日石退職しICRCの職員としてそのお姿は今、海外の現地にあります。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

このように春ウララなる晴天の元においても

 世界紛争は絶え間なくどこかで起き互いに多くの負傷者がでています。

負傷者が出たならば、もうその時点で

敵味方ではなく一人のただの人間であるとの

平等の精神のもとでの行為であるのでしょう。

ここで活躍される現場の劣悪の中での

医療奉祀の大変さはそれなりに想像できます。

 ナイチンゲールの精神そのものだと思います。

〈われは心より医師を助け、わが手に託されたる人々の幸のために身を捧げん。〉

っ宗教上の問題で命のかかわり方の相違もあるでしょう。

また最適な治療でありたく思っても

これを受け入れない宗教の壁もあることでしょう。

そのような中での医療行為の大変はそこはかとないものもあることでしょう。    

 

このような中において、看護士13年間の間に多くの海外派遣で得たものは果てしなく

これからは、専従職員として今も現場で身を

投じておられる看護士がおられます。

 看護師さんはおっしゃいます。

現地の子供たちはどのような劣悪の環境の

まっただ中においても、「キラキラと輝く瞳に出会うことで心が救われます

これが我が身を現地にと導かれる原動力そのものであるという!」((

これからは、赤十字病院を退職し現地の医療の資質向上を目指し(ICRCの

職員としてそのお姿は海外で医療を絶え間なく求めておられる現場に今もあります。

みこちゃんにもできることはあります。

100円でもよいわずかな見えないほどのごきふができたならと・・・。

   東洋経済からの引用です。)

