臓器移植いただいた方々の手記です。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

臓器移植いただいた方々の引用文です。

「親子が集う子供センターでの突然のできごと」

 次男がベビーカーから転落し、頭を強く打って泣き叫びました。脳しんとうを起こしてるかもしれないとのことで、現場に居合わせた子どもセンターの方が救急車を手配してくださいました。

  すぐに救急車は来ましたが、事故発生から病院までの20分間、車内でのうなり声と痙攣は治まることはなく、到着後息子はすぐに手術室に搬送されました。・・・どれくらいの時間が過ぎたでしょう。泣き叫ぶ私を看護師が支えてくれたことだけは記憶しています。

 夫が到着しても手術はまだ終わりませんでした。1時間・・・2時間・・・3時間・・・気付けばあたりは闇に包まれていました。乳児集中治療室(PICU)に案内され、やっと会えた息子は裸で、小さな体にいくつものチューブや針がつながれ、あちこちに血が点々と付いていて、とても正視できない姿でした。脳しんとうじゃないの?血なんか出ていなかったのになんで?なんなの?夢?私は恐くてずっと泣いていました。

 息子はそのまま二度と目を開くことはありませんでした。頭部を強く打ったことによる、脳内出血だったようです。手術室から出てきた時に、息子の体に付いていた血は、脳内出血による脳の圧迫を防ぐために頭蓋骨の一部を切り、溜まった血液を外に出したためだったのです。

  事故から数日間、毎日「今日が山だ」と言われ続けた息子は日を追うごとにさらに続く出血によって脳が押し潰されていきました。5日目だったでしょうか。脳死状態であるという診断がくだされました。つまり回復の可能性は無くなってしまったのです。脳死になってしまったら、もう生きてはいられないのです。

 母を怨んでかまわない。母を呪ってかまわない。母を嫌ってかまわない。腕を落とせと言われたら落とせる。なんでもするから、なんでもするから、神様助けて!・・・私の願いは届きませんでした。あの時・・・あの、病院に運ばれた日、手術室で息子の心臓は一度止まり、   20分も心臓マッサージをしたそうです。きっと、お別れをいいに、少しの間だけど、戻って来てくれたんです。そう思わせてください・・・。

hearty「臓器提供で生きる道に気づく」

 息子は1歳の誕生日を前に臓器提供者になりました。臓器提供は、日本ではまだ偏見が多いようですが、私達は決して恥じないし、隠さないし、親として誇りに思っています。

  助かる道があるなら、どんなことでもしてあげたい、私と同じ思いの親御さんは世の中に溢れています。移植さえできれば助かるのに、提供者がいないのが現実。目の前に見えるのは死ばかり・・・そんな悲しいことってありますか?

 息子の脳が移植できるものならなんでもします!私の脳が使えるなら使ってください!でも・・・脳は移植できないのです。そう思ったら、生きるチャンスのある人達を救えるのはこの子しかいないんだと思いました。だって、この子の体は綺麗なんだもん。すべて新品なんだもん。なのに、なのに、あとは燃えて骨だけになっちゃうなんて・・・

 提供を決意したのは私の母親の一言がきっかけでした。

  私の母親が親代わりとなって娘のように可愛がっていた従姉が亡くなった時医師に言われた言葉・・・「娘さんの臓器を提供してくださいませんか」母は、死の直後に言われたこの言葉にとてもショックを覚えたそうです。医師に対して怒りさえ感じたと。

  「だから、またあの時みたいに孫に対してこの話をされたら、胸が苦しい。孫のからだが切り刻まれるようなことを言われると思ったら、お前には同じ悲しみを味わって欲しくない」と涙ながらに話してくれました。

  15歳未満の脳死臓器提供ができないことや、臓器提供に対する医師からの願い出がないことは当時の私達は知りませんでしたから。母は「また、願いだされるのでは・・・」と思い、私に対する優しさから話を先に切り出してくれたのだと分かりました。

 事故のショックで提供の2文字なんてまったく頭をよぎらなかった私は、この言葉を聞いて傷つくどころか、「息子が生きられる?生きる道があるんだ。」と驚きました。私は母親に「辛い過去なのに、話してくれてありがとう。そんなこと考えもしなかった。でもね、お母さん、私はそうは感じないな。もしこの子が今移植を待っている側だったら・・・どんなに助けて欲しいだろう・・・。」そう言った私に母親もまた驚き、考え方が一転したとのことでした。

