尊敬に値する政治家はどれほどおられようか??

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 政治家としてその背中と,気骨のある国会議員はどれほど

おられるだろうか?

「身を捨てて名を断つ」そんな人は少ない。

 産経新聞でも取り上げておられましたが

今は亡き野中広務がいると言えるのかもしれない。

「死してなおいきつづける」そんな存在は

安倍総理には期待出来そうもない!

長期政権を担いながら、その独裁政治には

国会まで軽視した汚点しかない!

 野中さんと言えば毒舌化のようにも思われていたことも確か!

 たたき上げの政治家として信念を持ち、そのハートも「差別のない関係」にも

そのパーソナリティーは知る人ぞ知る。

 沖縄問題にも深く関与してきたのも兵隊経験からくるのかもしれない。

 今の公明党との関係を気付いたのも野中氏と言われている。

戦争のない平和な世の中を願いつつ

思い半ばで亡くなられたともいえる。

韓国 中国外交も深くその関係も円滑!

     野中広務その人柄の引用。

野中は回顧録の中で戦中「自分は軍国青年であった」と述べている。高知市の第155師団

歩兵第452連隊(通称号:護土22756部隊)に所属していたときに終戦を迎え、坂本龍馬

像の前で自決を考えたが、上官の将校に「死ぬ勇気があれば、これから日本の国を建て

直す勇気に変えろ」と諭された[20]。 

京都府園部町長在任中の1962年、2,500人あまりの京都府出身者が戦死した沖縄県宜野湾

市の嘉数の丘に京都府慰霊碑を建てるために訪れたときにタクシー運転手から「お客さ

ん、あそこで、あそこで、私の妹は殺されたのです。アメリカ軍じゃないんです」と聞

かされた[21]。 

こうした体験から戦争反対や平和、残された戦争責任をきれいに片づけるべきという思

いがあり、著書やインタビューなどで訴えている。 

亀井静香は「野中は国士みたいな男で、のちの世代に苦しみを残してはいけないという

ようなことを考えている」と評している。実際に、野中は「戦後五十年の負のトゲを抜

くんだ。この国が二十世紀にやり残したことを、禍根のないようにやり遂げる。それが

自分らの責任だ」と発言したこともある。一方で、元官房長官社民党衆議院議員だっ

野坂浩賢は「野中は本来、タカ派だと思う。しかし、政治家としてハトにもなりうる

」とし、「あの土井たか子党首だって野中のことは嫌いじゃないんだ。おタカさんは、

亀井(静香)は大嫌いだが、野中とは仲がいい」と発言していた[22]。 

2009年、永年の宿敵であった共産党の機関紙『しんぶん赤旗』のインタビューでも平和

について語った。このインタビューについて朝日新聞(2009年7月31日)で問われ、「政

治の最大の役割は戦争をしないこと。『戦争反対』であれば、どんなインタビューでも

受けますよ」と答えている[23]。 

政治信念[編集]

