オーム死刑執行者【新見智光】

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 オーム死刑執行者  新見智光

 オーム事件の死刑囚の中でも、マインドコントロールから目覚め切れていない

人物ともいえるのかもしれません。

 それぞれの人生観は多岐にわたります。

家族背景にも、問題もなく経済的にも不安要因の少ない人が青春期から、宗教に目覚め

るなんてどうしたことでしょう。

オカルトにも興味を寄せ、入信するも

思う宗教心とは異なるところから奪回し

しばらくは宗教から離れるが大学三年の時また宗教を友に進められ

入信するがそれも奪回。

 新見の神のレベルは同等といった考えに固執

オームに入信し、松本を教祖とあがめるようになり

神のもと、犯罪さえも神の教えとばかり

迷うことなくオームの主要犯となっていく

 新見が犯罪の罪をそのまま罪として受け入れているかどうかは

甚だ疑問としか言えない。

 サリン被害者で今なお毎日生き絶え絶えにお暮らしのお方のことが少しでも思いがめ

ぐらすことの日のできる日を ひたすら待ちたいものです。

罪深さを受け入れられる中での死刑が求められます。。

 死刑は執行はされましたが、多くの罪悪の認識度はどうであったのだろうか?

   今は亡き新見の単価です。

人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく

雨が降り 天が泣くのか 水無月に 大地うるおす 慈悲の甘露

歌には不思議な魔力を感じております。

39年)資源回収業の両親の元に愛知県岡崎市にて生まれる[2]。

少年期、青年期[編集]

岡崎市内の小学校、中学校、愛知県立の高校を卒業。高校時代よりオカルト雑誌を愛読

。複数の新興宗教に通う[2]。学生時代は、その風貌から「空海」というあだ名をつけら

れたこともある。友人に恵まれ学生生活を楽しむが、生まれつきあった口唇の傷(口唇口

蓋裂)に苦しみ、いじめに遭う[3]。さらに高校生時代に地元の東岡崎駅で目撃した2度の

自殺事故に衝撃を受け[4]、「死とは何か」を考え精神世界に興味をもつようになり、多

くの宗教団体に入信する。麻原の言う「苦を感じなければ修行の道に入らない」との鉄

則を高校時代から感じていた。

高校時代に、傷や病気が治ると信じ、ある宗教団体に入信するが、教義は「入信しない

者の魂は、神の意思によって滅ぼされる」というものであった。新実は、そこには何ら

神の愛はない、単なる神のエゴイズムに過ぎぬと感じ脱会する。これは新実にとって、

最初の宗教への挫折となる。

読書に打ち込んだり、仙道的なことや瞑想を行うが次第に宗教から遠ざかり、空手など

肉体的鍛錬に興味が移る[5]。

大学時代・オウムとの出会い[編集]

その後、愛知学院大学に入学。友人の勧めで大学時代の終わりに、再び別の宗教団体に

入信するものの、同様に「よいことをしない魂は滅びる」との教義に「存在というもの

は、この神々の将棋の駒に過ぎないのか、いつでもその神々の意思によってなくなるの

だろうか」との思いをいだく。しかし、新実は「私は決してそうではない、私たちには

本当の力があるはずだ、神と同じレベルの魂が内在するはずだ」と感じるに至る。この

ため、神が持つとされる霊力を自分自身も持ちたいと考えるようになる。

このときにオカルト雑誌『ムー』や『トワイライトゾーン』などで麻原彰晃の空中浮揚

の記事が目にとまり[2]、ヒヒイロカネのプレゼントに応募したことがきっかけで、大学

卒業間近の1986年正月、オウムの前身「オウム神仙の会」のセミナーに参加し、すぐに

入会し会員となるが、その際に送られてきた運命鑑定書には、新実が自分では認めたく

ない隠していた内面が書かれていた。シャクティーパットとこの運命鑑定書により、一

気に傾倒を深め行法を続けると赤と青の光が見えるようになり、著しい精神的変化が起

こった。

神秘体験[編集]

