沖縄戦争終結記念日。

     ご機嫌いかがでしょうか。

 視界ゼロのみこばあちゃんです。

 沖縄には今だ70パーセントが基地として存在しています。

おきなわにはいまだあおぞらはない!

 沖縄のおじい、おばあは言う。誰も沖縄を助ける者はいなかった。

まさにその通りです。

当時の政府が3か月前に敗戦を実行決断で来ていたなら

このような悲劇などなかったはずである。

 ポツダム宣言の受諾を優位に進めるための犠牲など

余りにも命を軽視しているとしか言えない。

政府は決断が下せぬままに、昭和天皇にその決断が委ねられた。

にわか作りの青年軍隊によくも竹やりで戦わせたものだ。

食料品まで自給自足を迫るなどまるで

日本人が生きるために死んでほしいといっているようなものだ!

 多くのわが子を失った多くの民に対する思いは

あまりにも深く心の叫びは

阿部総理の慰霊のあいさつからは届くことはなかった。

命が尊ばれない戦いを強いた政府の責任はあまりにも大きすぎます。

沖縄を重視された天皇両陛下の思いはいかばかりであったことでしょう。

また沖縄の方々の国を超えた御霊に対する熱い思いには

感動すら覚えたものでもありました。

沖縄に散った多くの御霊は

ひとえに政府の負の遺産としかいえない!

     産経より。 

【速報中】安倍首相、黒のかりゆし姿で平和祈念公園に (6/23)

式典会場に到着し、翁長雄志・沖縄県知事とあいさつする安倍晋三首相(中央)=20

18年6月23日午前11時49分、沖縄県糸満市、竹花徹朗撮影

[PR]沖縄で23日、戦後73年の「慰霊の日」を迎えました。糸満市摩文仁の平和祈念

公園で追悼式が開かれ、夏の高校野球地方大会も開幕。沖縄をめぐる問題について専門

記者が解説しながら、1日の動きをタイムラインで追います。

りゅうちぇるさん、目撃した米軍ヘリ墜落 沖縄慰霊の日

海に捨てられた甲子園の土 長島三奈さんがたどった球史

沖縄戦とは何だったのか

沖縄はいま

沖縄 1935 写真でよみがえる戦前

写真特集:知る原爆・知る沖縄戦

球場で黙?(もくとう)し戦没者に祈りを捧げる選手たち=2018年6月23日正午、

沖縄県沖縄市、日吉健吾撮影

翁長知事先頭に、献花始まる(12:05)

 追悼式の会場では、翁長(おなが)雄志(たけし)知事を先頭に参列者の献花が始ま

った。

 翁長知事は4月に膵臓(すいぞう)の腫瘍(しゅよう)を切除する手術を受け、その

後、腫瘍はがんだったことを公表した。今も抗がん剤治療を続けている。この日は、か

ぶっていた黒い帽子を脱いでから献花台に向かった。

 献花中は「つしま丸児童合唱団」と「那覇少年少女合唱団」の小中学生ら43人の合

唱の歌声が、ピアノの伴奏に合わせて響いた。

 「6月23日待たず/月桃の花/散りました/長い長い/煙たなびく/ふるさとの夏

 曲の一つ「月桃(げっとう)」の一節だ。沖縄の学校で慰霊の日を迎えるこの時期、

平和学習の観点からよく歌われている。シンガー・ソングライター海勢頭(うみせど)

豊さんが作詞作曲し、沖縄戦の悲劇を描いた映画の主題歌にもなった。

4500人の参列者が黙?(12:00)

沖縄大会の開会式で整列した選手たち=2018年6月23日午前9時20分、沖縄県

沖縄市朝日新聞社ヘリから、堀英治撮影

 正午の時報に合わせて、約4500人の参列者は静かに頭を下げたり、手を合わせた

りして、沖縄戦の犠牲者に1分間の黙?(もくとう)を捧げた。

遺族らの「平和祈願慰霊行進団」が入場(11:30)

沖縄大会の開会式で選手宣誓する北部農林・岸本宗太選手。スコアボードの上には半旗

が掲げられた=2018年6月23日午前9時37分、沖縄県沖縄市、日吉健吾撮影

 沖縄戦犠牲者の遺族らでつくる県遺族連合会の「平和祈願慰霊行進団」が、平和祈念

公園の追悼式会場後方から6列になって入場した。車いすの人を押す人や親子連れの姿

もある。

沖縄大会の開会式で一斉に行進する選手たち=2018年6月23日午前9時18分、

沖縄県沖縄市、日吉健吾撮影

 行進団は午前9時ごろ、糸満市役所前を約800人で出発し、約8・5キロの道のり

を2時間ほどかけて歩いた。行進は沖縄の本土復帰前の1962年に始まり、今年で5

7回目。出発地点を変えながらも毎年続いている。

安倍首相、平和祈念公園着 「NO安倍政権」掲げる人も(10:57)

