パラリンピックが理解される中での開催が求められます!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 ニュースにおいて、障碍者雇用の水増しがそこここで指摘されています。

 戦後、障碍者が街に出ることが出来るようになってきたことも大きな

転換点となりました。

そして職場が得られるなんて考えられない歴史もありました。

いろいろな法律に守られながら生活の豊かさを

得られるようになっても来ました。

でもこのような人はほんの一部でもあるといえるのではないだろうか!

 NHKのラジオ深夜便の4時台に「エム  なまえ」が 

出演しておられました。

mさんは2型糖尿病で幼いころから発症しながら

34歳に目の症状に病床が発症したとのことでした。

クリスチャンのお医者さんから

「失明は神様からあなたが選ばれたのです」と告げられ

悶々とした日々の中、突然神のくだりを感じ

この条件の中を素直に受けれて生きることへの

スイッチが入り、それからは絵を描くことから

作家で生きることにその活路を見出したという。

 透析を受けていたところの看護士さんがマンションにきて

「私が目のお手伝いをしたい」と申し出てくれたのが今の妻という。

その人に絵を描く子ことを進められ

最初に書いた猫を喜んでくれたことが

絵筆を握るきっかけともなった。

 エムさんのお声はとても明るくそのお話しぶりからも人生の充実感が

満ち溢れていました。

人はだれかに理解してもらえるだけで生きるための大きな支えとなるに違いない。

障碍者理解が進まない中で共に信頼できる同僚としての

仲間づくりはできるのだろうかと?

 3500人近くの雇用が確保されたとして

窓際族にならないのだろうかとも案じられます。

雇用者としての上司の意識レベル、モラルジー

左右される問題なのではないのだろうか?