麻原彰晃に惹かれたのは、他の宗教の多くが「神の啓示を受けた」とするものが多いの

に比し、麻原は自分自身で修行をし苦難を乗り越えた「どこにでもいるような人」であ

ったからだという。最初のセミナーで、新実はその雰囲気が自分自身が求めていたもの

と直感する。そこでバイブレーションに浸りながら修行することで身体の浄化作用を実

体験し、宿便が出たり、体調の回復を実感する。この神秘体験によって、深く麻原に帰

依するに至る。当初は半信半疑であったもののその考えは180度転換する。

シャクティーパットにより、アストラル体の浮遊を感得し、体が痺れ多大な至福感を覚

える。このときに「麻原に一生付いていくほかない」と確信する。このときの体感を「

生死を越える」に詳しく書いている。麻原に礼を言い、道場へ行くと、突然肉体のクン

ダリニーが昇り、シャクティー・チャクラーが起こる。ムーラ・バンダ、ウディヤーナ

・バンダが起こり、その後背中の方が盛り上がり、首のところでジャーランダラ・バン

ダが起こり、頭の方へすっと抜けた感じがした。これが精神集中やマントラを唱えるだ

けで自分自身で抑えられないほどに、すぐに起こるようになる。新実自身によれば「こ

の霊的な変化が本当に自分の内面で起こったことをきっかけとして、やっと信に目覚め

させてもらった」という。

卒業後は地元の食品会社マルサンアイに就職し営業担当となるが、その後、勤務先でも

上司の信頼を得、新入社員の代表にもなることができ業務成績も優秀で、会社始まって

以来のもっとも優秀な新入社員とまで評価されるようになった[5]。

しかし、その後心が現実生活に向かったため「魔境」に陥り二度も自動車事故を起こし

た。1987年5月のゴールデンウィークの前頃から事故のヴィジョンが見え始める。通常な

ら事故のヴィジョンは否定するが、新実は事故を実際に起こせばどうなるかという気持

ちが沸き起こり、時速120㎞で田んぼに突っ込んだことがあった。麻原のシャクティーパ

ットや霊的な体験によって守られているという自信があったため、死なない確信があっ

た。普通なら否定すべき誘惑に引っかかったと感じ、後にそれを「魔境」で「暴力のカ

ルマ」だったと受け取った。5月に新実は「魔境へ入り込んだ」と信じ込み、会社を半年

で退職。

出家後[編集]

ミラレパ[編集]

1987年9月にセミナーでサンガ(出家制度)が結成されたことを知り、即出家を決意。五

体投地や麻原の手伝いを行う。サンガで麻原の元で修行を積み、11月には魔境から出た

と感じた。先の「暴力のカルマ」は「女性に対してのカルマ」に変化していったと感じ

る。当時の容貌を「強姦魔」のようだったと感じ、潜在意識が表層意識に現れ、心に落

ち着きがなくなったと感じていた。その後、オウム内での本の営業のワークに集中する

ことで魔境から脱したという[5]。

新実はシッディの経験が豊富で、光が見えたり、変化身が抜け出したり、過去世を思い

だすなどの経験があった。空中浮揚の前段階といわれるダルドリー・シッディがツァン

ダリーのセミナー頃から起こりはじめ激しいクンダリニーの突き上げがあった。頭が空

白になり跳んでいる間も意識がない状態を経験するが、それをきっかけにグル・ヨーガ

、ツァンダリーの瞑想を始めサハスラーラに精神集中するだけでぴょんぴょん跳ねだす

ようになる。この時は寝てもたっても跳ね回っていたため、麻原がヒヒイロカネをバケ

ツ一杯持たせたが、それでも飛び跳ねていた。

その後、15日間にわたる独房修行にて三昧境に入り黄色い光に包まれ、意思のヨーガー

であるラージャ・ヨーガの成就者ラトナサンバヴァと同一化して黄色の化身となり、光

の中に没入した状態となり、それを「無ではなく空」の状態と感じ例えようのない至福

感を味わう。その瞑想の最中に麻原からの電話で成就したことを告げられる。この新実

の成就に関して麻原は「最後のエネルギーの固定はまだまだだが、成就と判断したのは

六神通の中で過去世をかなり見た、ダルドリー・シッディが早くから起きている、グル

を意識すると快感状態になるという条件を満たしている」とコメントした[5]。

また、前世に並々ならぬ興味を持っており、他の信者とも前世を話題にすることが多か

った。麻原の4女の松本聡香(ペンネーム)を追い回しては「さとちゃんはどこから来た

の」と聞いていたが、聡香が1度だけチベット密教カギュ派の僧侶の名前を思いつきで

答えたところ、逮捕されたあとに面会に来た信者に伝え広めた[6]。

1987年12月3日、24歳のときにオウム真理教内の独房に2週間こもり、クンダリニー・ヨ

ーガを成就したと麻原彰晃に認定され、大師のステージとミラレパのホーリーネームを

授けられる。

日本語のわかるドーベルマン[編集]

