幼くして父を亡くした子供たちはとってもたくましく優しい!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 家族の大黒柱が、子供が幼くして

亡くなろうものなら、たちまち経済の困窮に始まり

精神的にもゆとりがなくなりお母さんの気持ち一つで

暗い家庭になったり、子供の情緒不安定要素も

ぞうふく家族の健全化が失われるケースもあるように思う…

 子どもたちは、母を助け乗り越えようとする

エネルギーに若いパワーを感じずにはいられない。

 残された母親の心配は経済不安が多かったように思います。

 みこちゃんも今なお貧乏暮らしではありますが

幼いころからお金のない生活が身についていることで

なんだって耐え抜けるたくましさを、身に着けています。

 子どもたちの父親を亡くした苦悩を乗り越えた先の

たくましさに多いに期待したいものです。

心にあふれんばかりのやさしさ、思いやりはこのあまりにも

悲しすぎる体験が子供たちのやさしさを育んでいるのではと合唱。

 どうか天国のお父様、子供たちはきっときっと

お父さんの背中を心の糧に、お母さんを助け幸福の果実を

手にすることができると信じています!

お父さん、どうかいつまでもお見守りくださいませ。

 子どもたちの経済、心のケアーをあしなが育英ボランティアが

1970年から長きにわたり、支え続けてきておられます。

あしなが育英会から奨学金を受けている大学生とボランティアが一緒になり、街頭に立

ち、募金を集めています。

「学生が学生を支援する」という形をとっています。これは奨学金をうけた学生たちが

次は後輩たちのために、という恩返し運動の体現です。

その恩返しは、交通事故遺児から災害遺児、病気、自死そして世界へとその優しさの輪

を広げてきました。

 この募金協力もきっときっと小さなひとしずく

なりはしないだろうかと思っています。

 父は生前、マッサージ師で家の近くに診療所を開いていた。実は父は目が見えない。

大阪にある盲学校に行ったらしい。私はよく父と母と三人で動物園へ行った思い出があ

る。その時父がいつも口癖のように言っていたのが、「この子の顔が見てみたい。」だ

ったのを父が亡くなった後に知った。私も悔しかった。弟が生まれてからも父はよく遊

んでくれたりした。仕事で本当は疲れている体を押して私達の為に時間を作ってくれた

。その父が体の不調を訴え出したのは、小五の秋だった。もうすでにその時には手遅れ

で、あんまり長くないと言われた。本人には知らせたくないと祖母は父に胃潰瘍だと言

っていたらしい。もちろん仕事なんてできないのに、かわいそうだからと言って診療所

もそのままにしていた。それから十ヶ月後、父は息を引き取った。あの時、冷たくなっ

ていく父の手を握ることができなかった私は、今でも後悔している。あんなに優しかっ

たのに。そして今、私は高校生になった。この四年間本当に色々な事があった。そんな

時、私はいつも父との思い出を振り返る。楽しかったあの頃のこと、大好きだった父の

笑顔を思い出してがんばってきた。父のことを友人に話すのも大分慣れてきた。私は少

し強くなれた。もちろん他の子より父との思い出は少ないけどそれはそれでいい。父が

亡くなって、物質的には何も残らなかったけど、それ以上のもの"楽しい思い出"を残し

てくれたことに感謝している。そしてこれからも家族三人力を合わせてがんばっていき

たいと思う。 

  お父さんの思い出 

高校二年 岡本 彩 

 私のお父さんは、私が中一の時、肺がんで死にました。お父さんは死ぬ数ヶ月前から

入院していましたが、私はお父さんが肺ガンだということを全然知りませんでした。ま

だ中一だったから、おしえられないとお母さんは思ったんだと思います。 

 お父さんが死んだ日、私は何日か前に休んでいた時にあった理科のテストを一人で受

けていました。  すると先生が急いで教室に入って来て、「早く車に乗りなさい」と

言いました。こういう場面は、ドラマとかで見たことがあり、いやな予感がしたものの

、私は、お父さんが、ガンだということを知らなかったので、何が起こったのか分かり

ませんでした。病室に入ると、お母さんが泣いていて、「お父さん、死んじゃった」 

と言いました。私は、わけが分からなかったけど、すぐに涙が出て来ました。 

 お父さんは、血をいっぱい吐いて、死んでいました。その前日、みんなで、お父さん

のお見舞いに来ていました。なのに私は、お父さんとあまり話さず、他のことをしてい

ました。お父さんが死んだ後、そのことばかりが、後悔として思い出されました。「何

であの時もっと話さなかったんだろう。」 

 お父さんは本当に優しい人で、習い事に時間がかかっても、終わるまでまっていてく

れたり、病院から帰ってきている時に、病院がつらかったと思うのに、むかえに来てく

れたり、中学校に入って初めての文化祭を、病院から見に来てくれたり。 

 私は、今まだ家族に何もしてあげてないけど、学校を卒業して、仕事をしはじめたら