   mなまえさんの引用文です。

1948年、東京の、ごく一般的な家庭に生まれる。

 本名、生江雅則(なまえまさのり)。

 幼年時代から自己主張が強く、まだよく歩けない頃より口が達者だった。祖母

に背負われながら、よく歩けないにもかかわらず、背中から祖母に忘れ物を指摘

したり

行き先を指示したりしていた。

 幼年時代よりの鮮明な記憶があり、それが母親よりも正確であることは周囲が

証明している。3歳から意識的に絵をかいていた記憶がある。記憶の最初にある

のは寄

席の絵。また、どの絵をどのように、どんな気持ちでかいたか、いちいち覚えて

いて、

それが失明後の人生に役立つことになる。

 目白のキリスト教系列の幼稚園に入園する。だが、そこで、みんなと同時に同

じことをさせられる毎日の連続に納得ができず、自分の意志で中退した。小学校

に入学

した直後から、学校内部で絵や作文の才能を高く評価されるが、小学校の、みん

なと同

じことをさせられる団体教育にも抵抗を感じていた。そこでおしゃべりばかりし

ていた

ら父兄参観日があり、父親から厳しく叱責され、庭で一晩を過ごせと命じられる

。それ

以後、仕方なく模範生徒になろうと努力する。

 新宿区、庶民文化にあふれた下町に育ち、そこの小学校、戸塚第三小学校に1

0歳まで在籍するが、父親の転勤で転居、転校する。10歳からの少年時代を経

済と政

治の中心、千代田区の皇居近くで暮らすことになる。日本最大の繁華街、銀座界

隈で少

年時代を送り、都会生活を満喫した。当時の遊び場は日比谷公園や有楽町そごう

デパー

トだった。

 転校先の永田町小学校や進学した麹町中学校は国会議事堂や首相官邸を間近に

した、当時の最高レベルを誇る進学校であった。そのため、一時は著しく成績が

低下す

るが努力。中学で学力を取り戻し、エリートコースを目指したこともあったが、

中学時

代後半に表現者としての自我に再び目覚め、「独立自尊」を理念とする私学、慶

応義塾

を目指し、その付属、志木高校に入学する。

 都会に生まれ都会に育ち、都会生活を心から楽しむ少年時代であった。独立心

が強く、単身で電車に乗り、東京都内、どこへでも出かけていった。どこにいっ

ても、

そこの大人たちから愛され、幸せな少年時代であった。また、鳥や動物をこよな

く愛し

、都会に共存する小さな自然にも親しんだ。自然科学にも興味を示し、動物園や

科学博

物館、プラネタリウムなどを熱心に訪れた。人生の大半を都会で過ごしたが、幼

年時代

から父親の郷里である裏磐梯高原や群馬県や埼玉県の山岳部に暮らす親戚の家に

繰り返

し長期滞在し、本物の自然に深く接する機会にも恵まれた。

 進学した慶応義塾志木高校は創立当初は先進的な農業高校を目指した独創的な

教育機関で、そこでのユニークな高校生活は以後の人格形成を決定する。自由な

教育と

豊かな自然や人間関係に恵まれ、充実した3年間を経験した。その頃、音楽や文

化とし

てのビートルズに出会い、特に音楽家としてだけではなく、詩人や画家としての

ジョン

・レノンに大きく影響される。1966年のビートルズ東京ライブの体験は永遠に忘

れられ

ないものとなった。

 音楽を愛する高校生ではあったが、片時も絵をかくことを忘れたことはなく、

美術部では油絵制作に専念していた。あるとき、漫画家やなせたかし氏の著書に

より、

イラストレーションは絵で表現するポエムであることに気づかされ、将来のイラ

ストレ

ーターを志すことになる。また、当時、アルバイトをしていた出版社で子どもの

絵本に

触れ、その表紙、杉田豊氏のイラストレーションの水準の高さに驚き、子どもが

初めて

出会う本としての絵本の存在価値の素晴らしさに目覚めた。

 1967年慶応義塾大学法学部に入学。大学の漫画研究会に所属し、法律と漫画を

同時に学ぶ。というのは世を忍ぶ借りの姿で、本当をいうと、入学してすぐに法

律には

興味がなくなっていた。その頃、漫画やイラストレーションがすべてであった。

また、

絵本への興味が深まり、文学部図書館情報学科教授、渡辺茂男先生の児童図書の

講義を

選択し、そこで学ぶ。1968年には学生ロックバンドのボーカリストとしても活動

する。

音楽業界からの誘いもあったが、結局は絵の道を選ぶことになる。

 1968年、最初の絵本、「雪の坊や」を自費出版する。物語は都会の自然を題材

にしたもので、当時から環境問題をテーマにしていた。1969年、最初の個展「空

」を開

く。展覧会全体のテーマはやはり環境問題だった。複数の編集者に作品のテーマ

と色彩

の美しさを認められる。1970年、慶応義塾大学法学部在学中よりプロのイラスト

レータ

ーとしてデビューすることになった。

 イラストレーターとしてデビューしてすぐに多忙となり、大学は中退する。197

2年の頃より児童図書の出版社からの依頼が多くなる。1973年、童話「みつや君の

マーク

x」のイラストレーションを担当。この作品は文章とイラストレーションが相互

に作用

してストーリーが展開するもの。記念すべきは、この童話が慶応義塾教授、絵本

のお師

匠である渡辺茂男先生によるものであったこと。1974年、最初の絵本「ざっくり

、ぶう

ぶう、がたがた、ごろろ」のイラストレーションを担当。(この絵本は英訳され

、米国

でも出版された)以後、絵本作家として本格的な活動に入る。失明まで、約60冊

の児童

図書を手がける。いくつかの作品は高く評価され、絵本賞の最終候補に残るが、

残念な

がら受賞には至らなかった。

 1972年より1983年まで、毎年のように海外を旅する。1972年は単身で3か月ヨ

ーロッパを放浪。これが人生最大の夏休みとなり、貴重な経験となった。ヨーロ

ッパに

は1976年、1978年にも長期滞在。また、1977年、1980年に訪れた東アフリカ、ケ

