北海道地震から一年!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 北海道地震からはや一か月がたちます。

台風25号も長崎、佐賀を巻き込んで北北東に時速40キロで進んでいます。

被害の少ないことを願うばかりです。

 災害国日本の国難ともいえるのではと思います。

 人的非買は無論のこと、経済被害も大きく

国益を失う結果となっています。

 オリンピックに3兆円の支出がいるとはびっくりです。

国費も財布は借金漬けの中のオリンピックの開催には

疑問符もあります。

 これからの災害の多くを視野に予算配分のバラマキは

これ以上はブレーキです。

私たちの暮らしの在り方の見直しも不可欠なのかもしれません。

 温暖化対策は、災害国にあっては実行あるのみです。

 ババちゃんも、寒がり暑がりではありますが

電気料金月500円の節約からスタートするつもりです。

 今まではエヤコンと電気ストーブのお世話になっていました。

毎年10月の中旬からの電気ストーブの登場も

11月までは「我慢、我慢」に徹し宅覚悟も新たです。

 北海道の厳しい季節はまなしにやってきます。

 災害は、家族を奪い、そして家までも、慣れ親しんだ気綱で結ばれていた村落までも

そして多くの思い出までも瞬時に奪い去っていきました。

残されたものには重すぎるほどの生活再建が

途方に暮れる中待っています。

何重苦もの中からの債権もおありかと思います。

これは人の愛に振れることしかないのかもしれません。

     アサヒコムよりの引用です。

聞こえる、あの人の声「前を向け」 北海道地震1カ月

 未明に突き上げるような激震に襲われ、36人が犠牲になった北海道厚真(あつま)

町。人々が肩を寄せ、暮らしてきた集落を、崩れた土砂が一瞬で押しつぶした。それか

ら1カ月。失われた命を悼みながら、もう一度、あの町を取り戻そうと、町の人たちは

一日一日を送っている。

 「痛い!」。10月初め、町で唯一の診療所「あつまクリニック」。注射で泣き出す

子どもの声が聞こえた。「これが日常かなと思う」。院長の石間巧さん(57)は笑っ

た。

北海道地震 支援情報

【災害INFO】地震が起きたときに役立つ情報など

北海道で震度7、道内の被害状況は

 あの日、朝から患者が次々とやってきた。家族を亡くした17歳の男子高校生は待合

室でしゃくりあげて泣き、看護師に背中をさすられていた。泥で真っ黒な80歳の男性

の手足を洗おうとすると「そんなこといいから。いいんだから」とベッドから起き上が

ろうとした。56歳の女性は手足に多くの傷があった。「こんな時間にすみません。本

当にすみません」と何度も謝り続けた。

 水も電気もない中、ペットボトルの水で患部を洗い、ペンライトの光を頼りに傷を縫

った。約60人の診察を終え、午後7時ごろ、スタッフを帰した後も、玄関の鍵をかけ

ず、来るかもしれない患者を待った。

 程なく、警察から検視の依頼が入り、町役場の裏に設けられた遺体安置所に向かった

。安置所の遺体はなじみの患者ばかりだったが、静かに横たわる姿に最初は誰だかわか

らなかった。「海にポカンと浮かんだ孤島にいるようだった。どこからも助けがこない

ような気がした」

 12年前、当時のクリニック院長に誘われ、故郷に戻った。札幌市や室蘭市の病院で

長年勤めたが、幼いころ治療してくれた町医者に憧れていた。地元に戻り、診療を続け

ると、呼び名は「タクちゃん」から「先生」に変わっていった。少し認めてもらえたよ

うな気がしていた。

 震災から1カ月。避難生活が長引き、腰を痛める人や不眠を訴える人も出てきた。患

者の多くはまだ日常を取り戻そうと無理をしているようにみえる。「あの朝、『なんと

かして』と思った患者さんたちが一歩目に選んだのが、この病院だった。これからもそ

の一歩を受け止められる場所でありたい」(今泉奏)

「声も聞こえるんだよね」

 10月に入り、農家の高橋清吾さん(43)は米の収穫に追われている。1人でコン

バインに座り、豊かに実った稲の穂を見つめていると、ふとあの日のことを思い出し、

深呼吸をして気持ちを落ち着かせる。「目の前まで行ったのに叔父さんたちを助けられ

なかった」

 6日未明、強い揺れで跳び起きた。防災無線が鳴り響く。消防団員の高橋さんは、他

の団員たちと車で町内を回った。目に飛び込んできたのは、叔父の松下一彦さん(63

)の家だった。土砂で50~60メートル流され、屋根まで埋まっていた。叔母の美恵

子さん、いとこの陽輔さんもいるはずだ。

 大声で名を呼ぶと、「清吾君かい。ここだよー」と叔母の声が聞こえた。がれきをど

けると血を流した美恵子さんが見え、夢中で助け出した。しかし、何度呼んでも、一彦

さんと陽輔さんの声は返ってこなかった。

 翌日に一彦さん、2日後に陽輔さんの遺体と対面した。涙が止まらなかった。

 小さい頃から「かずおじさん」と慕った。同じ農家で、麦の育て方を教えてくれた。

今年のお盆も家を訪ねると、笑顔で「清吾、ねまんなさい!(座んなさい)」と言って

、缶ビールを開けてくれた。

 自分を責める気持ちは変わらない。でも、あの時、一彦さんは「美恵子だけでも助け

ろ」と自分を呼んだんじゃないかと思う。「『いい加減、前を向け』って声も聞こえる

んだよね」

 町で生まれ育ち、22歳で消防団に入った。人口約4600人の小さな町で、何代も

前からの付き合いが多く、みんなが身内のようだった。地震に襲われ、町は大きな被害

を受けたが、消防団員90人はまたサイレンが鳴れば出動するつもりだ。

 「右向けば田んぼ、左向けば山の、元の厚真に戻るべさ。生き残ったもんは、頑張っ

て元に戻すしかない」。高橋さんは涙をぬぐい、そう話した。(遠藤美波)