福岡の看護師が「8度の国際支援」で達した境地 -

日本で92の病院を展開する日本赤十字社(以下、日赤)。世界191の国・地域に広がる国

赤十字赤新月運動のネットワークの一員だ。このネットワーク機関の1つである赤十

字国際委員会(ICRC)とはどんな組織か、ご存じだろうか。

1859年、スイスの青年実業家アンリー・デュナンは、9千人の死傷者が打ち捨てられた悲

惨な戦場を通りかかり、「傷ついた兵士はもはや兵士ではない、人間である。尊い生命

を救われなければならない」という信念の下に救護を行った。

そして「敵味方の区別なく救護するための団体を各国に組織しよう」と訴え、1864年

赤十字の最初の機関として誕生したのがICRCだ。

福岡赤十字病院に勤務し、13年間で8回も海外での救援活動に派遣された女性がいる。看

護師・助産師の井ノ口美穂さん。彼女はなぜ過酷な現場へ向かうのか、現地でどんな経

験をしたのか、そして悩んだ末に決断したキャリアチェンジとは。退職の2日前、福岡赤

十字病院で話を聞いた。優しい微笑みをたたえながらも、テキパキと動き話す井ノ口さ

ん。飾らない人柄も魅力的だった。

将来の目標が定まったのは中学生のとき

福岡県出身の井ノ口さんが将来の夢を描いたのは、中学2年生のときだ。祖母の病気がき

っかけで看護師という仕事に興味を持っていたある日、テレビで目にした光景に強く魅

かれた。

「日本人の助産師がアフリカの貧困地区で赤ちゃんを取り上げていました。こんな仕事

があるのか、私も看護師や助産師になって、海外で働いてみたいと思いました」。中学

校の先生から、海外に看護師を派遣する日赤のことを教えてもらい、目標が定まった。

日赤の看護学校に進学し、さらに京都の短大で助産師の資格を取って、1996年念願の福

赤十字病院に入職した。

日赤には国内災害に備えた救護班があり、トレーニングを受けた看護師が救護員に登録

される。さらに国際活動に参加するためには、いくつかの研修をクリアする必要がある

。井ノ口さんは海外へのはやる気持ちを抑え、「まず5年は日本で看護師としての基礎を

固めよう」と外科や産婦人科などの病棟で働いた。同時に海外へ行く準備も始めたが、

思わぬ壁にぶつかることになった。

国際活動参加に向けた研修は英語で行われるため、一定の英語レベルを超えなければ受

けられない。「私はリスニングが驚くほど苦手で、思うように成績が伸びず……。最終

的には日赤の集中英語コースを受講し、必要な研修を受けられることになりました」と

話す。

国際活動の救援員になると、国内の病院で働きながら、ネットワーク内の求人に応募し

たり要請に応じたりする形で、海外に派遣される。井ノ口さんが初めて海外に派遣され

たのは2005年12月、入職から10年目だった。

スーダン紛争犠牲者救援」で約半年間、ICRCが運営する病院の看護師として、スーダ

ンの負傷者を看護した。スタッフ約50人のうち、日本人は井ノ口さんだけ。

「銃や地雷、ナイフで何度も切りつけられた方など、武器によるケガ人を見たのは生ま

れて初めて。子どもから高齢者まで手足を失う方も多く、ひとまず傷を治して帰すこと

が私たちの目標でした。医療資機材や医薬品が少なく、提供できる治療も限られた中で

、それでも人ってこんなによくなっていくんだなあと、自分で自分の体を治す力のすご

さを感じました」

一方で「日本の医療は介入がかなり多いのに、それでもなかなかよくならないという事

実に気づかされた」とも。では、日本人にも同じような回復力があるのだろうか。「い

え、そうは思いません。アフリカでは5歳以下の死亡率がかなり高く、そこで生き残った

人たちは生命力が強いんです」。

国際救援を続けたい人・自分に向いていないと思う人

現地ではもどかしいことも多かった。「ケガをした患者さんの足を切断したものの、結

核やエイズなどの免疫不全があって治らず、足を短く切っても切っても感染が続き、最

後は根元まで……それでもよくならないケースもありました。戦傷外科では免疫疾患を

治療する術がなく、日本なら助かるのに助けられないことがつらかった」と振り返る。

国際救援で一度現地に行った人は、2つに分かれるといわれる。続けたいと思う人と、自

分には向いてないと思う人と。井ノ口さんは前者だった。

「初めての戦傷外科で、英語のリスニングにも苦労したけれど、ダメダメな私でもオー

プンマインドで受け入れてくれた患者さんたちにずいぶん救われました。私も彼らに何

か返していけるようになりたいという強い思いが、次へとつながりました」

井ノ口さんはその後もケニア洪水救援、アフガニスタン病院支援、パキスタン洪水災害

支援、ミャンマー紛争犠牲者救援、バングラデシュ南部避難民救援、南スーダン紛争犠

牲者救援など7つのプロジェクトに派遣され、2~9カ月にわたって現地で活動してきた。

自らが看護師や助産師として患者に接することもあれば、現地の医療スタッフの教育に

徹することもある。

「もともと医療の水準が低くて、現地の看護師が患者さんの様子を観察せず、医師に指

示された点滴や注射すらしていなかったことも。私たちが入ることで現地スタッフが成

長して、患者さんに質のいい医療を提供できるようになるとやりがいを感じます」。

女性の地位が非常に低く、女性の意見はまったく聞いてもらえないことや、宗教や文化

的な理由で医療行為に反対されることもある。「帝王切開をしないと死にますと何度説

得しても、家族から断固拒否される。家に帰られた後、多分亡くなられているだろうな

