ままならないのがending!

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 看取り士が世の中に知られるようになって久しい。

 エンディングにおける希望も個々に思いはあろうとも

ままならない環境であることもじかくしたいもの!

 近頃では大学病院においても検体を断られる例も少なくない。

 みこちゃんは幸い昭和50年代の早い時期から登録は済ませています。

生きてご迷惑かけたのでせめて死後の検体を

医療のためにささげたいと希望しています。

これは、母の死後「胆管がん」といった

当時ではあまり多くないケースのために

解剖を依頼されましたが

末期がんの壮絶な戦いに思いをはせたとき

その痛みまでも自分の中に抱え込んで

亡くなった母の苦痛に対し、どうしても招致する気にはなりませんでした。

これは今では本当に愚かであったと深く反省仕切りです。

また、担当医の淡々とした対応にも少なからずの不満も抱いていたことが要因でもありました。

 ですからせめて私の提供で自己満足の簡潔に

道筋を求めたと言うことにもなるのでしょうか!

 家族があればそれなりの話し合いであるべき最後の要求もかなうというものでもあります。

 生まれる喜びも様々!

また,死に行く旅立ちもさまざま!

 死に行く前の病魔だっても様々。

想定できない死は想定外も多々あるはず。

どのようなエンディングになろうとも

いつも感謝の気持ちを少なからず傍らに置いておきたいもの!

恨みつらみは忘れてごみぶくろに!

 春夏秋冬の厳しさにも感謝と喜びに包まれていたいもの?

     東洋経済より。

幸せに旅立つために必要な4つのこと がんで逝ったある新聞記者の「納得いく最期」

明るい夫婦の、へこたれないがん闘病

2017年4月、東京新聞編集委員吉岡逸夫(当時65歳)は、人間ドックで糖尿病と診断された。だが、それはただの始まりにすぎなかった。

こちら

「その後、新聞社内の診療所の看護師さんから、『糖尿病なのに、体重がどんどん減っていくのはおかしい』と指摘されて、千葉の自宅近くにある総合病院で、精密検査を受けてみたんです」

妻の詠美子(49歳)が振り返る。

約3cm大のすい臓がんと診断されたのが翌5月。標準治療は手術・抗がん剤放射線の3つだが、手術と放射線はもはや手遅れという診断だった。

抗がん剤は体力をいたずらに奪われるだけだからと、夫婦で拒否しました。すると、適切な治療方法を自力で探すしかありませんでした」

次に取り組んだのが高濃度ビタミンC点滴。がん細胞がエサである糖質と勘違いして、エサにならないビタミンCを食べることで、結果的にがん細胞を兵糧攻めにする治療法だ。

「保険適用外なので、点滴1回で2、3万円。毎日打つと月に約100万円が消えました。でも、航空会社のクレジットカード払いにすると、マイルがどんどん貯まるんです。だから、『よし、マイルを貯めて沖縄旅行だ!』って2人で盛り上がって、意外と明るい闘病生活でしたよ」

詠美子は快活な口調で話す。彼女自身、約3年前に子宮がんが深刻化する寸前で見つかって摘出に成功。だが、一時はエンディングノートを記入するほど追いつめられていた。意外と明るい闘病生活は彼女の楽観主義と、一連の経験にも支えられていた。

ビタミンC点滴をお盆休み期間も継続したい、と探した都内の総合病院で再検査をしてもらうと新たな事実がわかった。千葉の病院では無理だと言われた放射線治療がまだ可能だった。

「千葉と都内で、総合病院の診断レベルに格差があることを痛感させられました。でも、落ち込むよりも、3つの標準治療のうち2つができるなら、放射線抗がん剤に取り組もうと治療方針を転換したんです」(詠美子)