、何か、必ず家族のためにしてあげたいと思っています。その時が来るまで、勉強や、

学校生活をがんばっていきたいと思っています。 

  生活の変化 

高校一年 真部 友香理 

 私が中学二年生の夏休みに入ってすぐに、父が入院をしました。検査の結果、頭を手

術しなくてはいけなくなり、母が父に付き添うことになって、私たち姉弟は二人で留守

番をするようになりました。近くに祖父母が住んでいて、助けてはもらったけど、さす

がに夜は怖かったです。 

 父は手術を無事終え退院をしたが、またその冬に二度目の手術を受けました。今度も

成功すると思っていたけど、半身不随になっていました。この時、父は仕事ができない

、生活はどうなるの?学校は?進学は?と、私の頭の中で黒い何かがぐるぐる回ってい

ました。私はどうしたらいいんだろうとか思うことがたびたびありました。でも母が、

「生活は何とかできるし、学校も行けるし、ただ贅沢な生活をしなかったらええんよ。

」と言いました。私は我慢して友達とはちょっと違った生活をしています。でも、こん

な苦しい辛い生活も、後で自分の為になるんだと思いながら今は生活しています。とに

かくこれからも一日一日を大切に私なりに頑張っていきたいです。 

  もっと話がしたかった 

高校三年 川添 尚美 

 私の父は、私が中学二年生の時、肝硬変でこの世からいなくなりました。ここ最近ま

で、死んでしまうほど父がお酒を飲んでいたのはただお酒が好きで、やめられなかった

からだと思っていました。でもあしながのつどいに参加して、父の死について考えるよ

うになった時、お父さんがお酒を飲んでいたのは、本当にお酒が好きだったからだけな

のかな?と疑問を感じるようになってきました。人がお酒を飲む時、ただおいしいから

という理由だけで飲むことは少ないと思うんです。むしろ、精神的に楽になりたい時に

飲むことのほうが多いと思うんです。父にも何かお酒を飲んでいないとやっていられな

いような心配事、嫌な事があったんじゃないか、と今思っています。 

 父がお酒をひどく飲むようになったのは、私が中二の夏頃。一日のほとんどの時間を

父は自分の部屋で過ごし、そこでお酒を飲んでいました。以前は家族みんなで食べてい

た夕食にも顔を出すことが少なくなっていました。その頃に、父の様子の変化にもっと

気を遣い、もっと話しかけていたら、今でも父はここにいたかもしれません。四年後の

今になって悔やまれます。でもその時の私は酔っ払っている父が嫌いで、話しかけるど

ころか父から遠ざかっていました。秋の終わりには容態が悪くなり、病院嫌いの父も入

院することになりました。でもその頃にはもう手遅れだったようです。それでも病院で

の父は、治そうと必死でした。そして何よりも、家にいてお酒を飲んでいた時よりも穏

やかで、生き生きとした顔をしていました。なぜ、その時父の病状にしっかりと向き合

って現状を受け入れ、もっと長い時間を一緒に過ごさなかったのか。もっと話をしたか

った。そして、もっともっと生きていてほしかった。今はもう、そう思うことしかでき

ません。 

  尊敬できる人 

高校三年 吉田 未央 

 私が小学校三年の時、父はガンにかかっていました。その時はまだ私には理解できず

、入院している父のお見舞いに行きながら、「お父さんは何でずっと病院にいるんだろ

う。早く帰ってくればいいのに。」 

と、思っていました。でも、時がたつにつれ私と二つ上の兄は知り合いの人の家にずっ

とあずけられるようになりました。父はそんなに悪いのか、と分かりはじめました。母

は、ずっと父の世話をしていました。知りあいの人や学校の先生に、お母さんはスゴイ

えらい人ね、とよく言われるたびに何でだろうと思っていました。しんどい思いをして

いるのはお父さんなのに、というふうにしか考えられませんでしたが今になっては、い

くら夫婦とはいえ、なかなかできることではないなと思うようになりました。私はあん

まり覚えてないのですが、母が言うにはお父さんはどんなに痛くてもつらくてもしんど

くても、口には絶対ださなかったそうです。しんどくても、私が人形で一緒に遊んで、

といえば一緒に遊んでくれるような父でした。何回か少しだけ退院したことがありまし

た。一緒にお風呂に入るとお腹に胸からへその下にまでかけて手術のあとが二つありま

した。それが忘れられず今でもはっきりと思いうかべることができます。そんなつらい

思いをしても母や子供の私たちにはとてもやさしい父親でした。父が亡くなったのは母

の誕生日の次の日でした。父は自分でプレゼントを買いにいくことができなかったため

友人にたのみ母へのプレゼントを一週間くらい前に買ってきてもらっていました。私は

それを知ったときとても涙がでました。この父と母の子供でよかった、すばらしい生き

方を習ったなあと思う事ができました。 

 長い年月がたった今、母はたくさんの資格をとり忙しく働いてくれています。兄は医

療の大学にいき、私も医療の勉強をしたいと思い、人の役にたてたらと思います。 