 安倍晋三首相が沖縄県糸満市摩文仁平和祈念公園に入った。その後の午前11時ご

ろ、公園内の国立沖縄戦没者墓苑で、福井照・沖縄北方担当相や謝花喜一郎・沖縄県

知事らとともに献花した。

 公園の入り口では「NO安倍政権」「沖縄戦の慰霊とは基地を無くす事」と書かれた

紙を掲げる人の姿もあった。

師範学校生徒を慰霊 「2度と戦争起こさないのが、同僚へのあり方」(10:30)

 平和祈念公園の海側の断崖に立つ沖縄師範健児之塔では、死者を悼む三線が奏でられ

た。14歳から19歳を中心に「師範鉄血勤皇隊」として戦場動員されて亡くなった沖

師範学校男子部の生徒らを悼む慰霊祭。約200人が参列するなか、生徒らを引率し

、45年6月21日に近くの海岸で死亡した野田貞雄校長の孫、謙二さん(61)も東

京から駆けつけた。謙二さんは「亡くなった方々の魂の叫びが聞こえてきます。これか

らも慰霊祭を大切にしていきたい」とあいさつした。

 師範鉄血勤皇隊は386人中226人が死亡している。生存者の一人が、昨年6月に

亡くなった大田昌秀元知事。参列する生存者は年々減り、昨年は6人。その後、一人亡

くなった。当時15歳だった古堅実吉さん(88)は「2度と戦争を起こしてはいかん

というのが、亡くなった同僚たちへの最大のあり方。73年経ちますが、誓いを新たに

する日々です」と話した。

在沖米軍トップのニコルソン中将、米兵の名も刻む平和の礎に献花(10:30)

 沖縄に駐留する米軍トップのローレンス・ニコルソン中将らが平和祈念公園に姿を見

せた。制服に制帽姿。沖縄戦などで犠牲になった米兵の名前が英字で刻まれた平和の礎

(いしじ)の前に花輪を供えた。

 記者団に「ここはとても心を動かされる場所。今日のこの日はとても大切だ」などと

話した。

安倍首相、黒の「かりゆし」姿 那覇空港着(10:12)

 安倍晋三首相が喪服の黒い「かりゆしウェア」姿で那覇空港に到着した。国会議員

らは首相のほか、大島理森衆院議長と伊達忠一参院議長、福井照沖縄・北方担当相らが

「沖縄全戦没者追悼式」に出席する。

米兵らに「今日は非常に大切な日」などと語りかける在沖米軍トップのローレンス・ニ

コルソン中将(左)=2018年6月23日午前10時35分、沖縄県糸満市、伊藤宏

樹撮影

選手宣誓「慰霊の日の沖縄から、平和への思い」北部農林・岸本主将(09:40)

 高校野球沖縄大会の開会式では、北部農林の岸本宗太主将(17)が選手宣誓。「こ

こ慰霊の日の沖縄の地から平和への思いを込めて」と力強く告げた。岸本主将は最近に

なって、一緒に暮らしている曽祖父が沖縄戦を体験し、家族と一緒に逃げ惑ったという

話を新聞で知ったという。「気になっていたけどずっと聞けなかった」といい、宣誓に

も「平和」の文字を盛り込んだ。「自分たちのやってきたことを全て出したい」という

岸本主将の初戦は、7月1日。

高校野球沖縄大会が開幕 球場に「半旗」(09:00)

 第100回全国高校野球選手権記念沖縄大会が、南北北海道と並んで全国に先駆けて

開幕した。晴天となったコザしんきんスタジアム(沖縄市)で、開会式が始まり、過去

最多となる65校が入場行進。慰霊の日と開会式がかさなったため球場には「半旗」が

掲げられた。戦後、沖縄代表が甲子園に初出場してから60年の節目の大会となる。

(解説)慰霊の日、日本軍司令官が自決したとされる日

 沖縄戦などで亡くなった戦没者を追悼する6月23日の「慰霊の日」。沖縄県内の学

校や役所は休みとなり、各地で慰霊祭が開かれる。正午には県内の消防署などでサイレ

ンが鳴らされて黙?(もくとう)するなど、沖縄中が慰霊ムードに包まれる。

 太平洋戦争末期の1945年3月下旬に始まった沖縄戦では、沖縄本島中南部や伊江

島などで、軍民が入り乱れた激しい地上戦が行われた。北部や離島でも多くの人が飢え

マラリアで亡くなり、沖縄県によると、戦没者数は日米の将兵や民間人ら計約20万

人にのぼる。うち沖縄出身者は、県民の4分の1にあたる計約12万2千人(住民9万

4千人、軍人・軍属2万8千人)を占めた。

 戦後の61年、米国統治時代の立法機関である「琉球立法院」が、沖縄の日本軍司令

官が糸満市摩文仁(まぶに)の司令部壕(ごう)で自決したとされる日を「慰霊の日」

と定めた。

 ただ、自決日は6月22日との説もあるほか、それ以降も散発的な戦闘は続いた。米

軍に「保護」された民間人も、劣悪な収容所に押し込められ、多くの命が失われたとい

われる。沖縄で日本軍が正式に降伏文書に調印したのは9月7日だった。(上遠野郷)

