戦災孤児が語る人間模様!!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 シリアは今なお紛争の真っただ中です。

この国会で、憲法9条改憲論が出ています。

数の論理で強硬することがあってはならない!

 日本の戦災孤児は12万6000人とも言われています。

この数値については、不確かに思えたりもします。

この算定方法が難しく思えるからです。

皆が共にその日暮らしのため、一つのぱんを分け合う気持ちの

ゆとりもない時代でもあったのだろうか?

そのような人間模様を 神様はどのようにごらんであったろうか?

戦争犠牲者は限りなく多くいる。

今なお、被爆者の悲劇は永遠です。

兄弟は他人の始まりは、このじだいにうまれたことばなのでしょうか?

 亡き父の話として

近所に大阪から疎開した小学生の兄弟がよくいじめられ

ご飯を食べさせてもらえなくてよく我が家に来ていたという。

近所のおじさん、おばさんはよく知るが

そのようなことをする人にはとても思えない。

地域の中では暮らし向きはよいほうでもあった。

そのおじさんはどういうわけか晩年は、お苦しみの病でお気の毒としか言えなかった。

思いやりというのは、損得なしに心から人の為を思って生ずる純粋な優しい精神のこと

です。それは言葉であったり、行動であったりと形は様々ですが、何の見返りも求めな

い自然な思いからくるものが本当の思いやりです。ただ押し付けることは思いやりでは

ありません。

人間て不可思議そのものです。

人の心理行動のなんてうつろではかないものかと思い資留美子ちゃんです。

でもいぶし銀のような人もどこかにおられるし

自分もそうでありたいものだと心の片隅に

そっとそっと止めおきたいものです。

 飽食の時代に合って、人が助け合わなくても身近にお金で

解決できると思い込んでいる人はなんとおおいいことだろうか?

 生活の豊かさの中、思いやりなど育ちにくい現実はしっかり

覚悟と厳しさを生きる姿勢だけは身に着けたいものです。

社会の余剰者には、生老病死がある限り

誰でもが病人として人の手助けがいる存在になりうることだけは

押さえておきたい課題でもあります。

言論の自由の中、差別解消を高らかに訴えることも

あってよいのか悪いのか複雑な思いです。

 防衛費の拡大は、多くを悲しませることにはなりはしないかと

危惧するみこちゃんでもあります。

思いやりは育ってほしいとは思いますが、期待しようとは思えない私です。

   戦災孤児の引用文です。

12歳男(小6年)