  僕の父 

高校一年 越智 真也  

 僕の父は仕事が好きで好きでたまらない人でした。今こうやって書いている時でも頭

の中には働いている父の姿しか思い浮かびません。会社から帰ったらすぐに田んぼに出

て働きます。忙しい時は、夜中の二時から三時ごろまで働いたいたように覚えています

。だから僕の記憶の中で遊びに連れて行ってもらったことはほとんどないと言っていい

くらいです。でも自然の中で教わったことはたくさんあります。ニワトリの世話をして

何日でヒヨコになるかとか、きじを追いかけてころんで血が出た時はどんな草で止血を

しいたら良いかとか、ウサギはどんな草を好むかとか、椎茸の菌の植え方とか、その他

いろんな事を見てきました。他の子達とは違った父とのかかわりあいをしてきたと思っ

ています。そのおかげで今、ずいぶんと役立つことがたくさんあります。 

 その父が何を思ったのか神戸に旅行に行こうと言いました。父の古くからの友人に会

うためです。その旅行は今までとは違った楽しさがありました。その一週間後に地震

起こって見覚えのある道が壊れてしまったりして、人間の作り出したものは自然の力の

前では何とはかないものかと感じたりしました。 

 その次の年の九月に父は仕事に出ていってそれっきりでした。昼過ぎに母が父に電話

したそうです。あと一分早く切るか遅く切ると事故にあわなかったのにと母はかなり滅

入っていました。思えば運命だったんだと、誰が悪いわけでもないんだと、それは仕方

のないことなんだと、今なら母に言ってあげることができます。 

 父は、何かの予感がして、あの旅行で僕たちに何か思い出を残したいと思ったのかも

しれない…。 

  私の自慢、そして決意 

高校一年 永田 真理 

 私のお父さんが死んでから、もう十三年ほど経ちます。まだ私が小さかった頃の事な

ので、お父さんとの思い出は、ほとんど覚えていません。話を聞いていても、何の事だ

かさっぱり分かりません。でも、私が小さかった頃のお父さんとの思い出は、今となる

と、私にとっては自慢です。写真には、いつでもどこでも私とお父さんが写っていまし

た。話を聞くと、私はお父さんにいつも甘えてて、お父さんもどこかに出かける時は私

を連れて行ったりしてた、と聞きました。こういう話を聞くと、いくら私が小さかった

とはいえ、お父さんは自慢です。その反面、とても悲しく感じます。ほんの少ししかお

父さんと接する機会がなかったからです。もっとお父さんに長生きしてほしかったし、

いっぱい思い出をつくりたかったです。何かお父さんと一緒にやり遂げたかったです。

お父さんが死んでからの年月、お母さんが一人で育ててくれ、とても感謝しています。

これまで、お母さん一人で、とても苦労をかけたと思います。これからは、今まで迷惑

をかけた倍くらい、お母さんを助けていこうと思います。 

  父が車椅子になってから… 

高校二年 山中 晶江  

 私の父は、私が中学校二年生の時に動脈瘤の手術をしました。父が、 

「胸が痛い」 

と、言って病院に行ってから三日目の夜に手術をしました。手術をするまで病院を二回

移り、三回目の病院でやっと手術をしてくれるようになりましたがその時にはもう、と

ても危険な状態でした。手術が終わるのを待ってる間「お父さんが死んだらどうしよう

」と。ずっとそんな事ばかりが頭の中をグルグルして、とても不安でした。手術は思っ

ていたよりも早く終わり、父も助かりました。しかし、病院に行ってから手術が終わる

までの時間がとても長く感じました。 

 父の命は助かりましたが、手術が遅れたため、車椅子での生活になりました。父は一

生懸命リハビリをし、車椅子のまま仕事が出来るようになり、父の車椅子の生活が始ま

り私も一緒に出かけたりします。そんな時に思うのが、車の駐車場についてです。車椅

子専用の駐車場に車椅子でない人が当たり前のように停めているのです。私は驚きまし

た。専用駐車場というのは実際には、名前が書いてあったりスペースをとっているだけ

のように思えました。父が車椅子になる前まではそんな風に考えませんでしたが、車椅

子になってからは、もっとまわりに目を向けるようになり、考えるようになりました。

そうすると、他にも私たちは当たり前のようにやっていた事が、たくさんありました。

例えば、眼の不自由な人のための道を、端ではなく真中を歩いたりしていました。 

 父が車椅子で生活を送るようになっていなかったら、きっとこんな風に考えたりして

いなかったと思います。私は、父が車椅子になってから、いろんな所に遊びには行けな

くなりましたがもっと大事な事が分かったと思います。それになにより父の命が助かり

生きていてくれる事が、とてもうれしいです。世の中には両親ともいない人や、片親だ

けの人もたくさんいます。それに比べて私はたとえ父が車椅子でも両親ともいる事がと

ても幸せです。 

 これから先、家族を大切にし、もっとまわりの人に目を向け現状を見ていきたいです

。