松本サリン事件の被害者でありながら被疑者扱いされた河野義行に対して「人間として

政治家として心から申し訳なくお詫びしたい」と謝罪したことや、重度身体障害者療養

施設や重度身体障害者授産施設を自ら設立・運営していることなどから野中の姿勢は、

魚住昭や後述の後藤謙次などから「弱者への眼差し」と呼ばれる。松本サリン事件で重

度の後遺症を持つことになった河野の妻を自ら運営する施設に受け入れる意思があるこ

とも話した。しかし、河野は仕事の関係で長野県から移動できないため、野中の施設の

管理者が長野県内の施設を紹介した。このことに感謝した河野は、野中へ長野県産のリ

ンゴを贈り続けていた。 

佐高信は、魚住の著書『野中広務 差別と権力』の解説で、「ハンセン病訴訟の元患者や

弁護団が最も頼りにしたのが実は野中であり、官房長官時代に原告や弁護団に会い、国

の責任を事実上認めた野中に、彼らは『痛みのなかに身体をおけるひと』と賛辞を惜し

まないという」と書いた。事実、野中が政界から引退を表明した直後、ハンセン病訴訟

全国原告団協議の会長、会長代理、副会長及び事務局長、全国ハンセン病療養所入所者

協議会長の連名で「議員引退の撤回を求める緊急要請書」が野中に届けられた。 

野中の父は保護司を務め、戦災孤児の収容施設「園部寮」の運営に深く関わっていた。

後藤は、野中の自著『私は闘う』の解説で、社会的弱者に注がれる野中の視線は暖かく

、そして「弱者に対する眼差し」は決して同情からではなく、生まれ育った環境の中で

辛さ苦しみを共有する中で芽生え体に染み付いたものと書いている。 

野中は京都府議会議員、京都府副知事時代に自らが被差別部落出身であることを話した

ことがあったが[* 2]、地方政治家時代から部落解放同盟などの同和団体とは一線を画し

ており、京都府議時代には蜷川府政の同和対策事業と部落解放同盟を「一般の人が理解

をするものでなければ、新しい差別を呼び起こす」と厳しく批判している。また、京都

府副知事時代には小森龍邦をはじめとした部落解放同盟幹部のいる席で「部落問題をダ

シにして利権あさりをしたり、あるいはそれによって政党の組織拡大の手段に使う人を

憎みます。そういう運動を続ける限り、部落解放は閉ざされ、差別の再生産が繰り返さ

れていくのであります」と発言したこともある。 

また、選択的夫婦別姓制度推進にも、2001年に党三役に申し入れを行うなど積極的であ

った[24]。 

時事放談の司会の御厨貴は当番組に野中が出演した際小泉純一郎の話題になった瞬間興

奮して余りに過激な批判を口にしてディレクターが「そこまでは」宥めると「何が悪い

んや」とさらに怒り大変だったいう[25]。 

安倍晋三への批判[編集]

安倍晋三の施政方針演説について、「私が中学生のころ、昭和16年東条英機首相が大

政翼賛会の国会演説のラジオ放送を耳にしたときの感じと変わらない」、「重要な部分

に触れないで、非常に勇ましい感じで発言された」と述べた。また、安倍の沖縄県・辺

野古への米軍基地移転をめぐる姿勢については、「沖縄を差別しないために政治生命を

懸けてきた一人として、絶対に許すことができない」「私にとっては、本当に悔しい。

死んでも死にきれない」と述べ、「県民の痛みが分からない政治だと思い、強く憤慨し

ている」と批判した[26][27]。 

2014年2月には参議院の調査会に参考人として出席し、議会制民主政治は機能不全となる

。相当危険な事態と懸念を表明。集団的自衛権の行使容認への手法を「非常にせこいや

り方で基本を間違えたもの」と厳しく批判、その他、安倍が外交や安全保障、経済政策

などで相当に偏った人事でブレーンを集め政策決定をしている事態を批判した[28]。 

麻生太郎への批判[編集]

批判内容[編集]

魚住昭野中広務 差別と権力』[29][* 3] によると、野中は麻生太郎が過去に野中に対

する差別発言をしたとして、2003年9月11日の麻生も同席する自由民主党総務会において

、麻生を激しく批判した。

総務大臣に予定されておる麻生政調会長。あなたは大勇会[* 4] の会合で『野中のよ

うな部落出身者を日本の総理にはできないわなあ』とおっしゃった。そのことを、私は

大勇会の三人のメンバーに確認しました。君のような人間がわが党の政策をやり、これ

から大臣ポストについていく。こんなことで人権啓発なんかできようはずがないんだ。

私は絶対に許さん!」

【佐藤綾子のパフォーマンス講座(35)】元官房長官野中広務氏の巻 死してなお

人を走らす人が備える3つの条件とは

http://www.sankei.com/life/news/180804/lif1808040006-n1.html