1989年、麻原の指示により男性信者殺害事件に関与。男性信者を羽交い絞めにした末に

ロープで絞殺する手筈であったが男性信者の抵抗に遭い、慌てた末に男性信者の首の骨

を折って殺害してしまう。続いて坂本堤弁護士一家殺害事件の実行役に指名され、坂本

家に侵入し、坂本の妻(当時29歳)らを絞殺。

当初男性信者殺害事件では犯行後、茫然自失に陥り、後悔の念をあげたりしていた。坂

本弁護士一家殺害事件の際にも精神的に不安定になり、山に死体を埋めにいった時には

、新潟の海岸でひとり呆然としていたという[7]。だが中川智正や端本悟とそれぞれ5日

間独房に監禁されたり、麻原から与えられた「悪業によって地獄に至っても本望だ」な

どという詞章を数万回唱えるなどして洗脳され[8][9]、その後、数年間教団の信者の指

導、監督、スパイ、拷問などを担当、苦しませるのを楽しんでいるような雰囲気すら持

つようになっていった[10]。男性信者殺害事件、坂本弁護士事件の共犯者である宮前一

明によれば、「村井と同じくらいかわいがられていた。日本語の解るドーベルマン」[11

]。

1990年2月、衆議院議員選挙に真理党候補として東京10区から出馬し落選した。選挙の敗

北により麻原は大規模テロを指示。新実もボツリヌス菌テロ計画に関与し、北海道で土

壌を採取したり、実験用マウスを購入するなどして協力。浄水場付近に散布していた際

に警察に検挙されたこともあった[8]。

1990年7月8日、26歳のときにマハー・ムドラーの成就を認定され、正悟師となる。

1992年9月教団のロシア進出に伴い、オウム真理教モスクワ支部の初代支部長を務めなが

ら頻繁に日本との間を往復する[12]。

最も血なまぐさい男[編集]

新実はその後も殆どのオウム事件に関与することとなる。

教団内では信者の監督・監視を行い、省庁制施行後は自治省大臣となっている。薬剤師

リンチ殺人事件に関与したほか、オウム真理教男性現役信者リンチ殺人事件では凄惨な

拷問を主導、温熱療法関連事件では 教団内で禁止されている男女交際をした教団元仙台

支部長に温熱修行を強要し死亡させる(事故として処理され立件されず)[13]、温熱療

法に疑問をもって教団を出た看護師を拉致するなど、残忍な犯行を繰り返しており、裁

判を傍聴し続けた降幡賢一は新実を「最も血なまぐさい男」と評した[14]。一方で男性

信者リンチ殺人事件で麻原に指示されたマイクロウェーブ焼却炉での殺害を避けたり、

男性信者殺害事件の被害者が地獄ではなくシロクマに転生したことを聞いて安堵したり

、松本サリン事件で共犯者に対して犯行前に意志の確認を行ったりするなどと人間味も

見せていた。ステージの低い信者に対しても礼儀正しかった[15]。

毒ガス関係の事件にも1993年の池田大作サリン襲撃未遂事件をはじめとして多く関わっ

た。池田サリン事件では第2次攻撃で防毒マスクを外したせいでサリンを大量に吸引し重

体に陥りオウム真理教附属医院に搬送され、治療の結果一命を取り留めた。江川紹子

スゲン襲撃事件、駐車場経営者VX襲撃事件、会社員VX殺害事件でも実行犯の一人。松本

サリン事件では警備役、地下鉄サリン事件では千代田線でサリンを散布した林郁夫の送

迎役であった。地下鉄サリン事件では人が倒れているのをテレビで見て「グルの意思を

達成できて嬉しかった[16]」という。逮捕後、大乗のヨーガの成就を認定され正大師に

昇格。

裁判[編集]