2017年10月中旬から都内の総合病院で2本立ての標準治療を開始する。

治療直前、吉岡はかつて取材した、日本看取り士会の柴田久美子会長(65歳)と再会した。保険外治療で貯めたマイルを使っての沖縄旅行からの帰路途中の東京駅だった。それが、吉岡の闘病と終末期を変えることになる。

体が冷たくなったと感じて心が納得する

その約5年前、2013年9月13日の中日新聞夕刊に、吉岡は柴田の記事を書いている。

記事では、柴田が小学6年のとき、自宅で実父から最期に「ありがとう」と告げられた看取りの原体験や、病院も葬儀社もない島根の離島で約14年間学んだ、看取りの作法や文化などについて語られている。

「今は死というものが身の回りにないから、どうしていいか分からない。分からないから看護師や葬儀社に任せる。自分たちは一切手を出さない。そうすると心にぽっかりと穴があく。(中略)私はぬくもりがある間は気持ちは伝わると考えているので、一緒にそばにいましょうと勧めます。(中略)体が冷たくなったら冷たいのを確かに感じてもらう。そうでないと心が納得しない」(冒頭記事より抜粋引用)

離島の内外で約200人を看取ってきた柴田には死生観がある。

「人は良い心と魂、体を親からもらって生まれてくる。死によって体は失われても、良い心と魂は家族に引き継がれる。だから死は怖くない」

家族から依頼を受けた看取り士は、肉親を抱きしめて看取り、良い心と魂を引き継ぐことを勧める。それを「いのちのバトンを受け取る」と呼ぶ。前回記事でも紹介した、幸せに看取るための4つの作法の1つだ。

吉岡は柴田の考え方と実践に感銘を受けたが、まさか約3年半後、自身の看取りを柴田に依頼することになるとは想像もしていなかったはずだ。

吉岡が柴田に依頼したのは、自身が暮らす千葉県内で利用できる在宅治療を行う医師(以降、在宅医)の紹介。依頼者が求める情報提供も、看取り士の仕事のひとつだと柴田会長は説明する。

「吉岡さんの場合は、日本尊厳死協会に電話をして、千葉県内の在宅医を紹介したり、全国の在宅医が網羅された雑誌を送ったりしました」

看取り士はその他、関係者への聞き取りや訪問を通して、信頼できる在宅支援の診療所や訪問看護、介護事業所などの提案も行う。

「柴田さん、昨夜は40分間痛みが消えなかった。(在宅医に)早く死なせてくれと叫んでしまったよ。でも、今は痛みがまったくなくて幸せだね」

翌2018年2月8日、柴田らを千葉の自宅に出迎えた吉岡は、リビングに置かれたベッドの上でほほ笑みながら話した。

66回目の誕生日だった1月下旬。吉岡は肝臓へのがんの転移が見つかったと柴田にメールで連絡。抗がん剤治療は試みるが、すぐに緩和治療に入りたいので、会って相談させてほしいという話だった。

8日当日、吉岡は上機嫌だった。家族への形見分けだという30冊近い自身の著作物を柴田らに見せながら、個々の取材話を雄弁に語っていた。在宅医や訪問看護師はすでに決まり、看取り士の派遣依頼をこの日済ませたことで、吉岡を自宅で看取る体制は整ったことになる。

「たくさんの方々が周りに集まってきてくれて、世話を焼いてくれるなんて、僕はなんて幸せ者だろう。僕は全部すべきことはした。今は死ぬのにちょうどいい。柴田さん、看取り士はもう一人の家族だね」

依頼者の口から「幸せ」と「死」がセットで、朗々と語られるのは珍しい。多くの人は自分の死を簡単には受け入れられないからだと柴田は言う。

「柴田さんが26年かけてやりたかったことを、僕は今やっとわかった。人生の最期を病院任せにせず、自分の意思でちゃんと決めて、幸せに旅立っていくべきだということだね。これからも頑張ってね。僕は自分がやりたいことを妻に全部受け入れてもらえて、とても幸せに締めくくれるよ」

