漫画家【歌川たいじ】作 「母さんが、どんなに僕を嫌っても」

     ご機嫌いかがでしょうか。

漫画家で作家でもある歌川たいじさんの「おかあさんがどんなにぼくをきらっても」が

映画作品として昨年公開された

 歌川さんの実体験からの内容に胸がかきむしられるような感覚を おぼえてしまう?

 みこちゃんも実刑に金銭トラブルで、これ以上兄と思っていたのでは

永遠に騙され続けなければならないとの思いで4年前に絶縁宣言をしました。

 憎しみだけを募らせていたのではマイナスしか得られないと思い

最近、兄を表面的には許しはしましたが

今は実兄は何事もなかったように我が家に入り込んでいます。

 みこちゃんの精神的なストレスは言うまでもありませんが

穏やかな思い出、あの世に行けるのではと納得させているところでもあります。

 歌川さんから見れば取りに足りぬ内容なのでしょうね。

許容量の広い人でありたいものです。

唯一の理解者であってほしい母の「もう,信じられない」

程の以上接触の母はもしかして病気であったのかもしれないけれど

幼いころからの虐待サバイバとして

よくぞ生きれたものだとは素直な感想でもあります。 わずかな光としてのランドマーク

希望をあきらめることなく抱き続けることで

その先にある明るい未来をおてにすることができたのでしょうか?

人はわずかな寄り添いが大きなエネルギーをもたらすのだと

感じさせてもいただきました。

歌川さんテナント優しく清いお心のお方なのでしょう。

 作品の意図するところをきちんと検証できずにいるみこちゃんでもあります。

ただの凡人にははかり知ることのできない分野です。

   

なぜにこのようなお人柄になれたりもするのでしょうか??

「死んでよ」と包丁で切られた子の壮絶な人生 -

「あんたなんか産まなきゃよかった!」

女優の吉田羊がそう叫びながら、実の息子に向かって包丁を振り回す。昨年秋に公開された映画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』の一場面だ。

子どもを徹底的に虐待しつづける母と、それでも母を求めてしまう息子の20年以上にわたる関係を描いた作品で、原作は同名コミック。漫画家の歌川たいじさん(52)が、実体験をもとに描いたものだ。

おまえなんかいらなかった、死んでよ

近所でも評判の美人で口がうまく、「踏んではいけない地雷が毎日変わる母」に、幼いころからたいじさんはつらく当たられたという。

「食べ物を残してぶたれたから次は完食すると、今度は“だから太るんだよ!?この豚!”と怒鳴られぶたれる。何が引き金になるかわからず、ビクビクしてばかりの日々でした」

東京・下町で工場を営む父と母、3歳年上の姉の4人家族。父は子どもに無関心、姉は自分の身を守るので精いっぱいで母親の側についた。工場の工員だけが、たいじさんに優しくしてくれた。

「ばあちゃん、と呼んでなついていた事務員の女性がいました。ばあちゃんだけはいつも僕の味方でいてくれて、僕が作るお話を楽しみに聞いてくれたんです」

美しくモテる母が家の外でほかの男と会うことに、幼いたいじさんは勘づいていた。

「ある日、父親に母の浮気を問い詰められ、答えないでいると殴られ蹴られ、宙づりにされました。9歳の子どもがしらを切り通せるわけもなく、結局は白状してしまいました。そうしたら今度は母に、“あんたのことなんか2度と信用しないからね”と突き放された。本当につらかったです」

その一件があった数か月後、たいじさんは肥満を理由に体質改善の施設に入れられてしまう。1年後、帰宅したたいじさんを待っていたのは、両親の離婚……。大好きな“ばあちゃん”とも離れ離れに。

それを機に虐待がエスカレートしていったという。

お腹を踏みつけられる、麺打ち棒で頭をぶたれる、竹刀でのどを突かれる、手の甲にタバコを押しつけられる……といった暴力。暴言もひどく「おまえなんかいらなかった、死んでよ」「あっちへ行け、気持ち悪い」「お前の醜い顔を見るとうんざりする」などなど。