(解説)平和の礎、24万人の名を刻む

 平和の礎(いしじ)は、沖縄戦の激戦地の一つ、糸満市摩文仁(まぶに)の平和祈念

公園内に造られたモニュメントだ。黒いびょうぶ型の刻銘版118基が扇形に並び、2

4万1525人の名前が刻まれている。戦後50年の1995年に建てられた。

 一番の特徴は、沖縄出身者だけでなく、本土出身の日本兵や米英の軍人、朝鮮半島

台湾の出身者など、国籍や出身地に関係なく沖縄戦で亡くなった全ての戦没者名が刻ま

れていること。こうした慰霊碑は、世界中にほとんど例がないと言われる。

 沖縄戦戦没者は約20万人とされる。礎の刻銘数がそれより多いのは、沖縄出身者

については1931年の満州事変以降の戦没者も刻銘されているため。学童疎開船「対

馬丸」をはじめとする戦時遭難船や、沖縄全域が攻撃された44年10月10日の「十

・十空襲」、激戦地となったサイパンなどの南洋群島でも、沖縄出身者がたくさん亡く

なっている。

 今年も新たに判明した58人が追加で刻銘された。激しい地上戦で戸籍などの記録が

失われたうえ、戦後も米統治下に切り離されて長く混乱が続いたため、沖縄戦の被害の

全体像は今もわかっていない。(上遠野郷)

孫に「戦争の怖さ、伝えなくちゃ」与那城哲雄さん(08:00)

 午前8時を過ぎ、セミの声が大きくなった。ずらりと並ぶ「平和の礎」の刻銘板の前

で、花やお菓子を手向ける家族連れの姿が増えてきた。

 那覇市の与那城哲雄さん(79)は、孫の猪野屋望明(のあ)さん(14)と利桜(

りお)さん(12)を連れて礎を訪れた。「これがいとこ。これがおじいちゃんのおば

あちゃん」。刻まれた名前を指で一つずつなで、みんなで並んで手を合わせた。

 サイパン生まれ。一家5人で暮らしていた4歳の時に米軍が上陸し、父と弟、妹を失

った。サイパンの収容所で終戦を迎え、母と2人で沖縄に戻ると、祖父母や伯父、伯母

、いとこらはほぼ全滅。自身は戦争の記憶はほとんどないが、「刻銘板のあちこちにね

、全部で14人(親族の)名前があるよ。すさまじいことです」。

 ここ5年ほど、孫を連れて礎を訪れている。「私らはやがてあの世に行く。戦争の怖

さを、ちゃんと伝えなくちゃと思ってね」。隣で聞いていた利桜さんは言った。「大丈

夫。これからも毎年ここに来るよ」

父の名前がある礎の前で手を合わせる新垣好子さん(左)=2018年6月23日午前

6時28分、沖縄県糸満市伊藤宏樹撮影

「戦後73年、軍の基地たくさん。平和な沖縄に」新垣好子さん(06:30)

 南城市の新垣好子さん(78)は、沖縄戦で亡くなった父の具志堅政睦さんの名が刻

まれた礎の前にござを敷き、お盆の上には水、お茶、お菓子を並べ、たばこに火を付け

て立てかけた。「いつも見守っていてください、と祈りました」

兄2人の名前が刻まれた礎石の前で手を合わせる池原ヨシ子さん=2018年6月23

日午前6時14分、沖縄県糸満市伊藤宏樹撮影

 終戦当時は5歳で、父の記憶はほとんどない。母も終戦の5年後に病気で亡くなった

。「父の顔は写真でしかわからない。その上、母もいない。隣近所から家族だんらんの

笑い声がする時や、学校の行事に友だちの親が来る日は、とにかく苦しかった。そんな

子ども時分の思い出ばかりでね」

 いま「戦争は完全には終わっていない」と思っている。「戦後73年にもなって、沖

縄には軍の基地がたくさんある。山のほうではまだ演習がある。孫たちが平和に暮らせ

る静かな沖縄にしてほしい」

兄が戦死「悲しさこみ上げる」池原ヨシ子さん(05:45)

