少年院を過ごしたアイドル、戦慄かなのさんの夢は無限大!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 アイドルとして静かにブームを呼んでいる人がいる。

 その人は戦慄かなのさんである

彼女の幼少期と言えば母親の育児放棄

一週間も帰らなかったこともあり、普通に身に着ける暮らしも

母親からの支援もなく身に着けることもなく、学校において

いじめの体験もあり、交友関係もあまり求めることはなかったという。 

高校中に不良仲間と接触を持ち、仲間が仲間を産む現象の中で

どんどん不良化し、ついに1年8か月の少年暮らしも体験し

その中で母よりも優しい職員との出会いが彼女の人生観を変えたという。

無事大学入学を果たし、これからの夢として

アイドルの看板を利用しつつ、子供たちに寄り添える仕事をしたいと夢は無限大である

 ネグレクトの母親のもとに育ちながら、母親を恨むことなく受け入れて生活できてい

ることは本当に素晴らしいとしか言えない。

 いろんな挫折を体験したからこその未来に続く

目標もでき揺るぐことのない骨太の精神に、期待したいものです。

 

虐待、非行、女子少年院の日々を乗り越えて アイドルは想像を絶する「サバイバー」だった

16歳から1年8カ月を少年院で過ごした4月某日に行われた、ある大学の入学式。新入生の

なかにひとり、2年前まで、女子少年院で机に向かっていた女性がいた。

「戦慄かなの」さん。目がひときわ大きく、色が白い。西洋人形のようなその外見から

、「女子少年院」という言葉はイメージできないが、16歳から1年8カ月をそこで過ごし

た。

新入生にとって、大学の入学式は出会いの場でもある。それぞれが新しい友だちを作ろ

うと言葉を交わす周囲の中で、戦慄さんは静かにその場を離れた。キャンパスライフと

いう言葉で表現される、明るく、健全な雰囲気に、居心地の悪さを感じていたのだ。

「友だちを作るつもりはないし、作れませんから。大学生活を楽しみにしているわけで

もないし」

そう話す戦慄さんだが、大学の合格通知を受けたときには、涙を流して喜んだ。やりた

かったことに、一歩近づいたからだ。その目標は、戦慄さんの生い立ちに、深くかかわ

っている。

【お母さんに「あんた発達障害なんじゃないの」って言われたまじウケる!もしそうだ

としてもお前が私のこと殴りすぎて脳細胞潰れまくったとか彼氏と出掛けたきり一週間

帰ってこなくて成長期なのに飢死しそうになったから脳みそに栄養行かなかったとかそ

んなんが原因じゃないですかね】(戦慄さんのツイートから引用/@CV_Kanano)

戦慄さんの生活は、母親、妹と3人で暮らし始めた小学生のときに、激変した。ひとりで

娘ふたりを育て始めた母親は、やがて育児よりも自分を優先するようになった。

戦慄さんの記憶に刷り込まれている出来事がある。待てど暮らせど、母親が帰ってこな

い。1日、2日、3日、4日……。でも、幼い妹を連れて家を出るのは怖いし、おカネもな

い。誰かに助けを求めようという考えも浮かばなかった。ただただ、空腹を紛らわせる

ために、水道から水を飲んでいた。母親が帰宅したのは、1週間が経ってからだった。

母親は働いていたので、貧困状態だったわけでもない。ただ、育児に関心を持てず、子

どもを持て余していたのだろう。戦慄さん本人も認めているが、完全なる「ネグレクト

育児放棄)」状態で、戦慄さん姉妹はお風呂に入って体を洗う、歯磨きをする、服を

着替えるといった、「当たり前」に思えるような生活の行為を教わることなく、放置さ

れた。

気づかれなかったSOS1998年生まれ、大阪府出身。アイドルとして個人での活動をスター

ト。2017年1月にはスカウトをきっかけにアイドルグループ「のーぷらん。」の一員とし

て同年5月まで所属していた。「ミスiD?2018」(講談社主催)では「サバイバル賞」を

受賞。大学入学後の今春からアイドル活動を再開へ。Twitterアカウントのフォロワー数

は3.5万人超(撮影:梅谷秀司)