たいじさんの腕の裏側には傷痕がある。小学校6年のとき、母親に刺身包丁で切りつけられ、とっさに腕で頭をかばった傷だ。血だらけで登校すると、保健室からすぐ病院に運ばれた。5針縫合するほどのケガだった。

「教師にその傷はどうしたか聞かれ、ブリキで遊んでいたら切った、と言ったんです。そしたら教師は、“じゃあ学校は関係ないから、保険は下りない”と。虐待を見て見ぬふりをしたんです。もう誰も助けてくれないって、世界に対する絶望感がすごかった……」

中学生になると、たいじさんにはマンションのベランダの物置があてがわれた。雨漏りし、夏は暑く冬は寒い。いつの間にか発症していたアトピー性皮膚炎は悪化し、学校では「汚い!」とののしられ家でも母親にののしられ、四面楚歌。

朦朧(もうろう)とした日々の中、同級生の些細なひと言にキレてしまい高校を退学に。そのころたいじさんは「心因反応」という心の病気にかかっていた。医師の診断もあったのに母親はそれを「嘘つき」呼ばわり。「このままでは心が壊されてしまう」と感じたたいじさんは17歳のときに、家を出た。

「死ぬのを待っているような日々でした」というそのころ。しかし、たいじさんはそこから自分を立ち直らせる。危篤だった“ばあちゃん”に再会したことがきっかけだった。

母と対峙することを決意

「偶然、元工場で働いていた人に会って、ばあちゃんが危篤だと知りました。それでばあちゃんに会いに行って僕はばあちゃんに笑ってほしい一心でいろんな話をしました。

“いま僕は豚の工場で働いていていつも豚ばっか見てるよ、豚が豚見てるって笑っちゃうよね”とか、太っている自分を豚にたとえて自虐的な話をしたように思います。そのとき、ばあちゃんはクスリとも笑わずに僕の目を見て言ったんです。

“ばあちゃん、たいちゃんにお願いがあるの。僕は豚じゃないって言って”と」

幼いころから虐待を受けていたたいじさんは自分を否定する癖がついていた。たったの8文字がなかなか言えなかった。やっとの思いで吐き出すように言えたたいじさんの目からは涙がこぼれて止まらなくなっていた。

「その日から、未来を考えるようになりました」

通信制の高校で学び、大学では学生ミュージカルに参加し自分を表現することを学んだ。卒業後は就職情報会社に就職。かけがえのない友人と触れ合うことで、

「自分を立て直したいって思ったんです。そのためには母と対峙するしかないと」

そのころの母親は、再婚相手が借金を残して亡くなり、アルコール依存症に陥っていた。

「留守電に、睡眠薬送ってと泣きながら残す。自分が困ったときだけ連絡してくるんです。相変わらず“あんた本当にいらなかった”とか“私だって大変だった”とか言ってくるわけです。

憎たらしくてしょうがないけど、一緒に金策に走ったり、ごはんを作ってあげたり掃除をしてあげたりする日々が始まりました。僕が30歳くらいのときです」

だが、母との日々はそう長くは残されていなかった。

ある日、遠い海辺の町の警察からかかってきた電話。母が水死体で見つかったという連絡だった。

「やっと母が“あんたがいてよかった”と言ってくれたばかりなのに。前日も、一緒に焼き肉を食べて新しい仕事の話もしたばかりなのに、何で??って感じでした」

死にたいほどの絶望にも見舞われたたいじさんを支え続けたのは「希望」。

「お話や文章を考えるのが好きで、いつか誰かが僕を見いだしてくれる、そんな気持ちでいたように思います。

たまたま母が亡くなるまで1年間、仲のいい親子として過ごせました。僕には正解でしたが、みんなにそうしろとは思わない。それぞれに正解があっていい。ただ憎しみを一生抱え込むことは正解ではない。憎しみから解放されて生きてほしいと思います」

虐待サバイバーとして立ち直った立場でそう呼びかける。

虐待という一見苦しいご自身の過去を作品にしようと思ったきっかけはなんだったのでしょうか?

歌川 : そもそも僕がこの話を書いたのは、「僕はあんなひどいお母さんを許しました!どやねん!」ということを伝えたかったからではないんですよね。

今井 : たしかに、終始希望の見え隠れする作品のように感じましたね。意図的に明るいトーンで描いたのですか?