そう話しながら吉岡が見せた笑顔が最高だったと、柴田は話す。いのちの終わりを受け入れた人だけが見せる、悟りの境地を感じさせた。吉岡の瞳は透明感をいっそう増していく。夫妻の愛犬チワワの「風太(ふうた)」も同じベッドの上でちぎれんばかりに尻尾を振っていた。

その部屋にいる全員が、吉岡の「幸せ」オーラに包まれて笑顔になるほどでしたからと、柴田は振り返る。

このときの柴田は、吉岡の「もう一人の家族」という言葉を、自分をふくめた看取り士への親近感の表現として、笑顔で受け止めた。だが、そこに秘められた、もう1つの意図に気づくのは少し後になる。

人間の尊厳を保ち、自分の意思で旅立つ幸せ

「吉岡が在宅死を選択した理由は、柴田さんとの出会いが大きかったと思います。自分の意思とは無関係に延命治療のチューブまみれにされて、わけがわからなくなるのは絶対に嫌だったんです」

妻の詠美子は、誤診から病院を転々とさせられて、病院自体を嫌がっていたせいもあると補足した。病院だと検温だ、検診だと自分のペースで過ごせない。吉岡は最期まで自由でいたかったんでしょうね、と。

かつて柴田が働いた老人施設では、住み慣れた施設で逝きたいと望んだ高齢者たちが、終末期になると病院に次々と送られて、延命治療のチューブにつながれた。人間としての尊厳など考慮される余地もなかった。

結局、柴田らの訪問後に看取り士会側から吉岡宛に契約申込書が送られたが、間に合わなかった。本来、看取り士は実際の看取りから納棺まで携わるのだが、形式の有無は問題ではないと柴田は言う。

「私と出会ったことで、吉岡さんは自分の意思で、どこで、誰と、どんな最期を迎えるのかという大切な自由を、ご自身で選び取られたからです」

柴田の訪問から4日後、吉岡はもう話せなかった。その夜は詠美子が吉岡のシングルベッドの右隣に添い寝をした。一人娘はベッドの左側に布団を敷いた。看取り士は抱きしめて看取ることを勧めているが、詠美子もそうしようと決めていた。

「あの夜は眠りが浅くて、約2時間おきに目を覚ましていました。翌朝6時半頃に目を覚ますと、あっ、息をしてないと気づいて、あわてて娘を起こしたんです」

在宅医が来るまで1時間以上かかった。手持ち無沙汰な時間を、詠美子は安堵と悔恨の間で揺れつづけた。

「体の痛みにかなり苦しんで、最後の数日は『早く肉体から解放されたい』って話していて、2日ほど前に勝利宣言をしたんですよ。『俺は肉体から解放されそうだ』って。家族3人でピースサインをして写真も撮りました。

だから『パパ、お疲れ様』という気持ちと、『(最期は)起こしてくれたらよかったのに……』という気持ちが、交互に寄せては返すようでした」

手を触るともう冷たくなり始めていて、母娘で吉岡の両手や両脚をさすりながら、他愛もないおしゃべりを続けた。

「やっと(肉体と痛みから)解放されたね」

「今頃、勝利宣言してるよ」

「(臨死体験で)上から見てるんじゃない?」

故人の体に触れながら本人にまつわる話を交わす時間を、看取り士は「仲良しタイム」と呼ぶ。残された家族が死を受け入れるための大切な時間だ。

体は病んでも心は健やかな人の締めくくり方

4月下旬、筆者は柴田と吉岡宅を訪問。詠美子は家族葬で流したCD-ROMを聴かせてくれた。「肉声」とは言い得て妙で、淡々とした口調でありながら、本人のいないリビングで吉岡の存在を強く感じさせた。

「……われながら幸福な死を迎えられたと思います。①子どもが自立していること。②借金がないこと。③思い残すことがないこと。④やさしい配偶者に介護してもらえたこと。⑤人間の尊厳が保たれたことなどの理由があるからです。