母親が家にいるときには食事を作ってくれたが、たいてい鍋料理で、具材がなくなると

その鍋に足していくので、1カ月、同じ鍋料理を食べ続けることも珍しくなった。

それでも、好きなものを作ってほしいと意見を口にすることもままならない。気に入ら

ないことがあると暴力を振るわれるからだ。しかも、母親は、家の外での子どもたちの

行動には厳しかった。門限とたくさんの規則を作り、がんじがらめにした。

「小学校5、6年生のころ、これって虐待なんじゃないかと思うようになって、何回か先

生に相談したんですけど、伝わらないんですよ。お尻を叩かれることが多くて、ミミズ

腫れがあっても、それを先生に見せるのは恥ずかしいし。学校では定期的に、『虐待や

悩みごとがあったら相談していいよ』みたいなホットラインの紙が配られるから、自分

のお財布にストックしてたんですけど、1回も電話しなかった。私もそうですけど、虐待

されてる子は、携帯を持ってない子も多いんですよ。公衆電話からわざわざ電話するの

はハードルが高いし、お母さんのことも好きなので、それでお母さんがどうなってしま

うのかみたいなのも想像すると怖いんですよ。子どもがSOSを出すのは難しくて、誰も助

けてくれなかったですね」

小学校4年生頃まで、お風呂に入らず、歯を磨かず、ボサボサの髪をして毎日同じ服を着

ていた戦慄さんは、学校でいじめられた。同級生の男女から毎日のように激しい嫌がら

せを受けた。一度、いじめられると、そこから抜け出すのは簡単ではない。いじめは中

学の3年間も続いた。家でも、学校でも、気が休まるときはなかった。

小中学校時代をなんとか生き抜いた戦慄さんは、高校に入学し、電車通学するようにな

ってタガが外れた。母親の監視の目をすり抜けて、戦慄さんの生活は急速に荒れていっ

た。

新宿には何らかの理由で道を踏み外した同世代の女の子がたくさんいた。ひとりと知り

合うと、芋づる式に交友関係が広がっていった。その仲間たちと悪事に手を染めるよう

になるのに、時間はかからなかった。

「やっぱり、自由になりたかったのかなあ。非行してる子と一緒にいるのが新鮮だった

んですよね。もともと友だちもいなかったので。今考えたら普通の友情じゃないんです

けど、すごく自分が必要とされてる感じがしたし、居心地がよかったんですよね」

戦慄さんとその仲間たちが具体的に何をしていたのか、ここには記さないが、インタビ

ューでは一部を明かしてくれた。それは、一言で表せば“ビジネス”だった。

「非行を突き詰めたら、自立できると思ってたんですよ。ウチはおカネがなかったわけ

じゃない。でも、私と妹は貧困、みたいな状況だったので、おカネに対する執着がすご

くあって。そのときは、おカネさえあればあんな思いしなかったのにと思っていたし、

お母さんのもとから離れるには、おカネが必要じゃないですか。だから、みんなは遊び

たくて、お小遣い稼ぎたいみたいな感覚だったんですけど、私はただ稼ぎたかったんで

す」

家に帰っても居場所がない戦慄さんは、非行仲間たちと過ごす時間がどんどん増えてい

った。当然のように、“ビジネス”以外にもさまざまな犯罪行為に走った。何度か警察

に補導されたが、歯止めにはならなかった。気づけば、高校に入学してからの半年間で

、「エスカレートしすぎて、非行を駆け巡りました」。

「先生」との出会い

ゲームオーバーの瞬間は、唐突に訪れた。事件を起こして警察に逮捕され、余罪も追及

されて、女子少年院に送致されたのだ。女子少年院にいたのは、1年8カ月。犯罪行為に

対する反省、生活態度などに問題がなければ、1年未満で退院する人もいるそうだが、戦

慄さんには、早く出ようという気持ちがなかった。

「そう簡単に変わりたくないという思いがあって。少年院の中では、不良であればある

ほど、心変わりが早いっていうか、めちゃくちゃ優等生になるんですよね。上下関係が

厳しくて、ゴリゴリのヤンキーみたいな人がいちばん優等生になりやすい。逆に、私み

たいにひねくれていたり、変にお嬢様っぽかったりすると、退院が遅れがちなんです」

わかりやすく改心するのを拒否した戦慄さんだが、少年院での出会いが人生を変えた。

戦慄さんがいた女子少年院では、「先生」と呼ばれる法務教官が数人いて、それぞれが3

人ほどの少女の指導に当たる。戦慄さんの担当になった先生は、まるで母親のように優

しく、厳しく、接してくれたそうだ。

もちろん、すぐになつくほど、非行少女たちは甘くない。戦慄さんも最初は反発し、何

度も問題を起こした。それでも、先生は決して戦慄さんを見放さず、粘り強く向き合い

続けた。ただ厳しく叱るのではなく、ときには頭を撫で、温かい言葉をかけた。

「少年院に入ってから、第2の非行というか、反抗期みたいな感じて、けっこう問題を起

