仮面女子、「まさか」からの再出発。

     ご機嫌いかがでしょうか。

視界ゼロのみこばあちゃんです。

 まだ記憶に新しい自民党の元幹事長

谷垣貞一その人が趣味としていた

自転車事故で頚髄損傷を発症されました。

日本の政界にとってまだまだ不可欠のお人柄でもあった。

その人があったなら阿部暴走も

ぶれーきにもなっていたはず??

ロシア問題の独走も日本そのものの歴史観まで変えようとしています。

 スプーンで食べることもできなかった現実をどう受け入れ

どう前向きに歩をすすめておられるのだろうか?

 愛妻家でもあった奥さんを亡くされたばかりの出来事に

神様の無常を突き付けられたかのような思い出もあった。

 どのような人でも思いがけない事故はどこにでもある。

受容しなければ明日はない。

誰も手を伸べてくれることなどない。

せきそんのけあーもたいへん!

きれいごとだけでは語れない現実が立ちはだかっています。

どうか生き抜くためのランドマークを見つけ

ひたすらそれに向かいたいものです。

 老いることだってそうです。

できないことばかりを数えていたなら

両手があっても足りはしません。

 できないことに終始することなく工夫あればこそと奮起したい。

人に頼ればずるずるできないことばかりで埋め尽くされてしまう。 

     東洋経済からの引用。【負けるもんか】ステージに挑む姿、誰かの勇気にな

る 事故で車いすに    アイドル「仮面女子… (2019年01月13日)

 想像もしていなかった。平成30年4月11日午後1時過ぎ。東京・秋葉原の劇場に

向かって文京区の湯島聖堂脇を歩いていたときだった。この日は都心で最大瞬間風速2

3・2メートルを観測するなど、強風が吹き荒れていた。

 風に逆らうように進んでいる頭の上から、影が迫ってきた。聖堂の縦2・8メートル

、横3・5メートルもある木製案内板が、自分に向かって倒れ込んできた。避ける間な

どなかった。

 痛みは感じず、ただただ苦しかった。「どうなっちゃうんだろう」。誰かが呼んだ救

急車のサイレンが近づいてきた。

 運び込まれた病院で医師から「脊髄が損傷している。足の感覚がどれだけ戻るかは個

人差がある」と言われたが、頭には入ってこなかった。痛み止めの副作用もあり、吐き

気や体のだるさにさいなまれ、自分と向き合う時間はなかった。

 体調が回復してくるにつれ、自分でも脊髄の損傷がどんな意味を持つか、インターネ

ットで調べるようになった。「歩けなくなる」と書いてあることも多かったが、「奇跡

的に回復した」という書き込みもあった。「どこか人ごとのような、深刻に捉えられず

に自分は『大丈夫、治るんだ』と思い込んでいた」

 見舞いに来た両親や兄、姉とも話をした。治ったらあんなことがしたい、こんなこと

がしたい。元通り動けるようになることを前提に希望を口にしたとき、家族の表情に、

ほんの少しだけいつもと違う気遣いを感じた。

 その違和感は徐々に蓄積されていった。「治らない可能性が高いの?」。意を決して

家族に尋ねた。「うん」。言いにくそうな答えが返ってきた。

 ■ ■ ■

 アイドルになりたいと思ったのは、小学生の頃。テレビで活躍する「モーニング娘。

」に憧れた。ただ成長するにつれ、「そうは言ってもなれるものじゃない」と、考える

ことをやめていた。

 再燃したのは、人生の壁にぶつかった就職活動のときだ。専門学校で栄養士などの資

格を取ったが、就職したかった小学校には行けなかった。思い出したのは子供の自分。

「アイドルになろう」。仮面女子の門をたたいた。

 26年5月から芸能活動を始め、下積みを続けながら29年2月、仮面女子の一員に

なった。ようやくつかんだチャンス。これからというときに事故は起きた。「なんで私

なの」。嘆いても答えはなかった。

 仮面女子はライブパフォーマンスを楽しみにしているファンが多い。「踊れなくなっ

た自分に需要があるのか」。所属事務所は支援を申し出てくれたが、自問自答は続いた

 心が暗くなったときに思いをぶつけるように書き込んだノートは、どんどん進んでい

った。絶望の中でも不思議と「仮面女子を続けたい」という思いは変わらなかった。

 昨年5月7日、自身のブログを約1カ月ぶりに更新し現状を告げた。ファンがどう思

うか、不安は尽きなかったが、ブログのコメント欄は応援メッセージであふれた。

 事故で初めて知ったという人や、同じような境遇にある人からも次々にメッセージが

届いた。《勇気づけられました》《ずっと応援します》。海外から英語のメッセージも

あった。

 「車いすでも誰かの希望になれるよ」。家族の言葉が後押しした。「またステージで

踊りたい」。退院したら作詞をしたい、大好きな野球に関わる仕事をしたいと、自分に

できることは何なのか、考えてはノートに書き連ねた。

 ■ ■ ■

 8月26日、退院を待たずに活動を再開し、リハビリを続けながらできる限りステー

ジに立った。応援、喝采、全てが力になった。

 新たな視点も加わった。

 自動改札機の狭さ、事故に遭うまで気づかなかった街中の少しの坂、段差…。狭い廊

下では、方向を変えるのも簡単ではない。「車いすで引き戸を開けるのがこんなに大変

だなんて」

 だから、こうした現状を伝えようと、講演活動にも挑戦する。競技は決まっていない

が、来年の東京パラリンピック出場も目指そうと思うようになった。

 「突然の不幸があると、下を向いてふさぎ込んでしまうと思う。私が活動することで

誰かの勇気になるなら、いろんなことに挑戦していきたい」。その目に強い光が宿った

。(橋本昌宗)

 いがり・ともか 平成3年12月9日、埼玉県生まれ、27歳。専門学校卒業後の2

6年5月、アイドル活動を始め、29年2月に仮面女子に。30年4月に強風で飛来し

た案内板の下敷きになり、両下肢まひになったが、8月に復帰を宣言。車いすでのライ

ブパフォーマンスや、各地での講演なども行い、32年の東京パラリンピック出場も目

指している。子供の頃からプロ野球埼玉西武ライオンズのファンで、球場でビールの

売り子や売店の販売員などアルバイトをしていたこともある。

    ◇

 平成がまもなく終わりを告げる。何かにつまずき、転びながらも、立ち上がって前に

進もうとしている人たちから、新しい時代を生き抜く知恵を探る。=随時掲載