「息子の人生はこれで終わりじゃない」

 しかし、いざ主人に話を切り出すには正直とても勇気がいりました。

  「切り刻む」・・・この言葉が頭から離れなかったからです。数日間医師に移植の現状を聞いて、心臓が停止した後の腎臓や組織の提供ができることを知ったり、自分なりに調べ悩んだ後、話をする決意をしました。

  最初は「冗談だろ。」と言っていた主人も私の話が真剣なものだと分かってくれ、「考えさせてくれ」と。数日後に「俺もお前と同じ考えだよ。」と言ってくれた時の安堵感は今でも忘れません。その後、私達の両親へも伝えました。1人でも反対する者がいれば、やめようと思っていましたが、反対どころか私達の意見に温かく応えてくれました。

 あの子の人生はこれで終わりじゃない!これからが始まりなんだ!と私達は提供を決意したのです。提供を決意した後も、様々な壁がありました。体が小さくて臓器が未発達なことや体への傷跡。コーディネーターからの説明や提供の意思を幾度と確認しあい、いよいよその時はやってきました。提供後の息子を見るのは、本当はすごく怖かった。お腹はペタンコ?傷跡は痛々しいの?

 いいえ、それは私達の思い違いでした。お腹に1本・・・ボールペンで線を引かれたの?と聞きたくなるようなものでした。痛々しいどころか、息子は今まで見たことのないとても優しい天使のような寝顔をしていました。

  提供する時にできる傷に対して、私のように痛々しい想像をしている人はたくさんいると思います。ですが、一人でも多くの方が「へぇ、お腹に一本線なんだ・・・」と言うことだけでも知っていただけたらと思います。

  息子が天使になってから1年が過ぎました。あの子、今動いているんです。50代の男性に移植された息子の腎臓は毎日おしっこを作り出しています。   15年も人工透析と戦っていた方だそうです。そして、息子よりもっと幼い女の子に移植された息子の心臓弁は、毎日鼓動を鳴らす手助けをしています。

天使になったあなたへ

 急におじいちゃんより年上になったり、女の子になったり。あなたの人生は波乱万丈ね。正直、お母さん達はあなたに会えなくなって毎日とても寂しくて、1日がとても長くて、あなたと過ごしていた時間をどうやって過ごせば良いのかとあれこれ用事を作っては走り回っています。でもね、お母さん達はいつもあなたの側にいるからね。あなたがいるから頑張れる。

 もしあのままいなくなっていたら・・・悲しみしか残らなかったかもしれない。あなたが生きているということが私達の生きがいです。あなたが新しい命をつなげた時、腎臓移植をした方はその日が誕生日だったということを後から知り、驚きました。

 そして、「あなたの誕生日でもあるんだ・・・」とあなたの第2の人生を心から応援できると思いました。悲しみだけで終わらなくて本当によかった・・・。あなたがお母さん達のところに生まれてきてくれて本当に嬉しいよ。ありがとう。  

手記2

「本人の意思を継ぐ・・・その思いだけで臓器提供を決意」

 亡くなった娘は二人姉妹の次女です。長女は金融機関に勤めていて、窓口に意思表示カードを置いていたそうです。次女が病院に運ばれた時、本人がそのカードを持っていることなんて知りませんでした。

 主治医から次女の状況が大変厳しくて脳死状態だと聞いた時、長女が言いました。「妹は意思表示カードを持っています。」主治医からは、実際にカードがないとだめだという返事。「持ってくる。」妻と長女はカードを取りに家に戻りました。

 カードにはサインがきちんとしてありました。カードに署名した日は、私の母の三周忌にあたる日だったのです。何か思いがあったのでしょう。私達家族は話し合いました。「どうしようか。こんなにきちんと書いてあるんだから意思を叶えてあげようか。」「いいよ。」「叶えてあげましょう。」

 私達は、それまで臓器移植について何も知らなかったのです。今までの脳死での臓器提供数を聞いて、その少なさにもびっくりしました。何も知らずに決意した私達には、その後カードの重み病院の慌しい状況、マスコミが押し寄せてくることなどまったく想像できませんでした。