こしていました。でもそれは子ども返りみたいなもので、甘えの欲求だったと思います

。先生は本当に第2のお母さんみたいで、親に愛されてこなかったのが、少年院ですべて

補われた感じがあるんですよね」

先生の尽力もあり、手負いの獣のように荒れ狂い、「私は変わらない」と息巻いていた

戦慄さんの心は次第に静まっていった。

少年院では、退院した後に少しでも役立つようにと、WordやExcelの習得、秘書検定、レ

ース編みなど、さまざまなプログラムが行われている。その中で戦慄さんは、高卒認定

試験の受験を選んだ。改心して前向きになった、というわけではなく、現実逃避だった

「少年院だと多いときには1日に3回くらい、作文を書かないといけないんですよ。自分

の犯罪や過去のつらかったことを思い出して、そのときに自分はどう思ってたのかを細

かく振り返って、過去と向き合うんです。私にとってはそれがいちばんきつい時間で、

それから逃げるには、本を読むか勉強するしかなかった」

少年院には勉強を妨げるスマホも、テレビも、友だちからの誘いもない。先生の影響で

法務教官という仕事に興味を持った戦慄さんは勉強に励み、高卒認定試験に合格した

少年院で、ほかにもいくつかの資格を取得していた戦慄さんは、2016年に満期で退院し

た後、薬局で事務員として働き始めた。母親が決めてきた仕事だった。

しかし、数カ月で辞めてしまう。ある日、思い立ったのだ。アイドルになろうと。

当時、大手の芸能事務所ではなく、中小の事務所に所属して、あるいは個人レベルでラ

イブなどを行う女の子たちが登場していた。彼女たちは「地下アイドル」と呼ばれた。

戦慄さんが少年院に入ったころには存在しなかった言葉で、退院後に、地下アイドルの

存在を知った戦慄さんは、驚いたという。同時に、こう思った。「これなら私もできる

!」。

「私が知ってるアイドルはAKB(AKB48)とかモー娘(モーニング娘。)で、自分がなれ

るとは、思ったこともありませんでした。でも、私が少年院に入っている間に、一気に

地下アイドルという言葉が浸透して、なかにはおゆうぎ会レベルのアイドルもいました

。私はダンスがすごく好きだったので、ダンスを生かせば、私もアイドルになれるかも

しれないと思ったんです」

とはいえ、何かツテがあったわけではない。さてどうしようかな、と思っていた矢先に

ツイッターを通して、芸能関係者と名乗る人物から連絡があった。なんと、戦慄さん

が妹とダンスしている動画をツイッターにアップしたところ、それを見た人がその関係

者に連絡。その関係者は、戦慄さんをイベントに誘った。

「かわいいし、ダンスもうまいから、うちのイベントに出てみませんか。歌はもう、ど

んなふうでもいいので」

歌はどんなふうでもいい、という言葉にはリアリティがある。その誘いに乗った戦慄さ

んは、イベントに出演。すると、あっという間にファンがつき、ツイッターのフォロワ

ーがどんどん増えていった。

「浮いてなんぼ」の世界

この舞台の前後、アイドルらしくキラキラしたキャラを演じていた戦慄さんは、すぐに

考えを改めた。

「私は地上のアイドルを目指しているわけじゃない。だったら、自分のやりたいことを

したいし、私が素を見せてもついてきてくれるファンがいればいいや」

ぶりっ子をやめた。気持ち悪いと思うファンには、中指を突き立てた。ツイッターでも

、歯に衣着せぬ投稿をするようになった。そのせいで、何度か「炎上」した。そのアイ

ドルらしくない振る舞いが話題を呼び、戦慄さんいわく、”モノ好き”のファンが増え

ていった。

その分、地下アイドルの女の子たちのなかでは浮いた存在になり、ドロドロした地下ア

イドルの闇にも触れた。しかし、戦慄さんにとっては、たいしたことではなかった。

「どんどん浮け浮け、っていうか、浮いてなんぼですよね」

イメージチェンジ、というより、素の自分を出すようになってしばらくすると、別の芸

能関係者から声をかけられた。その人は「のーぷらん。」という、地下アイドル業界で

は名を知られているグループの運営に携わっている人物で、戦慄さんはあれよあれよと

いう間にその一員に加わった。アイドルになるのはハードルが高そうな印象があります

が、というと、戦慄さんはうんうん、とうなずきながらこう言った。

「それくらい身近なものになってたんですよ、アイドルが。それくらい!」

しかし、のーぷらん。での活動は、2017年1月から5月までという短期間で終わった。も

ともと大学受験をするための受験勉強をしたいと思っていたことに加えて、アイドル活

動と並行して応募した、「ミスiD?2018」の選考が進んでいたことも関係している。