歌川 : 僕がこの作品に取り組み始めたとき、"毒親本"を出している人がたくさんいました。当時は親がどれだけひどい人かを描くのに終始する毒親本が一種のブームのようなものになっていて、最初にいただいたお話も、そういうものを書きませんかというものだったんです。

毒親本を出しているのは30代前半の方が多くて、きっと痛みの最中にいる人たちだったんですよね。当時、僕は46歳。今の連れ合いと一緒になってから15年くらいが経っていて、収支が黒字になっていたんですよ。

今井 : 「収支が黒字」…?

歌川 : そう、人生の収支のことね。幼いころから自己イメージを叩き潰されてしまって、辛い経験もたくさんしてきました。でも、僕には大切な友だちができて、彼らから背中を押されるたびに変わっていくことができて、自分の中での人生の収支は黒字になっている。

そんな僕が"ひどい親"のことを書けば、痛みの中にいる人たちとは違った作品が描けるのではないかなと思ったんです。僕は僕なりに、たくさんのハードルを越えてきましたから。

大切なのは諦めないこと

今井 : なるほど。でも正直今の日本ではハードルを越えられない人もたくさんいると思うんですよね…。苦しんでいることを言いたくても言えない人がたくさんいるような気がしています。歌川さんはどのようにハードルを越えて来たんですか?

歌川 : 諦めなかったから越えられた、と思っています。いちばん大切なのは諦めないこと。希望を持ち続けること。幸せは諦めなかった人のところにやってくるから。諦めさえしなければトライ&エラーのひとつになる。でも諦めちゃったらそこでおしまいじゃないですか?

今井 : たしかに…。でも、最近は諦めずに頑張り過ぎてしまったからこそ、逃げ場がなくなって追い込まれてしまうというパターンもあるのでは?

歌川 : あのね、諦めないってことは"固執する"、"頑張り続ける"とは違うんです。僕だって母とのことを何度も放り出してきましたから。

今井 : そうなんですか?てっきり、頑張り続けてきたのかと…。

歌川 : 違う違う(笑)。何度も放り出して、何度も逃げてきました。だって、母には会いたくなかったから。一生会わなくてもいいと思っていたくらい。

今井 : それでも最後は諦めなかったということですよね。

歌川 : そうですね。高校生から20代のなかばまでは、会わなくてもいいと思っていました。でも会社に入るときに連帯保証人が必要になったりとか、これから先、人生のいろんなタイミングで母との関係についてつまずきが出てくるのだ、と感じたんです。それに、子どもの時に形成されるべき土台みたいなものが自分にはない、だから人生がこんなに不安定なんだ、できれば土台から作り直したいという思いがあった。それで、20代の終わりに「この問題に正面衝突してやる!」と(笑)。

今井 : 意外と、現実的な理由で正面衝突の決意をしたんですね…。

歌川 : 心の底には「いつかお母さんと会いたい」って気持ちがあったんだと思う。途中で何回もどうでもよくなって逃げてきたけれど、それでもどこかに引っ掛かりがあって。だからこそ戻って再挑戦することができたし、それこそが「諦めない」ということなんだと思っています。逃げた自分を許さない="諦めない"、では決してないんです。

ゲイであることなんて普通なの!

今井 : 歌川さんはゲイであることを公表されていて、原作でもそのことに触れていますが、映画の中ではそれが描かれていませんよね?

歌川 : 僕の方からそうしたいって言いました。原作を書いたときは自分のすべてをさらけ出すつもりだったので、ゲイだから味わった苦労も描いたんですけど、そこをメインモチーフにしたかったわけではありません。ゲイであることも隠さないけど、ゲイだからといってセクシュアリティを作品のど真ん中に据えなければならないわけではないという表現にしたかった。それが僕にとってはリブ活動(ゲイリブ:ゲイ解放運動)のひとつだったの。

今井 : リブ活動?