1995年4月12日、霞ヶ関のマンションで逮捕される[17]。取調官には「自分を尊師と一緒

日比谷公園公開処刑してほしい」と言ったとされる[18]。

一連のオウム真理教事件で計11件で26人の殺人に関与したとして殺人罪などに問われた

。死者26人は麻原彰晃の27人に次ぐ死者数である。なお公証人役場事務長逮捕監禁致死

事件については被害者の死亡には関与しておらず、新実の被害者への死亡への関与が認

定されなかったのはこの事件のみである。

法廷では、「尊師と一緒に断罪されたい」「ポアは慈悲の心による救済」と麻原崇拝と

オウムの思想を捨てることなく、最後まで事件の正当性を主張し、「私自身は、千年王

国、弥勒の世のためには、捨て石でも、捨て駒でも、地獄へ至ろうと決意したのです。

つまり、多くの人の喜びのために、多くの人の救済のために、この身体、この生命を投

げ捨てて殉じようと覚悟したのです[19]」と語り、「日本シャンバラ化計画(オウム真

理教の国家転覆計画)が実現させられず申し訳ない」と別の意味での謝罪を行った。贖

罪としては死刑となり、来世において真理勝者になることしかないとした[20]。また、

内乱罪の適用を主張した[17]。

麻原の裁判に証人として出廷した際には麻原を守るためか黙秘することもあったが、自

分の裁判では「オウムの正史を残すため」として、事件の全貌を率直かつ正確に答えた

。やがて麻原の裁判でも、尊師は悟っておられるから問題ないはずとして事件の内容を

語り始めた。麻原に帰依している者が事件の詳細を語ったことは、結果的にオウム犯罪

の大きな証左となった。麻原は新実に「消えろ」「破門だ」などと怒鳴り証言妨害をし

ようとする場面もあった[21]。

第一審・控訴審と死刑判決を受け、上告したが2010年1月19日に棄却。2月16日に判決に

対する最高裁への訂正申し立ても棄却され死刑が確定した。オウム真理教事件で死刑が

確定するのは10人目[22]。

被害者に対しては、「オウムの犯罪の原点とされる富士山総本部のリンチ殺人事件から

最後に関わった地下鉄サリン事件まで、すみませんとか申し訳ないとか言うつもりはあ

りません。それを言うくらいなら、最初からしなければいいのです[23]」、「全ては因

果応報。罪の無い人達が亡くなったのではなく何らかの原因がある[24]」と、決して最

後まで謝罪しなかった。論告求刑公判では検察側が論告を読み上げるのを声をあげて笑

っていた[25]。

獄中からも、信者たちへ教義の指導を続けていた。2006年7月から2007年4月までの1年間

文通をしていた麻原の四女松本聡香から「責任も取れないのに、そんなことをするのは

よくないのではないか」と疑問を呈される。四女との面会の際に新実が「すべてはシヴ

ァ神の意思なのですよ」というのに対し、四女が激しく反発したところ、「責めないで

ほしい、責めるならやり取りはやめる」と言い、それ以降二人の交流はなくなる。

結婚・妻の不倫[編集]

2012年、アレフ信者の女性と結婚。2016年、結婚直後の妻の以前の不倫相手男性2名に対

し、「著しい精神的苦痛を被った」としてそれぞれに100万円の損害賠償請求訴訟を起こ

す。裁判記録によれば、「原告にとって妻との交流は生きがいであり、人格的生存に直

結することであった。その妻に不貞されたことは、多大な精神的苦痛を与えるものであ

った」ことや不倫発覚後、急激にやつれ体重が10㎏以上も減って戻らなくなったこと、

妻を信じていただけにその苦痛は他人には到底わからない。妻を孤独にさせたのは自分

の責任ではあるが、そこに付け込んで単に性欲のはけ口に妻を悪用された私の身にもな

ってほしい、などという陳述書が添付されていた。裁判では不倫は認定され、新実が出

廷できず提訴取り下げ処置となった1件は別にして、他の1件では和解が成立。被告は80

万円を支払った[26]。

公安関係者の話によれば、新実の妻は貞操観念が緩い女であり、そのことをネタにアレ

フに男性を勧誘したとして2013年に逮捕され、翌年には有罪判決を受ける。このため、

獄中の新実の知るところとなり、上述の結果を招いた。その後、妻はアレフを脱退。妻

によれば新実は、訴えたいという気持ちと恥ずかしい、みっともないという気持ちのは

ざまで揺れていたが、3年の時効が近づいたため提訴に踏み切った。和解金は支援団体に

寄付したという[26]。

新実と妻はその後「愛の交換日記」などと書かれた週2回の手紙を欠かさない。独房では

瞑想とヨガ三昧で、修行のため食事も1日1回に制限しているという。また、死刑執行後

は「ガンジス川に遺骨を流してほしい」と関東連合石元太一に依頼したという。民事

訴訟したうちの一人については、刑事告訴でも訴える構えで準備を行っているという[26

]。

死刑確定後[編集]