「ミスiD」は講談社が主催するオーディションで、「まったく新しいタイプの女の子を

発掘し育てる」ことをテーマに掲げる。応募したときには少年院の話は伏せていたが、4

000人が応募するこのオーディションで最終審査に残ったときに、戦慄さんは腹をくくっ

た。

「私は破天荒な感じなんですけど、もともとのーぷらん。はキラキラした感じでなじめ

なかったし、ここにいても私はアイドルとしてステップアップできないなと思ったので

、大学受験もあるのでやめさせてもらいますと伝えて、脱退しました」

迎えた2017年11月、多数の審査員を目の前にして開催された最終審査で、戦慄さんは幼

少時の虐待の体験、非行と少年院の話を、赤裸々に語った。

「なにかつめあとを残そうと思ったら、それくらいしかなかったんですよね(笑)。少

年院っていうのは、さすがにひかれるかなと思ったけど、もういいやって。やりたいこ

とがあったから、そのために話しました」

前代未聞の告白に、審査員も衝撃を受けたのではないか。それは、戦慄さんに「サバイ

バル賞」を授与したことからもうかがえる。

今、振り返れば「サバイバル賞」は、戦慄さんの人生を表すような表彰だった。「ミスi

D」の最終審査の後、受験勉強に専念した戦慄さんは、見事に誰もがその名を知る有名私

立大学に合格。ネグレクト、非行、少年院での1年8カ月を乗り越えて、自力で大学にま

ではい上がったのだ。ひどい虐待などを受けながら生き残った人を、「サバイバー」と

言い表すが、戦慄さんはまさにサバイバーだろう。

19歳のアイドルが目指すもの

今春、晴れて大学生になった戦慄さんは、一時休止していたアイドル活動を本格的に再

開する。現在は母親、妹と同居中。少年院時代にイヤになったほど過去と向き合ったか

ら、母親を憎む気持ちは薄れたが、わだかまりがとけるはずもない。早くアイドルとし

てひとり立ちするために、ピアノ、作曲、ダンスなど9つの習いごとをしているという。

同時に「やりたいこと」を実現するために動き出している。彼女が目指すのは、「今ま

さに虐待されている子どもたちを救うこと」だ。

「少年院に入ったら、虐待されていた子が結構いたんですよ。でも、虐待を受けている

子自身がSOSを出すのって、すごくハードルが高いんです。私自身、虐待されてるときに

は外に助けを求められなかったし、自分が虐待されてると気付いてないパターンも多い

んです。だから、周りの大人が目を向けてあげることが大事だな、と思っていて。たと

えば、私の家にはおカネがあるのに、私と妹は貧困状態でした。そういう現状があると

いうことを発信したり、虐待されている子どもたちを助けられるような活動をしたりし

ていきたいんです。でも、この話だけすると、怪しいでしょ。だから、ミスiDの最終審

査で、自分の経験を話しました」

こう考えるようになったきっかけは少年院時代。もともと、カウンセラーに興味を持っ

ていた戦慄さんは、少年院に入って先生に出会うことで立ち直った。だから、1度は法務

教官になりたいと思っていたが、アイドル活動をしているうちに、大勢のファンができ

た。その人たちは、アイドルとして飾らない、「素の自分」を応援してくれている人た

ちだ。それなら、法務教官ではなく、アイドルとして手にしたファンの力、影響力を使

って、虐待を受けている子どもたちを救いたい。そう思ったのだ。

この活動は、ひとりでできるような活動ではないことを、戦慄さんは理解している。だ

から、大学で法律の専門知識を身に付けつつ、協力者を得ながらこの活動をNPO(非営利

組織)化して、クラウドファンディングで寄付金を募るという計画を立てている。

「いずれはこども食堂みたいな場所を設けるでもいいし、お母さんが帰ってこない子た

ちにお弁当を送るでもいいし、そういう活動をしていきたいと思っています」――。

唐突だが、「戦慄」という言葉を調べると、「恐ろしくて、身体が震えること」(デジ

タル大辞泉)とある。インタビューの最後に、「なぜ戦慄というアイドルらしくない言

葉を名前に使ったのですか?」と尋ねたら、戦慄さんは楽しそうに笑った。

今度は子どもたちを救い出す

「あまり深く考えていなくて、ヤバいやつ、ぐらいの感覚で選びました。響きが面白い

し、戦慄っていう苗字はほかにいないし。でも、よく考えたら、戦慄ってホラー映画と

かお化け屋敷とかにしか、使われないですよね。ちょっとしくったかもしれない」

戦慄かなの、19歳。

子どものころ、虐待におびえ、それでも生き抜いてきたアイドルが今、虐待に「戦慄」

している子どもたちを、どうにかして救い出そうとしている。自らの人生とその活動を

印象付ける意味で、戦慄かなのという名前は、今後、これ以上ないほどのインパクトを

持つだろう。??