歌川 : 「僕はこーんなこと乗り越えなきゃならなかったんですよ、それに比べたらゲイであることなんてどうってことないでしょ!?普通でしょ!?」って対比させたいくらいの気持ちだったの。でも、実際に本が出てみると、世の中への伝わり方は全然違ったんですよね。

今井 : どうしても、ゲイというところに注目されてしまいそうですよね。

歌川 : そうなんです。いろんなメディアに取材していただいたんですが、「この本の作者はゲイです!」「ゲイの漫画家歌川たいじ」「ゲイの親子の物語」などと、ゲイの部分をフィーチャーして取り上げられてしまうことがあまりにも多かった…。 主人公がたまたまゲイなだけで、おもに伝えたいことはセクシュアリティに関係ないことなのに、"LGBT映画"として取りあげられてしまうことって、よくあるんですよね。僕はこの映画が"LGBT映画"って言われるのは嫌でした。一番伝えたいのは、そこじゃないから。だから、セクシュアリティについては特に描かない映画になってほしかったんですよね。

今井 : なるほど…。

歌川 : でも、主人公が"ノンケ"(ヘテロセクシュアル異性愛者)にはすり替わっていなかったでしょう?むしろ、タイジが友人の大将と触れ合って「あっ」ていう顔をしていたりね。タイジ役の太賀くんも大将役の白石くんも、製作スタッフもすごく意識して映画を作ってくださいました。

今井 : たしかに、映画を思い返すとタイジが女の子にドキッとする瞬間は描かれていなかったですね!映画のテーマとしては扱われてはいないけれど、役作りの中では表現されていたということなんですね。すごい…。

歌川 : そう。太賀くんは、「こんなゲイいねえよ、ってなってませんか?」って、何度も確認してくれましたね。

寄り添い方はひとつじゃない

今井 : この映画をいちばん見てほしい人は誰ですか?

歌川 : 虐待を受けて心を痛めた人。そして…痛めていない人にも見てほしいかな。それだと、全人類ってことになってしまうんだけど(笑)。

今井 : 心を痛めていない人には、この映画を通して何を伝えたいですか?

歌川 : 「心を痛めて苦しんでいる人が、誰かの言葉でこんな風に立ち直っていくんですよ」っていうことを伝えたいですね。あなたが寄り添うことで救われる人がいるかもしれないと。

今井 : 歌川さんを救ってくれたのは、作品に登場するばあちゃんや友人ということですよね。

歌川 : そうです。そして人によっていろんな寄り添い方があるということも伝えたい。友人の大将はね、けっこう強引に寄り添ってくるんですよ。こっちが「そんなにグイグイ?」って感じるくらいに(笑)。でもそうやって強引に寄り添ってもらえなかったら僕はずっと心を開くことができなかっただろうから、本当に有り難かったです。

今井 : 心を開くのには、勇気が必要だったのでは?

歌川 : 受け止めてくれるっていう信頼感が築かれていたから、できたんでしょうね。友人の大将とかなちゃんに、本当に救われてきましたから。「うたちゃんもおいでよ!」と楽しいことに呼んでくれたり、美味しいものを食べた時に「うめえな!」って笑ってくれたり。小さなことの積み重ねが、僕にとってどれほど救いになったか。

そんな関係性だったから、僕は彼らのいいところしか見てこなかった。でも、それでよかったんだと思います。人間だから合わないところももちろんあるんだけど、僕は大将たちを手放さないという強い気持ちがあった。だからこそ、いい関係が築けたのかもしれません。

インタビューの終わり、歌川さんは「大将がスポーツのできる男前だったから、心をひらけたのかもしれないけどね!」と笑った。

虐待、両親の離婚、家出、そしてセクシュアリティに関わること…。「母さんがどんなに僕を嫌いでも」で描かれる彼の半生は一見ハードルだらけの苦しいものだ。そんな人生に真摯に向き合い、母とぶつかることを選んだ歌川たいじさん。彼の口から紡がれる優しい言葉は、数々のハードルを諦めずに乗り越えてきた過去があるからこそ生まれるものなのだろう。

映画『母さんがどんなに僕を嫌いでも』は、2018年11月16日(金)より新宿ピカデリーシネスイッチ銀座イオンシネマなど全国で公開される。感動に胸を打たれるその日を、心待ちにしていてほしい。