ニヤの

自然と人々に深く魅了され、その体験はいくつかの絵本に反映された。また1980

年に訪

れた北京が最も興味深い都市であった。ハワイやグァムにもいったが、失明前に

米国本

土を訪れることはできなかった。

 1980年、ジョン・レノンの死に多大なるダメージを受ける。その直後からエム

ナマエにとって彼の存在は神と同格となる。それからの夢は、ジョン・レノン

仕事の

百万分の1でもいいから引継ぎたいという願望になった。それは彼の歌う「イマ

ジン」

に現れるような世界の実現への貢献である。これがエム   ナマエにとって

「地球

教」への目覚めとなった。

 1983年、視力と体調の低下のため病院を訪れた所、糖尿病と診断される。少年

時代から病んでいたらしい。直ちに入院。そこで近い将来の失明を宣告される。

糖尿病

の克服に全力を注いだ結果、病状は著しく改善され、その年末からイラストレー

ション

の仕事に復帰できた。しかし、翌年1984年、再入院。視力が著しく低下していっ

た。半

年の入院生活で人生最大の苦難と絶望を味わう。

 1984年クリスマス、担当のクリスチャンである眼科医師はエム ナマエを病院内

の個室に招き、「あなたは神に選ばれたのです」と伝えた。退院直後の1985年新

年5日

夜明け、眠れずに苦悩していたエム   ナマエに朝日と共に突然神からの啓

示がく

だる。瞬間的にそれが創造主であることを悟る。そこで宇宙の存在すべてが神よ

り無限

の愛を注がれていることを知り、愛の存在がくれる運命なら感謝して受け入れよ

うと決

心する。そこから世界がまるで新しく見えてきた。

 1985年夏、失明後も表現者として生きる道を選択する。イラストレーターから

文筆家への転身を決心。その準備を開始する。白い紙にボールペンで自分では見

えない

文字を書き、長編SF小説を完成させる。これで未来への手応えを獲得した。

 1986年2月、完全に失明。同時に人工透析を導入。しばらくは失意の底にあった

が、すぐに失明前の結団を取り戻し、ボールペンを握り、作家デビューに全力チ

ャレン

ジする。その年末、自分では読めない文字で長編SF童話を完成させる。1987年

、その

作品を推敲する。1988年、作品は処女長編童話として出版される。1989年、作品

は児童

文芸新人賞を受ける。以後、童話作家としての本格的執筆活動に入る。

 失明直後、一方的な理由でふたり目の妻から離婚を要求され、それを認める。

以後、両親や友人、先輩の協力のもとに作家活動を続けていたが、1987年、現在

の妻に

出会い、交際を始める。1990年、周囲に祝福され、キリスト教会で結婚式をあげ

る。結

婚の記念に失明後初めてかいた絵を版画にして友人らにプレゼントする。その作

品がジ

ャーナリズムに取り上げられ、話題となる。メディアにより、作品とエム  

ナマ

エの活動は一般に知られるようになる。しかし、もともとこれらの絵画作品はエ

ム ナマ

エとの結婚を決意してくれた妻に楽しんでもらうためだけにかかれたものであっ

た。

 1990年、展覧会の要請を受ける。そこで妻だけを楽しませる作品ではなく、普

遍的価値のある作品制作を志す。全盲でも観賞可能な作品が制作できることを実

現して

、人間の可能性を形で示したかった。そこで役立ったのが、いちいちの絵に対す

る記憶

であり、また自分の内部にあるカラフルなイマジネイションであった。作品制作

に当た

っては周囲の友人や当時のアシスタントがサポートしてくれたが、やがて妻とふ

たりだ

けで制作するようになる。しかし、妻は単なるサポーターであって表現者ではな

い。作

品は飽く迄も作者個人の純粋創作である。

 1990年、以上のような経過で全盲イラストレーターとして復活。秋には「障

害者アートバンク大賞」を受賞。失明後、最初の個展では、ほとんどすべての作

品が売

れてしまった。以後、全国で展覧会を開くようになる。

 1991年、最初の画集を出版。その後、次々に画集や絵本を発表する。1992年、

第一線で活躍するイラストレーターに与えられる「サンリオ美術賞」を受賞。障

害者ア

ーティストとしてではなく、普通のイラストレーターとして認められる。1995年

、「日

本地方新聞協会ブロンズ賞グランプリ」を受賞。これはその年最高の出版物に与

えられ

る賞で、創作意欲はますます盛んとなる。以後も童話、エッセイ、ポエム、イラ

ストレ

ーション等、他方面で活躍。

 1998年、ニューヨークで個展を開催する。そのとき、サムソナイトに潜ませて

持参した失明後の版画「イマジン」(イメージ・ジョン・レノン)がカーターズ

社との

奇跡のドラマを展開させていく。天からジョンが導いてくれたような奇跡と偶然

のドラ

マ。そして2000年、エム   ナマエの作品は子供のための総合コレクション

にアレ

ンジされ、ジョン・レノンのそれと並んで全米に展開された。発売直後の一週間

で記録

的な売り上げ成績をあげる。

 二千年期最後のジョンの命日、エム ナマエはジョン・レノンミュージアム

オフィシャルコンサートで歌うことを許される。少年時代からの夢、世界に通用

する画

家になりたい夢。ジョンが凶弾に倒れたときからの願い、その仕事の百万分の一

でもい

いから引継いでいきたい。それらの夢が二千年期最後の年に形となった。「夢は

現実の

卵」。エム   ナマエのこの言葉は、その通りに実現したのである。

 さあ、いよいよ三千年期に突入した。これからどんな時代を築いていくのか。

ひとりひとりで考え、ひとりひとりで実行し、そしてよりよき結果が導かれるよ

う、実

践と討論を繰り返し、そして調和と融合を大切にしながら、新しい未来を模索し

ていき

たい。これから自分たちの選ぶひとつひとつの道が次の時代を開くのだから。