    娘のからだはまだ温かく、かわいい顔をしていましたが、人工呼吸器によって呼吸をさせられているだけでした。病院に提供の意思を伝えた後の夜中、初めてコーディネーターに会いました。

  「提供意思に変わりありませんか。」「ありません。」このやり取りを何度重ねたことでしょう。やるからには、厳しい状況に耐える覚悟があることを家族で確認しあい、気持ちを微動だにせず、しっかりとコーディネーターに返事をしました。

 本人の意思を継ぐ・・・その思いだけで決意しましたが、7人の方に臓器が提供できると聞き、娘という宝石箱から7つの宝石が散っていき、7人の方々の中で輝き生きていく、それでいい、と思いました。

hearty2「家族と医療者が協力、信頼し合うことの大切さ」

 名前は公表しないで欲しい、クーラーボックスの撮影もやめてください、このような2、3の条件を申し出ました。コーディネーターはしっかり伝えてくれて、実際には守られたのですが、『関東の女性』が脳死で臓器を提供するという情報は、またたくまに『東京の20歳代の女性』というように、細かな内容でほとんどのメディアに流れていました。

 病院の出入り口はマスコミだらけで、私達の行動は規制され2日間は缶詰状態でした。私達家族はびっくりして「こんなことでいいのだろうか。」と思いながらも、ドラマを見ているような感覚にさえなりました。

 こんな状況の中、脳死判定の時間、2回目の判定をするまでの6時間、ただひたすら長く感じましたが、静かに待ちました。

 コーディネーターは逐一、報告してくれました。肺の状況がとてもいいこと、心臓は大阪の患者さんに渡りそうなこと、何もかも伝えてくれて、それはとても信頼できるものでした。家族と病院とコーディネーターの三者が一体となって、互いに協力し合い、信頼し合うことの大切さを痛切に感じました。

 提供が終わってもマスコミが多くて、すぐには娘を家に連れて帰れなかったので、霊安室に移ることにしました。狭い部屋でしたが、コーディネーターが花を持ってきてくれて、病院で働く百数十人もの人がお線香をあげに来てくれたのです。霊安室にいる多くの人が娘の行為に感銘してくれていましたし、私達もその光景に心から感動しました。「いいことをしたね。7つの宝石が輝いていることをいつも心の中で思いながら、私達もこれから頑張って生きていこう。」と。

「七つの宝石箱の輝き」

 肺を移植した人の映像がテレビで放映されたことがあります。一つの命が失われるとき、本人のカードと家族の同意によって20年間病に苦しんでいた40歳代の女性をどれだけ輝かせたかを見ることができました。この姿こそ、娘の宝石箱の輝きに値するのです。これほど元気になった姿に私達は感銘しました。

  娘の宝石箱のひとつ肺の移植を受けた方からお手紙をいただきました。『大事にします。今はそれしか言葉がみつかりません。生きるという何にも変えがたい尊い贈り物を、私の命と共に歩いてくださる希望をいただきました。大事にします。大切にします。ありがとうございました。』

 心臓を移植した方のカードもいただきました。これも私達の宝石箱です。7人の方やそのご家族からコーディネーターを通じて情報やお手紙をいただくことが、一番の楽しみです。宝石箱の輝きを確認し、娘の功績を多くの人に喜んでもらっていることに感銘し、そのたびに勇気づけられるのです。娘もきっと喜んでいるでしょう。

  娘が亡くなって1年経ったとき、肺移植をした方のレントゲンを見せてもらいました。「娘は生きている」と強く感じました。私達は、淋しくありません。7人の方の中で輝き続けているのですから。

 厚生労働省から届いた1枚の感謝状には「崇高なる行為に対して」という言葉があり、その行為の気高さを痛切に感じました。娘のお別れ式では、写真の周りにいっぱいの花を飾りました。250人くらいの若い人達が集まって、カーペンターズの曲が流れる中、パーティー形式で見送りました。

  「娘は立派に生きているので、これは旅立ちなんです。」皆さんにそう伝え、娘を乗せた車が出るときには拍手をしてもらいました。火葬場で真っ白な骨になった時、「いいことしたなぁ。」と声をかけてやりました。「何もしなかったら、とても寂しい思いをしたかもしれないのに、7つの宝石を先に取り出しておいてよかったなぁ」と。