2015年、高橋克也の裁判に証人として出廷した。麻原への帰依は変わっていなかった[16

]。

2018年(平成30年)3月14日までは、新実を含め、オウム真理教事件の死刑囚13人全員が

、東京拘置所に収監されていた[27][28][29][30]。しかし、2018年1月、高橋克也の無期

懲役確定により、オウム事件の刑事裁判が終結した[27][30]。

オウム裁判終結に伴い、同年3月14日、麻原彰晃を除く死刑囚12人のうち、7人について

、死刑執行設備を持つほかの5拘置所(仙台拘置支所・名古屋拘置所・大阪拘置所・広島

拘置所・福岡拘置所)への移送が行われた[27][28][29][30][31]。新実は同日付で、井

上嘉浩とともに、大阪拘置所に移送された[31]。

2018年現在、安田好弘弁護士を担当に再審請求中である[32]。

人は皆 時の定まぬ 死刑囚 会って別れて 夢と消えゆく

雨が降り 天が泣くのか 水無月に 大地うるおす 慈悲の甘露

??死刑判決を受けて発表した短歌二首[33]

7月6日に刑が執行された麻原彰晃松本智津夫)死刑囚の四女が、死刑を受けて、弁護

士に自分の思いを綴ったコメントを送っていたことが明らかになった。

長くオウム真理教の被害者支援などに携わり、四女の代理人でもある滝本太郎弁護士が

、6日午後、自身のブログとFacebookに、「ご本人にコメント出しますか、と電話で聞い

て、少し考えてメールで送られてきたものです。このままアップして良いとのこと」と

いう追記とともに、次の文章を公開した。

私の実父松本智津夫が多大な迷惑をおかけした被害者の方、ご遺族の方、信者のご家族

、元信者の方、刑務官の方、そして世間の皆さまに改めて深くお詫び申し上げます。

死刑が執行されたことにより被害者の方、ご遺族の方が少しでも心安らかな日々を取り

戻せることを心より祈っております。

松本死刑囚は一度の死刑では足りないほどの罪を重ねましたが、彼を知る人間の一人と

して今はその死を悼みたいと思います。

執行はされるべきものでしたが、ただひとつとても残念に思うのはかつての弟子であっ

た元幹部まで6人も執行されたことです。宗教的な理由においても、責任の重さにおいて

も、今日の執行は教祖一人でないといけなかったと思います。洗脳されて事件に関与し

てしまった元幹部の執行の是非はもっと議論され熟慮のうえでないと社会に課題を残し

てしまうのではないかと心配です。

まだ信仰を続けている信者には、これ以上松本死刑囚の罪を増やさないようにどうか後

追いなどしないで、早く夢から覚めてほしいと願っています。

■四女「今も昔も父親とは思えない」

四女は2010年、「松本聡香」の筆名で「私はなぜ麻原彰晃の娘に生まれてしまったのか

」を出版。2017年11月、父母に対する推定相続人の廃除を横浜家裁に申し立て、認めら

れたことを会見で明らかにしていた。親から子ではなく、子から親に対して申し立て、

また認められるケースは非常に異例。

このときの会見の冒頭では、次のように語っていた。

=======

2006年1月より家族の元を離れ、2007年秋ごろ信仰とも完全に訣別し、それからは社会で

生きてきました。

事件が起きて教団の信者や幹部が逮捕されたのは、私が5歳から6歳のころでした。

2〜3歳のころから窓のない一人部屋で生活していました。

弟が生まれると、母の部屋に行っても「ここにはあなたの居場所はない」と追い出され

たのです。

父親のことは、私は今も昔もほとんど父親とは思えません。私が生まれたとき父は「グ

ル」であり「教祖」でした。私は一度も「お父さん」と呼んだことはありません。最初

から「尊師」でした。

破片入りのオムレツを食べさせられたり、真冬に薄着で何時間も立たされるなど父の命

令で死にそうになったことがあります。

今の日本では親子の縁をなくす制度がないので、現行法で出来ることはしましたが、生

きていくにはまだ障害が残っています。戸籍で家族が繋がっていることと、親の記載が

あることです。結婚や出産などができません。気持ちの問題もありますが、現実の問題

でもあります。