両親を失ったたあと親戚へ預けられたが、嫌がらせをうけ、いたたまれずに家を出た。

行く先はなく寝るところも食べ物もない。

上野地下道には自分と同じ弧児たちが大勢いたので仲間になった。

浮浪児と呼ばれ「近づくな、目を合わせるな」と、世間の人たちは汚物を見るような目

で遠巻きにして眺めるだけ。

食べ物を恵んでくれる人はいなかった。

 なにしろ腹がへる。10日も食べられない日もあった。

盗んで食べるより仕方なかった。

盗むと大人から殴る蹴る、コン棒でメチャクチャに叩かれた。

それでも盗む。盗みが成功したときは食いだめをする。

そのせいか腹をこわすし胃拡張になり、常に飢えていた。

死んだ子は大勢いる。餓死や凍死、変死した。自殺した子もいた。

 「刈り込み」で捕まり板橋養育院へ入れられた。

子どもの死体がごろごろ廊下にまでころがっているのを見て、いずれ自分もあのような

姿になると思い、逃げないよう鉄条網で張りめぐらされていた塀を夢中で乗り越え逃げ

た。

 それからお台場へいき盗みをした。

台場は当時は離れ小島だった。

台場にはアメリカ占領軍の食料倉庫があり、食料は驚くほど豊富にあった。

そこで水上警察に捕まり「東水園」という孤児施設に入れられた。

施設は水上警察が見るに見かねてつくったのではない。浮浪児を持てあましていたのだ

昭和21年9月に東水園が設立され、最初は14人が入所、自分はその内の一人だ。

東水園で生活したのは22年9月ごろまで1年足らずだった。

そこでの生活は海にもぐり、B29の残がいを引き揚げてくる作業だった。

遺骨も海底にあった(空襲死者の遺骨か?)。

大人でも大変苦しい仕事を子どもにやらせるのである。

あまりにも苦しく辛い作業に、隙をみて逃げたが、また捕まった。

 東水園では勉強はしなかった。

水上警察署の職員は我々子どもに非常に冷たかった。

殴る蹴るは日常茶飯事であった。子どもに配給される米を横取りしていた。

 その後キリスト教の「あいりん会」が経営する「若葉寮」に入った。

ここは軍隊の馬小屋を孤児施設にしたところである。

施設長がいい人だったので逃げなかった。

中学、高校へ通い、あいりん会の職員になって夜間大学へ通った。

K Hさん、14歳男(中学生)広島原爆孤児

 原爆でたったひとり残された。

東京へ出てきたが、行く先がなく上野地下道で浮浪児に。

浮浪児の生活はMとまったく同じである。

明日は生きていないかもしれないと思う日々だった。

また、なんらかの形で、大人は孤児を利用しようとした。

ひどい仕打ちをうけてきた。

子どもは訴えられない。

大人は自分に都合のいいことしか言わない。

人間扱いされなかった。

二度と思い出したくない。

Mとは東水園、若葉寮と一緒だった。

金田メモ

 1999(平11)年戦後54年目、ある映像会社がお台場で生活した孤児の放映を

計画、上記2名に取材を申し込んだが拒否され、「金田さんなら取材に応じてもよいが

、氏名、顔写真は出してはならぬ」という条件つきで、私が千葉県まで取材にいき話を

聞いた。

 当時のお台場には数千人の浮浪児がいたといわれているが、東水園へ入所しても逃げ

出す子が多かった。台場で生活した孤児2名だけが現在判明した。他は不明である。

山本麗子さん、9歳女(小3)東京空襲訴訟の原告

 1945(昭和20)年5月24日の空襲で父死亡、母も同年11月に病死。

3人の子どもが残され孤児になった。

3人は別々の親戚へ預けられた。

私は叔母宅へいき、学校へは通わせてもらえず、海水から塩をとる作業をさせられた。

昼は山へいき薪を背負い海岸へ運び、夜は薪を一晩中燃やしつづける、昼夜別なく働い

た。

9歳では重労働だった。

 2年後、弟の具合が悪いと叔父から呼ばれた。いってみると弟はやせ細り、馬小屋に

寝かされ、うどんのような回虫を吐き「おかあちゃん」と呼びながら死んだ。

その弟の姿を見て私は叔母宅へは戻らず、静岡から東京へ徒歩できた。

行く先はなかった。

 上野で浮浪児になった。

喪失感からぼんやりと過ごし、2日に1回おにぎり1個をくばってくれるおばさんを待

つ日々だった。

刈り込みで捕まり、トラックに載せられ、山奥へ棄てられた。

(後で考えると茨城の土浦方面だったと思う)子どもたち同士で声をかけあい、山を下

り、上野へ戻り、また浮浪生活を数年した。

生きているのが不思議に思う。

 働ける年代になって寺の茶坊主になり、20歳前に東京へ出て料理店で働くようにな

った。

学校は小学3年で止まった。

11歳の兄とは両親死亡後あっていない。

行方不明になったままである。

金田メモ

 山本さんは病気療養中にもかかわらず、高額金が必要な訴訟の原告になった。(原告

は国へ納める印紙代5万円その他が必要、敗訴になれば更に1、5倍の費用がかかる)

それでも控訴に加わった。国からゴミとして棄てられた彼女の無念、怒りが訴訟へ駆り

立てたと思う。生きてきた最後の叫びだ。

金子トミさん、15歳女(中学生)

 東京の江東区に住んでいたが、家族揃って母の実家のある山形へ疎開した。

その疎開先で8月10日、家の裏に爆弾が落ち、母と妹が死んだ。

父も後を追うように死んだ。残されたのは私と小学4年の弟と小学2年の妹の子ども3

人だった。

伯父から父の実家へ行くようにいわれたが、母は父方の親戚と付きあいがなかったので

面倒はみてくれない。

 自分が働いて弟妹の面倒をみようと東京へ出てきたが、東京は焼け野原になり廃墟に

なっていた。

東京大空襲のことは何も知らなかった。

結局、上野公園の昔式の便所(畳半分ぐらい)で3人が寝ることになった。

山形を出るとき母の弟が内緒でくれたお金があったので、その金でさつま芋を買い、弟

と妹に与え、自身は食べないときもあった。

昭和20年8月、敗戦後に上野へきて、21年の春先まで上野て浮浪児生活をした。

 おいも屋のおばさんから田舎の農家を紹介され、3人で農家へいった。

その農家では朝早くから夜まで、田んぼ、畑、蚕など働き通しだった。

弟と妹は小さいので仕事が充分できない。

お仕置きをずいぶんされた。たまらなくなりそこを逃げた。

 3人で二晩、山で野宿した。

その後、妹だけを親戚へあずけ、私と弟は別の親戚へいったが、そこで私は女中を紹介

され、弟と別れた。

それから妹や弟は行方知れずになった。

何回手紙をだしても、おじたちから返事がこない。

数年後、八方手をつくして捜し、やっと弟、妹を見つけ再会した。

妹は貰い子になって苦労し、弟は小学校へもいかず働かされ、読み書きができなかった

浮浪児の生活は夫にも我が子にも話してこなかった。

浮浪児狩り

浮浪児

 親戚、知人、養子先を出ていく子どもたち

 心理的虐待をうけた子は、親戚や知人宅、養子先を逃げ出す子が続出した。

とくに男児が多く、親戚に2日いたが追い出された。1年後に出た。2年後と、親戚を

出た時期はそれぞれ違うが、しかし、東京へきてみると、見渡すかぎりの焼け野原。我

が家は跡形もなく、そして浮浪児になっていくのだった。 また、空襲で逃げまどい、

親に死なれ、その日から浮浪児になった子もいた。

「俺たちは野良犬か」の著者、山田清一郎さんは(小4)は父は空襲で焼死、母は焼夷

弾で壕が崩れ、目の前で生き埋めになった。

その日から浮浪児になり、野良犬と同じ、人間扱いされずにきた。

拾うか、貰うか、盗むしか選択肢がなかった。

10歳の子どもが家もなく、食べさせてくれる人もなく、その凄惨さな生きさまには息

をのむ。

一度読んでいただきたい本である。