告別式に当たって、(中略)何を言っているのかわからないお経を唱えられる代わりに、私が生前に好きだった音楽を流させていただきます。私が好きだった曲を聴きながらあんな時代があったなぁ、逸夫はこんな曲を聴いて頑張っていたのかと思い出していただければ、うれしいです」

ハーモニカの前奏から吉田拓郎の『今日までそして明日から』が始まり、井上陽水の『少年時代』や中島みゆきの『ファイト』へ。全28曲は、亡くなる約3カ月前から詠美子がレンタル店に通って編集したもの。

家族葬の後、霊柩車が火葬場にたどり着く頃にニニ・ロッソの『夜空のトランペット』を流したいって、すっごく細かいところまで本人は考えていたんですが、そこまでは無理でした。そもそも、火葬場で音楽を流すこと自体がダメだったんですけどね」

詠美子が苦笑しながら明かす。

吉岡は享年66歳だから、30代から40代の父親世代に当たる。あなたの親はどんな死生観を持ち、どういう最期を思い描けているだろうか。

あなた自身はどうだろうか。もし明日、体が病気に冒されても、心の健やかさは保ちつづけ、「幸せだ」と連呼して旅立てるだろうか。

「死の準備という土台がある上で、やりたいことをしている人には迷いがありません。吉岡さんはその土台が見事に整った人でした」

柴田はそう語る。その「土台を整える要素」とは何か。

2)誰に介護してもらうのか(配偶者・家族・友人)

3)医師や看護師は、誰にお願いするのか(病院・施設・在宅医)

4)1)から3)までをふくめて、最期の暮らしをどれだけ具体的に思い描けるのか

柴田は上記4つを挙げる。だが、実際には自分や家族の死をタブー視するあまり、死が目前に迫ると慌てふためき、貴重な時間をムダに過ごしてしまう人のほうが多いとも指摘する。

吉岡は違った。すい臓がんのビタミンC治療に取り組んでいた、死の約半年前にエンディング産業展へ夫婦で出かけた。

吉岡は遺骨を粉砕したものを練り込む小ぶりな表札大の、名前入りの墓石の購入と、一周忌での海洋散骨を決めた。家族の墓参りの手間をはぶくためだ。彼の死後、詠美子が手元供養用に母娘2人分の墓石と、夫の故郷である愛媛県に面する瀬戸内海への散骨サービスの契約を結んだ。

がんの治療中に墓石の準備なんて縁起でもないと思う人が多いはずだ。しかし、吉岡も詠美子も「死は人生の大切な締めくくり」だと考えていた。

「穏やかで幸せな最期を迎えるためにこそ、死をいたずらに遠ざけず、むしろ夫婦や家族できちんと話し合い、準備する必要がある」

吉岡は闘病中に何度かそう話していたと、詠美子は話す。

亡き夫からの「最後のラブレター」

「今は私の最期が必要だなって、思っています」

詠美子がそう言うと、「私がお世話します」と柴田が返した。

「えっ、近々沖縄に引っ越すんですけど……」

「沖縄にも看取り士会の研修所がもうすぐできますから、大丈夫ですよ」

実は、仏前で手を合わせたときにピンときたんです、と柴田が続けた。

「吉岡さんが先日言われた『看取り士はもう一人の家族』という言葉は、看取り士への親近感だけでなく、『だから妻のことも頼む』という意味が込められていたんだって。先に逝った人は残された家族への愛が深いんです」

「よろしくお願いします」と詠美子は柴田に頭を下げてから、「嫌だぁ、亡くなった日からずっと泣かないできたのに……」と声を上げると、明朗な彼女はとっさに顔をそむけた。

吉岡は妻の誕生日にプレゼントをあまり贈らなかった。そういう愛情表現は苦手だった人らしい最後のラブレターだった。

(=文中敬称略=)

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