

でも、回復の道のりの中で、自然に私の内側から生まれた『STAND』という曲を人前で歌

うこと。これに対しては、どんなに反対されても不思議と迷いや躊躇はありませんでし

た。

「自分に与えられた音楽という表現方法で、傷ついた心に寄り添えるメッセージと、絶

望から再び勝ち取った“生きる”という光を届けたい。」

にのみやさんの模索は続いている。

レイプ被害女性の手記全文「あなたも、闘うのをやめないでください」

https://www.buzzfeed.com/jp/katiejmbaker/heres-the-powerful-letter-the-stanford

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