 水平線にかかる雲の上に太陽が現れ始めたころ、沖縄市の池原ヨシ子さん(89)は

、平和の礎(いしじ)に刻まれた兄2人の名前の前に正座した。名前の部分を何度もな

で、紙袋から出した花と日本酒を供えて、静かに手を合わせた。「毎年のことなのに、

何でここに来ると悲しさがこみ上げてくるのかねぇ」

黎明の塔に花を供える陸上自衛隊第15旅団の隊員ら=2018年6月23日午前5時

1分、沖縄県糸満市伊藤宏樹撮影

 池原さんは7人きょうだいの末っ子。6番目の兄徳市さん(享年17)は那覇市の海

軍司令部壕(ごう)近くで戦死し、長崎にいた4番目の兄亀助さん(享年27)は原爆

で亡くなった。

 高校を卒業して結婚し、3人の子どもに恵まれた。だが、おなかに3人目の子がいる

ころ、夫が家を出た。20代後半から英語を学び、米軍嘉手納基地で43年間、タイピ

ストとして働きながら子どもたちを育てたという。

親族の名前が刻まれた平和の礎で手を合わせ、引き揚げる人たち=2018年6月23

日午前6時53分、沖縄県糸満市平和祈念公園、松本俊撮影

 「寂しかったけど、とにかく働くしかなかった。私が健康でいられるのは兄たちのお

かげ。戦争がない、平和な世界であってほしい」

日が昇る中、親族の名前が刻まれた平和の礎を水で清める子どもたち=2018年6月

23日午前6時11分、沖縄県糸満市平和祈念公園、松本俊撮影

陸上自衛官有志が慰霊(05:00)

黎明之塔に花を手向ける陸上自衛隊第15旅団の隊員たち=23日午前5時2分、沖縄

糸満市摩文仁

 空が少し明らんできた午前5時すぎ、平和祈念公園糸満市)の中で一番の高台に立

つ「黎明(れいめい)之塔」に、制服姿の陸上自衛官約40人が現れた。一団は一言も

発さずに花を手向けると、石碑に一斉に頭を下げた。

平和の礎の前で、涙ながらに三線(さんしん)を弾く人=2018年6月23日午前6

時39分、沖縄県糸満市平和祈念公園、松本俊撮影

 先頭に立つのは陸自第15旅団(那覇市)の原田智総旅団長。集まったのはあくまで

「有志」で、前身の第1混成団が沖縄に置かれた1973年以来続く「私的な参拝」と

いう。

親族の名前が刻まれた平和の礎の前で、手を合わせる夫婦と子どもたち=2018年6

月23日午前6時42分、沖縄県糸満市平和祈念公園、松本俊撮影

平和の礎には参拝の人たちが訪れた=2018年6月23日午前9時42分、沖縄県

満市、朝日新聞社ヘリから、堀英治撮影

 黎明之塔は、沖縄戦を戦った日本陸軍の沖縄守備軍「第32軍」司令官の牛島満中将

らの慰霊碑だ。戦いに殉じた指揮官である一方、司令部を首里から多くの住民がいた南

部の摩文仁(まぶに)に撤退させて持久戦を続けたため、住民の犠牲を増やしたとも言

われる。このため、牛島中将の碑を現役自衛官たちが制服姿で参拝することには異論も

あり、インターネットなどで議論になることもある。

 ただ、2回目の参加という井筒太介3等陸佐は「黎明之塔だけ訪れるのではないのに

、そこばかり注目されてしまう」と言う。実際、隊員たちは約40ヘクタールに及ぶ広

大な平和祈念公園内を黙々と歩いて回り、一般戦没者を追悼する「しづたまの碑」や、

殉職した県職員らを悼む「島守之塔」などにも花を手向けた。「あくまで戦没者たちを

追悼したい。今日も静かに手を合わせました」

早朝から犠牲者悼む

 「慰霊の日」は、太平洋戦争末期に激烈な地上戦が展開され、組織的戦闘が終わった

とされる日だ。

 沖縄県糸満市平和祈念公園にある、沖縄戦戦没者らの名前が刻まれた「平和の礎

(いしじ)」には、早朝から、多くの人が訪れ、犠牲者を悼んだ。

 沖縄戦は1945年3月末に始まった。4月1日には米軍の本島への上陸が始まり、

当時の県人口の4人に1人にあたる県民12万人以上が犠牲となった。日米の軍人を合

わせると、死者は20万人に上るとされる。

「健児の塔」の下にあるガマで祈る仲本幸代さん(中央)と家族。「兄を亡くしました

。天国からいつも私たちを見守ってくれている兄に感謝しています」と話していた=2

018年6月23日午前9時36分、沖縄県糸満市、竹花徹朗撮影