曽野綾子新書 『納得して死ぬという人間の務めについて』

               ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 86歳の〈曽野綾子〉だからこそ言える言葉もあろうというもの、。

 5人もの家族と住み、その看取りまでも自宅で送ってこられた

いわば看取りは日常茶飯事と受け入れてこられた。

このような人はいくらなんでも少ないと思える。

また同時にお幸せな家族であったことだろうと思えたりもします。

 誰にもに訪れる死の訪れは

いつ何時訪れるかもしれません。

これはうまれてからすぐにびょうまとのたたかいもあろう?

 延命措置のおかげで100歳を超えてもなお、延命措置のおかげで

ベッドにくぎ付けになっておられるお方も

多くおられるはずです。

曽野綾子さんが記された「納得して死ぬ」これは難しい課題でもあります。

今のお年寄りが「死にたい」言いつつ医者通いは書かせられません。

これはい期待の裏返しなのか

それとも楽に死にたいがための延命なのか

 みこちゃんはわが人生のendingは決めています。

できるだけ医者にはかからない。

食欲が落ちてもそこから1か月の苦しみを乗り越えた先に静かなる旅立ちができるので

はと覚悟も新たにもしているところです。

つい先日の食あたりで空えづきするほどの

嘔吐には閉口した経験もあり

少々の覚悟では乗り越えられないこともシミレーションできたようでもあります。

 死ぬることは、生かされている時間の有効性が

深く問われているのだろうと思っています。

不自由さを感じながら生かされる過程を、どう受け入れて生きるかの選択にあると老後

におびえるのではなく

不自由さを受け入れてもなおも聖なる目標だけは

掲げて感謝の日々と結び付けたいものです。

 曽野さんはご主人の家出の看取りまですでに作品として世にも

出ています。

この本に触れ、ご主人が入院ののち我が家に替えられ他ご主人の輝かしいほどの

絵がをのくだりに接し

「わが家が一番」が表現されていました。

終末にはすでに認知も来ておられ

旅立ちは苦しむこともなく眠るがごとくに旅立たれたとのことでした。

 曽野さんはご主人の愛用のものはと他ずれられたとき

迷うことなく「私でしょう」と答えられたようです。

本当に素晴らしいご家族拝見でした。

     産経より。

曽野綾子さん新刊『納得して死ぬという人間の務めについて』 与えられた時を分相応

に (2018年7月4日 09:25)

 誰もが迎える「死」と、人はどのように向き合えばいいのだろうか。作家の曽野綾子

さん(86)が『納得して死ぬという人間の務めについて』(KADOKAWA)を刊

行した。

 曽野さんは昨年2月、夫で作家の三浦朱門さんを91歳で見送った。自宅での介護、

最期の別れを受け止め、いずれ自らに訪れる死にも踏み込んで描いているのが印象的だ

 《彼が一番「携行」したかったものは、湯飲みでも、愛用の万年筆でもなく、多分私

だったろう》

 朱門さんの棺(ひつぎ)に、好きなものを入れてあげてと促されたときの思いだ。6

3年あまり連れ添った夫婦の絆がしのばれ胸をつかれる。

 「三浦朱門と私は、本当によく話した。好みもいろいろ違い、けんかもしましたが、

何でも二人で解決できると思っていた。今は一人でやらなければいけないので、それは

ずいぶん違います」

日常性取り戻す

 曽野さんは幼稚園から大学まで聖心女学院に学び、「人生は単なる旅路にすぎない」

「人生は永遠の前の一瞬である」というカトリックの死生観に親しんで育った。空襲も

体験し、長じては、実母と夫の両親の3人を自宅でみとり、死について考えることは日

常茶飯事だった。それでもなお、最愛の夫の死に際して、《これまで、私は死について

観念で書いていた》と記す。

 この部分は、朱門さんが亡くなった晩に執筆した。あえて筆を執ったのは、「日常性

を取り戻したかったから」だという。20代から書き続けてきた作家ならではの心の計

算だろう。

 曽野さんが繰り返し訴えるのが、「今を謙虚に、死を意識して生きる」ことだ。

 年配者に限らず、子供ですらいつ死が訪れるか分からない。人生の持ち時間を、だれ

も計算できない。それは人間を思い上がらせないための神の差し金ともいえる。「分相

応」に、すなわち「自分にできること」で、与えられた時間を大切に使うことだ。

死の教育を提唱

 かつて、曽野さんは臨時教育審議会(昭和59年)、教育改革国民会議(平成12年

)で「義務教育で死の教育を」と提唱したことがあった。「現代は家で死ぬ年寄りもい

なくなり、死が遠ざかっている。でも、死は特別なことではない。幼い子供にも、いつ

か自分も死ぬこと、父母や兄弟姉妹も死ぬことを常に教えなくてはなりません」

 とはいえ、死生観を身につけた曽野さんですら、「長生きするのは怖い」と話す。人

の世話にならなければならないからだ。

 一方で、時間があって自由に生きられる老年期こそ、学ぶのに最適な年月だとも説く

 《勉強の楽しさというものは、魂の空間に、今後の思考の足しになるようなものを満

たしていくこと》

 「100歳過ぎまで生きていたらどうしようと思います。でも、そのときどういう心

理になるか、書けたら書き留めておきたい」(永井優子)