というケースもたくさん。無理強いはできないですから……」。

ただ、現地では「彼らにとって死はすごく身近なのだと感じた」と井ノ口さん。「もち

ろん親族は泣いたりしますが、亡くなった方の横で普通にご飯を食べる様子に驚きまし

た。死を生活の一部として自然に受け入れているのでしょう」。

一人ひとりの能力を引き出せば最大限の力を発揮できる

最近は管理する立場として、看護師の教育や病院のマネジメントに従事する。初めのう

ちは効率のよいチーム運営を重視していたが、考えが変わったという。

「私のやり方を伝えるのではなく、スタッフ一人ひとりの能力を引き出せば、チームと

して最大限の力を発揮できると気づきました。

ただし、日本では皆がプロフェッショナルなので自由にしてもらうことで結果が出せた

けれど、国際救援の現場には現地スタッフをはじめバックグラウンドの違う多様な人た

ちが集まる。

彼らが能力を出し切って働ける環境をいかに作るか、それが私の課題です」

派遣から帰国すると、短期間休んで病院勤務に戻る。「極度にストレスがかかりハイテ

ンションで帰ってくるのですが、復帰したら思うように動けず、はやく適応しようと頑

張りすぎていっぱいいっぱいになったこともあります」。加えて、日本の医療現場にお

ける目まぐるしい変化にも対応しなければならない。

「派遣に出ていた数カ月間に、医療のシステムや国の制度がどんどん変わるので、情報

をアップデートすることがいちばん大変。管理職になると、なおさら難しさを感じるよ

うになりました。

病院では皆さんに温かい言葉をかけてもらい、サポートしてもらってありがたい反面、

私が海外に出る間は病棟の人手が減ることへの心苦しさ、自分の役割が果たせなくなる

というジレンマに陥り、両方バランスよくできないかと模索していました」と打ち明け

る。

海外では自分の思うようにいかず、「ここが限界かもしれない」と思ったこともある。

日本では、自分のあり方を模索する日々。それでも海外に行き続けるのはなぜだろう。

「子どもの笑顔が大好きなんですよ。現地の子どもたちが笑う顔は本当にキラッキラ輝

いていて、そんな顔を見たくて続けている気がします。子どもが健全に笑っていられる

ように、現地の皆さんを少しでも支援していきたい。患者さんや家族やスタッフが元気

に笑って過ごしている姿を見ると、すごくうれしくホッとして、この人たちはよくなっ

ていくなと思えるんです」

井ノ口さんが選んだ新しい道

井ノ口さんの両親は、危険を伴う地に行く娘を今でもずっと心配しているという。それ

でも海外でなければいけないのか。

「日本には優秀な看護師や助産師がたくさんいます。でも、海外の過酷な環境で働ける

人は限られていて、私は現地の医療をよくしていきたいんです。

そのために全力を捧げたくて、1月末で日赤を退職し、ICRCに転職することにしました。

これからは海外救援の道1本で生きていきます。働ける限りは働き続けたい」

早くも2月半ばから、アフガニスタンの病院で任務に就いている。

取材前、勝手ながらナイチンゲールのように優しい女性をイメージしていたけれど、実

際の井ノ口さんはキリリとしている。

そう伝えると「いやあ、ナイチンゲールもめちゃくちゃ厳しかったらしいですよ」と笑

って応じてくれた井ノ口さん。厳しさと優しさを兼ね備え、今ごろアフガニスタンで現

地の医療に情熱を注いでいることだろう。

赤十字基本7原則

1965年にオーストリア・ウィーンで開催された第20回赤十字国際会議で「国際赤十字

赤新月運動の基本原則」(赤十字基本7原則。以下、赤十字7原則)が決議され、宣言さ

れました。赤十字7原則は、赤十字の長い活動の中から生まれ、形づくられたものです。

「人間の生命は尊重されなければならないし、苦しんでいる者は、敵味方の別なく救わ

れなければならない」という「人道」こそが赤十字の基本で、他の原則は「人道」の原

則を実現するために必要となるものです。

人道

国際赤十字赤新月運動(以下、赤十字赤新月)は、戦場において差別なく負傷者に

救護を与えたいという願いから生まれ、あらゆる状況下において人間の苦痛を予防し軽

減することに、国際的および国内的に努力する。その目的は生命と健康を守り、人間の

尊重を確保することにある。赤十字赤新月は、すべての国民間の相互理解、友情、協

力、および堅固な平和を助長する。

公平

赤十字赤新月は、国籍、人種、宗教、社会的地位または政治上の意見によるいかなる

差別をもしない。赤十字赤新月はただ苦痛の度合いにしたがって個人を救うことに努

め、その場合もっとも急を要する困苦をまっさきに取り扱う。

中立

すべての人からいつも信頼を受けるために、赤十字赤新月は、戦闘行為の時いずれの

側にも加わることを控え、いかなる場合にも政治的、人種的、宗教的または思想的性格

の紛争には参加しない。

独立

赤十字赤新月は独立である。各国の赤十字社赤新月社は、その国の政府の人道的事

業の補助者であり、その国の法律に従うが、常に赤十字赤新月の諸原則にしたがって

行動できるよう、その自主性を保たなければならない。

奉仕

赤十字赤新月は、利益を求めない奉仕的救護組織である。

単一

いかなる国にもただ一つの赤十字社あるいは赤新月社しかありえない。赤十字社、赤新

月社は、すべての人に門戸を開き、その国の全領土にわたって人道的事業を行なわなけ

ればならない。

世界性

赤十字赤新月は世界的機構であり、その中においてすべての赤十字社赤新月社は同

等の権利を持ち、相互援助の義務を持つ。